第30話
「しかしまあ……」
封筒をそっとジャケットのポケットに仕舞い込み、俺は呟いた。山間部のためか、天気予報よりずっと体感温度は低い。俺の息も白くなるほどだ。
俺はそっと、周辺の民家や、それを取り囲む山林を見遣った。薄っすらと霧がかかっている。俺はあの日の霧雨を思い出さずにはいられなかった。
「夏奈も苦労してんだろうなあ」
自分で言葉にしておきながら、やはり彼女の名前が認知されるのは辛いものがあった。
雨宮夏奈。俺はかぶりを振り、頬を叩くことで、彼女の名前を脳みその隅に追いやった。
彼女が苦労しているというのは、事実を知っている人間ならば誰でも思い当たることだ。
殺害や致命的な負傷を避けながら、複数の者(動植物含む)の争いを仲裁する。実際やってみると、これは予想以上に困難だったはずだ。
この山林の熊や猪たちだって、俺があと十人いても追い返せないほど。だというのに、夏奈は今や八十億の人間に対して、自らを律するよう促していかねばならない立場だ。
「今頃どこで何やってんだろ」
って、いかんいかん。また彼女のことが頭をよぎってしまった。
二度と会えないのなら、忘れてしまえば――。そう思ったことも、一度や二度ではない。
しかし、問題が二つある。
一つは、そもそも彼女を忘れられはしないということだ。
俺の心は、彼女に科せられた呪いと同じく、何か強力な力で締め上げられている。下手をすれば、突然涙腺が崩壊してしまうような、感情的な力だ。
もう一つは、いずれ彼女を死に追いやらねばならない、ということ。
俺の寿命が尽きるまでを考えれば、夏奈は二百年近くをこの世で過ごした、ということになる。それは、あまりにも長すぎやしないだろうか。人間社会を自滅の道から救い続けるには、残酷なほどに。
彼女がこんな茨の道を歩み続けねばならないというなら、いっそ俺が命を絶って、彼女を楽にしてやるべきではないか。
「なんて、な」
俺はふうっ、と長い息を吐いた。彼女がいつまで、いや、いつまでも俺を心に留め置いてくれるかなど、分かりはしないのだ。
彼女が新たな幸せを見つけ、添い遂げるべきと思う異性が現れたとしたら、俺は潔くこの席を譲るつもりだ。しかし、夏奈を取り巻く状況が全く分からない以上、俺は自分の死ぬタイミングを選べない。
そもそも、自殺願望があるわけでもないし。
もう一度頬を叩く。それが刺激になったのか、俺はあることを思い出した。
今日は、須山が非番なので、ネットでのテレビ電話をする予定だったのだ。
約束の時刻は、午前九時。
「朝飯食えばちょうどか」
そう呟いて、俺は家に引っ込んだ。
今日の朝食は、スクランブルエッグに玄米、それに猪肉のステーキ。
俺はむやみやたらと野生動物を駆逐するのには反対だが、この村の文化、人々の食生活は尊重している。たまには獲物を食べる日があってもいいだろう。
無造作にテレビを点け、肉塊にかぶりつく。うん、美味い。濃い目に味付けしたのがちょうどよく胃袋を刺激してくれる。俺は玄米の山盛りになった茶碗を手に、思いっきり掻き込もうとした。
まさに、その時だった。
俺は危うく、口内の米粒を吹き出すところだった。何故なら、音信不通が続いていた日暮夕子が、テレビに出ていたからだ。冬物商戦を控えたデパートに、リポーターとして乗り込んでいる。
「あ、あいつ! 何やってやが……」
と思ったら、別人だった。確かに、最後に別れてから少し髪を伸ばしたようだし、眼鏡もよく似合っていたけれど、夕子の目元に泣きぼくろはなかったはず。
「何だ、人違いかよ」
俺は、安堵感と寂寥感を同時に覚えた。
小林や須山と違い、夕子は音信不通だったのだ。夏奈同様、どこで何をしているのか、皆目見当がつかない。
俺が警察官としての資格を剥奪されてから、彼女の居場所を探し回ったこともあった。しかし、高校にはおろか、街にも、警察署にもいなかった。
まあ、何らかの理由によって警察組織に匿われているのだろう。『理由』と言ったが、これは恐らく、情報管理やデータの保全技術に長けているから、ということだ。もしかしたら、盗聴などの任務も含まれるのかもしれない。
警視庁も、自分の手駒として夕子を味方にしておきたいだろうし。
俺は無造作にテレビのチャンネルを変える。すると、どこかの火力発電所で事故があった、との速報にぶつかった。日本ではないようだが、轟々と火の手が上がるのが、上空からの映像で見えた。
俺が認識したのはそこまで。テレビは切ってしまった。
何故か? 映像に海が含まれていたからだ。
「せっかく山の中に越してきたってのに、なんで海を見せるんだよ……」
一言で言えば、俺は海が怖い。怖くて怖くてしょうがないのだ。
五ヶ月前のあの日、俺が一生添い遂げようと胸に秘めていた件の少女は、あの海の向こうに消えてしまった。アメジスト色の潤んだ瞳を、俺の記憶に焼き付けながら。
そんな女性を、優しく穏やかにとはいえ、海は連れて行ってしまった。
「そうだ、銃の整備をしなくちゃ」
我ながらわざとらしく声を出す。そうでもしなければ、一生動けずに終わってしまいそうな気がしたから。夏奈のことが、頭の中、胸の奥で膨らみすぎてしまうといけない。俺は潰れてしまう。
俺は狙撃銃を分解し、麻酔弾を撃ち出しやすいように改良した油を差して、また組み立てていく。
「あれ?」
おかしいな。油に水滴が混じっている。これでは整備し直しではないか。
だが、水なんて一体どこから――。
顔を振り向けた直後、水滴は勢いよく俺の顎先まで流れていった。
ああ、そうか。俺は泣いていたのか。自覚ができてしまえば、後は簡単。幼子のように泣きじゃくる。
そんなことしか、俺にはできない。
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