第8話 逃げたな

 濃い緑の重なりに文明の匂いなどない。南国の古都は、複雑に絡んだ樹木の公園と共に悠久の歴史を刻んでいた。

 まだ夜は明けきっていないが、運が悪く強い雨になってしまった。

 ヨシはナナ地区から船に帰るためタクシーに乗った。吹きっさらしのトクチャーでは濡れてしまうからだ。第一この天候ではさすがにトクチャーも姿を見せていない。


「おまえ日本人か?」


 運転手が声をかけてきた。


「そうだ」

「ナナに行ってきたか?」

「ああ」

「ナ~ナ~、レディー。マテアム、ナイス!」


 運転手は一方的に話し続けた。

 まだ雨は降っている。船まで五十メートル近く有るが、これ以上は行けないと言うので、仕方なく倉庫の前で降りた。車は行ってしまい、軒下で灰色に鈍る空を見上げていた。だが、さらに強くなる雨脚にあっさり諦めた。ギャングウエイと呼ばれる船側はしごに向かって、障害物を乗り越え走り出す。

 時折、オレンジ色をした街灯が白く浮かび上がる。

 火薬をたっぷり使う旧式な銃火器の発砲音、それを圧倒するほどの凄まじい雷鳴が夜空を裂き地上を威嚇していた。


 どしゃ降りの雨も上がり、やがていつものじっとりと暑い朝日が上ってくる。甲板に積まれた中古の建設機材がまぶしい日差しを浴びていく。

 船内ではヨシの主な居場所、無骨な厨房の丸窓にリベットの頭が並んでいる。少し前から、重そうな靴の階段を下りる音が響いている。近づいた足音の主が頭をかがめるようにして、その男にとっては狭い入り口を入って来た。いつも濃紺の作業着を着ているこの船の機関長で、笑うと口がハート型になるという面白い顔をしている。

 だがこの男、今でこそ善良な社会人をきどっているが、昔は相当な無茶をしてきたらしい。

 いつものしかかるように話をしてくる。


「バーでたまたま隣にいた男がな、絡んで因縁をつけてきたんだ。『てめえは臭うな、くさいんだよ』なんて言いやがった。適当にあしらっていたが、しつっこくナイフまでちらつかせたから俺はきれた。鼻息をかけてくる男の髪をつかむと首を仰向けに……」


 機関長はさらに身を乗り出す。


「こうなったら俺はプロだ。そいつの片眼にウイスキーグラスを押しつけて、目ん玉くりぬくと脅してな。言ってやった。『この野郎、てめえの息とどっちがくさいんだ。その光るナイフは伊達じゃないんだろ、使ってみろ』ってな。するとそいつは急に……」


 女の話題ばかりではない、自称元ケンカ請負人だという機関長の口からは、気が向けば物騒な話がごろごろと出てくる。

 中年も少し過ぎて、頭はてかてか、腹も出て腰の痛みを訴えている。女好きなとこだけはヨシと似ているナイスガイだ。七福神の布袋様みたいな顔で笑うくせに、気が短く手を出すのがめっぽう早い。

 もともとは家業を嫌った三男坊だった。どうせ漁師だと大型漁船を擁していた家を飛び出し、盛り場で厄介事を始末する仕事を生業としていたという。

 ケンカ稼業を地でいくキャラだ。

 ただし武道の心得なんかない。鋭い勘と気迫がすべてだった。殺伐とした世界に生きてはいたが、根は陽気な性格だったから戦いを楽しむ時期も有った。だがある時大けがを負って、やくざな生活から引退した。その後は経験の有ったこの仕事を確保したらしい。

 ところが今朝は、いつものエロ話やすごみの有る話をする時と違う顔で声をかけた。


「おい、船長がおまえを捜してるぞ」

「朝帰りをなにか言われるのかな?」


 ナナワールドからの朝帰りを教授したのは機関長だ。


「そうじゃない、あいつのこと――」


 人の気配を感じ取ったのか機関長が振り向く。今度は半そで姿のダンディな船長が現れた。渋く、なかなかの男前で色事には理解が有る。靴音もなく、ゆっくり厨房に入って来ると機関長の隣に立った。日に焼けた顔に笑みを浮かべヨシを見ている。


「お~、昨夜は良かったか?」


 ごまかすように笑ったヨシに船長は言葉を続けた。


「ところで、おまえ厨房長のことを何か知ってるか?」

「いえ、今朝はまだ会ってませんが、何か有ったんですか?」

「逃げたな。昨日公安から連絡が有って、今朝来ることになってるんだがな」


 船長の話では、公安警察が乗船する予定になっているという。だが内密に身辺を捜査されていたらしいそのボス、いや厨房長が今朝になると消えていたのだ。


「あいつ何で分かったのかなあ」


 最後にそう呟いた船長は厨房を出て行った。


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