傾き30度の希求

みやけ あい

傾き30度の希求

 ええ、ええ、よく覚えております。私は数十年と看護師をやりましたが、あの患者さんのことは、よく覚えておりますよ。あなたからお手紙がきて、この日を心待ちにしていたの。だって、あの方のお話は、あまり誰にでもできるようなことではありませんでした。ご親戚のあなたに、私が生きている間出会えて本当によかったわ。なんでも好きなものを頼んで頂戴、なんて、そんなお年でもないかしら。月日が過ぎるのは早いものですね、私があの方の担当になったのも、もう、50年も前のことになってしまいました──。



 当時、私は看護師になって5年ほど経っていました。まだまだ甘ちゃんですけれど、それなりの経験も積んで、生も死もたくさんみたの。そんな頃、うちに入院してきたのがあの方──お名前でよんでもいいかしら──Kさんでした。

 Kさんは私と同い年で、若い方が入院してこられたのね、と思っていました。勤めていた病棟は年老いた癌患者の多いところで、若い方は少なかったのです。

 末期に近い癌だったKさんは、個室に入られました。はじめてお会いしたときは、柔和な笑顔が印象的で、とても優しい方に見えました。あと、これはあなたに言うのも少し気まずいのだけれど……私の初恋の人によく似ていたので、ひとめでお顔を覚えましたね。よろしくお願いしますとおっしゃって、その声もまた、とても優しい声でした。

 入院してすぐのKさんは、結構お元気でいらっしゃいました。身の回りの整理をてきぱきとなさって、言われなければ病気に侵された体であることはまったくわからないぐらいです。あのとき、Kさんに残された命は2ヶ月と言われておりましたのに。入院するときは家族のどなたかが一緒に来られる方も多いのですけれど、Kさんはお一人で入院されました。ですから、ご自分で動くか、私たちがお手伝いするかしかなかったのですね。しんどくないのか心配になった私はお手伝いしましょうかと言いかけましたが、あまりにも手早く整理されるものでしたから。結局すべて、自分でなさいました。

 個室の患者さんは、割と色々なものを持ち込まれる方も多いのですが、Kさんは必需品以外には数冊の本と、それから、置時計を持ち込まれただけのようでした。ベッドの隣近くにある引き出しの上に置時計をのせておられましたが、私は不審に思いました。病室にはもともと時計がついているのです。また、真っ黒な置時計でしたから、なにもかも白い病室にぽつと黒子のように浮き上がって、なんとも言えない異様さを感じさせました。ただの時計ですのに、本当に不思議でした。なぜ時計を置かれたのですか、とひとこと尋ねることすら、なぜか憚られました。当時の私にも、何か直感が働いていたのかもしれません。

 

 入院されてから、Kさんの病状は医者の予測通りに重くなっていました。優しいお顔立ちは変わりませんでしたけれど、とても痩せられましたし、肌も青白くなっておられました。病室の色と同化していくような、そんな感じでした。

 そうして1か月ほど経ったときです。私はいつも通り検温や身の回りのお世話をするためにKさんの病室を訪れました。Kさんは口数の少ない方でいらっしゃったし、静かに過ごされるのが好きなようでしたから、私もあまり話かけることはしていませんでした。ですから、部屋にはカチ、カチと置時計の秒針の音だけが響いていました。病室もKさんも白白としているのに、依然として、真っ黒な置時計は引き出しの上に座っておりました。

 いつものように……あ、私は毎日引き付けられるように置時計を一度は見ていたのだけれど。そう、いつものように置時計をみた私はあれ、と思いました。昨日まで合っていた時間がずれているんです。確か、10分ほど遅れていました。私はKさんに、時計の時間がずれていますけれど、合わせましょうか。そう聞きました。そしたらKさんは少し考えてから、そのままでいいです。っておっしゃったの。本当に、不思議だった。最初にお話ししたように、時計は病室に備え付けられていましたから別に不便ではないけれど、ずれた時計をそのまま置いておくなんて。なにを思っていらっしゃるのだろうと思いました。

 それから、毎日1、2分ずつぐらい、時計は巻き戻っていくようになりました。私は電池切れだろうか、代えなくていいのだろうか、と思っておりましたけれど、Kさんは気に留めている様子もなくて。どうしても気になったんです。なんでそのままにしておくんだろうって。私は、Kさんに一度理由を尋ねることにしました。時計を置かれたときは、尋ねることができなかったのに、そのときはできたの。なんでだろう、もしかしたら、Kさんが死に向かっているのを感じて、聞けずじまいになってしまったら一生引っ掛かったままになってしまう。そう思ったのかもしれません。なんとも自分勝手な話です。

 時計をなぜ遅れたままにされているんですか。そうお尋ねしました。Kさんは少し驚かれたようでした。今まで何も言ってこなかった看護師がいきなりそう言ってくるのですものね。うーん、と考えてから、長く生きられるような気がして、とおっしゃいました。つまりこうです。もし死ぬ時刻が決まっていたとして、遅れた時計の時刻からその時刻の間は、普通の時計より長くなるでしょう、と。なるほど確かに、と思ってから、驚きました。少し語弊があるかもしれませんが、Kさんは死が近いことを甘受しているように見えていたからです。必死に生きたいだとか、できるだけ長生きしたいだとか、そんな気持ちは感じられませんでした。過ぎていく時間に、身を任せているような。そんなふうでした。ですから、Kさんに死を遠ざけたい気持ちがあるのだと知って、意外だったのです。

 

 そうやってKさんとお話ししてから、また1か月ほど経ったとき。入院してから2ヶ月。そう、2ヶ月です──余命宣告通り、Kさんは亡くなられました。私は、あの日のことを今までずっと、忘れたことはありません。


 Kさんが危篤状態になったのは、夜の10時頃でしたでしょうか。ご家族がお見えになりました。お母さま、ただおひとりでした。他にご家族は、と思って担当医に聞きましたら、沈黙しておりました。独身でいらっしゃいましたし、入院中尋ねてこられる親しいお友達はおられせんでした。それに……あとから聞いた話ですけれど、Kさんはあまりお父さまとの折り合いがよろしくなかったようで、勘当同然で家を出た身だったそうです。ご兄弟──あなたのおばあさまもそうですね──もKさんを看取りに行くことを許されなかったとか。お母さまは最期のときだけは、と、なんとかいらっしゃったようでした。

 それから2時間ほどして、日付の変わる頃。Kさんはありがとう、と小さく呟かれて、優しい笑顔を浮かべながら、あまり苦しまれることなくお亡くなりになりました。ご臨終です──お亡くなりの時間は12時3分です。そう担当医が告げました。お母さまのすすり泣く声と、それから、置時計の秒針の音だけが聞こえました。

 

 私は、いつもの癖で、置時計を見ました。私は目を見開きました。黒い置時計は、11時を指していました。

──もし死ぬ時刻が決まっていたら。

 Kさんの言葉が頭にこだましました。

──もし死ぬ時刻が決まっていたら。


 ……時計の針を遅らせると、実際よりも、早く、死ぬのです。もしKさんが、この黒い置時計しか時間を確認するのに使っていないのだとしたら。Kさんのなかでは、11時に自分は死んだということになっていたのかもしれません。

 その置時計は、お母さまが持って帰られました。亡くなってからその置時計をお母さまが手にするまで約半日ありましたが、その時計はその間、1分たりともさらにずれてはいなかったと、そう記憶しております。


 Kさんが自ら時計をずらしたのか、それともお母さまが置時計を手にされるまで半日は偶然ずれなかっただけで、それまで自然にずれていたのか。それは分かりません。また、Kさんがずれた時計を最期まで置いてらした真意も、分かりません。ですが、あなたから、Kさんの遺書が見つかったと聞いて、そしてその遺書のに綴られた孤独なKさんの半生を聞いて、私はあらためて、思ったの。Kさんは、本当は早く死にたかったのではないか、と。

 わかりません。もしかしたら、本当に長く生きたいという思いがあったのかもしれませんし、また、別の理由があったのかもしれません。すべては私の妄想に過ぎないのかもしれません。

 しかし、考えてしまうのです。長く生きられるような気がして、という言葉がもし、私を困らせないための口実だったとしたら。Kさんが死への希求を持ちながら、生きたいと嘘をついたのだとしたらと。

 

 私はとても残酷なことをしてしまったように思えて、しかたがないのです。

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