第8話【第二章】
【第二章】
最初に知覚されたのは、軽い接触音。キーボードを叩く音だ。夕子に及ばずとも、十分早い。
次に姿勢と、全体的な感覚。どうやら俺は横向きになっており、清潔な空間で寝かされているらしい。
上半身を起こそうと、ゆっくり身体をくの字にしようとした。が、しかし。
「いてどわぁ⁉」
左肩に激痛が走った。熱した包丁で切れ目を入れられたかのような。それでも上半身のバランスを取るべく悪戦苦闘した結果、俺は寝かされていたベッドから落っこちた。
その頃になって、俺はこの部屋が上品な香りで包まれていることに気づいた。そして間接照明で、部屋全体が明るくなっていることにも。
それを認識する刹那、
「涼真くん!」
と声を掛けられた。曲がった視界の中、こちらに歩み寄ってくるのは、夏奈だった。
「だっ、大丈夫?」
「ああ、悪い、ちょっと落っこちただけだ」
「あら、そう?」
素っ気ない言い方のわりには、夏奈の姿は酷く心配そうに、それから元気そうになって見えた。
って、待てよ。俺は部屋を見回した。1LDKの、大学生なんかが住みそうなマンションの一室だ。この室内に、もう一つのベッドやソファといったものは見受けられない。
と、いうことは、だ。
「ええええええええ!」
「こ、今度はどうしたの?」
パソコンの前の回転椅子をくるりと回し、夏奈が振り返る。
「じょ、冗談じゃねえぞ!」
「冗談って?」
「お、俺、よりにもよって、その、女子の部屋のベッドで寝てたのか……?」
「む。失礼だね、涼真くん」
ぷくっと頬を膨らませながら、夏奈は言った。
「私だって一介の女子高生だよ? ここが女子の部屋であるのは当然じゃない。それとも、涼真くんはずっと私を男子だと思って――」
「違う違う! 女子だから困ってるんだ! お前、勝手に怪我人を自分のベッドに寝かせるな! これじゃあ俺は、女子のベッドに忍び込んだド変態じゃねえか!」
「困る?」
「困る! こんなところ誰に見られたら――」
「この部屋には私と涼真くんしかいないよ?」
「そう、だから――って、え?」
姿勢を戻した俺の前で、夏奈ははっきりこう言った。『私と涼真くんしかいない』と。
な、何だこの状況? すんごく恥ずかしいぞ。しかも夏奈は瞳を潤ませている。俺は心臓が喉元で鳴っているような錯覚に陥った。
「涼真くん、頭でも打った? 大丈夫?」
「ま、まあ、そういうことに関しては大丈夫だ、多分……」
「多分?」
「あー、そういや状況がどうなったのかを訊いてなかったな! 教えてくれ、夏奈。冬美には勝てたのか?」
「逃げられた。気絶させてからこの部屋に連れ込んで、お説教しようと思ったんだけどね。涼真くん、怪我が酷かったから、涼真くんの処置を優先したの」
この左肩のことか。
「そ、それは面倒かけたな」
すると夏奈は、ゆっくりとかぶりを振った。
「あなたをあの戦闘に連れ込んだのは私だもの。怪我の責任は私にある。ごめんなさい」
「ちょ、止めろよ土下座なんて!」
すっと膝をつく夏奈。土下座にしては綺麗で丁寧すぎる気がしたが。
「ともかく、あなたには催眠術をかけて、私と一緒に徒歩で帰ってきてもらったの。このマンションにね。本当はタンクローリーの運転手さんみたいに、その場で治癒魔法を使えればよかったんだけれど、冬美に意外なほど魔力を持っていかれてね。処置できなかったんだ」
「そう、か」
俺は立ち上がり、軽く左腕を回してみた。うむ。痛い。
「魔力、ってことは、やっぱりお前、魔女なんだな?」
「うん」
頷いて、渋々認める夏奈。
「あっ、でも昨日の爆発事故とは関係ないよ! 今までの事件や事故は――」
「全部冬美の独断専行だったんだろ? お前らの会話聞いてりゃ分かるよ」
「そ、そう?」
「ああ。お前は平気で人を傷つけられるほど、愚鈍な人間じゃない」
安堵からか気恥ずかしさからか、夏奈はぽっと頬を赤らめた。
「話は戻るけど、魔力が切れたらどうなるんだ? 死んじまうのか?」
「いや、凄く疲弊した状態にはなるけど、命には関わらないよ」
「そうか。俺を催眠術で誘導することはできるけど、この傷を治すだけの魔力はなかったわけだな?」
「うん」
「魔力って、休めば回復するもんなのか?」
「そうだね。だから、今だったら肩の傷も治せると思う。どうしようか?」
ううむ、ここは素直に診てもらうことにしよう。
ふと興味が湧いて、俺は尋ねた。
「夏奈、お前と初めて会ったのは、去年の四月でいいんだよな?」
「初めて? あ、うん」
「何かさっきまで、いろいろ解説してもらってばっかりだったから、俺も話をさせてもらていいか? このままじゃ、フェアじゃねえような気がして」
「う、ん。好きにしてもらって大丈夫だよ」
俺は、夏奈が俺の左肩に手を当ててるのを見つめながら、話し始めた。
「最初は俺が五歳の頃だった。人生が狂い始めたのは」
※
十二年前、ある日のこと。
「うっわーーーーーーー! すっごーーーーーーーい!」
「こら、走り回っちゃ駄目よ、涼真! お父さんたちの迷惑になるわ」
当時五歳だった俺は、お袋の言うことなんて無視して、馬鹿みたいに広い廊下を馬鹿みたいに走り回った。
「大丈夫だよ、お母さん。研究者ってのは奇妙な生き物でね、いつもは他人のことなんてそうそう気にしやしないんだが――」
「誰かの家族が来ると、態度が変わる?」
「そう。自分たちの研究を世に発表したいって連中がウズウズしてるのが研究所って場所なんだ。今日、君と涼真を連れてくることは伝えてあるから、皆興味津々でね。特に、涼真には」
振り返ると、両親は笑みを浮かべていた。
クリスマス間近のある日。何か欲しいものはあるかと尋ねられた俺は、我ながら素っ頓狂なことを言い出した。それが、『お父さんのお仕事を見てみたい!』だった。職場見学みたいなものである。
子煩悩だった両親は、俺の願いを聞き入れるべく、最善を尽くしてくれた。親父は民間人の見学許可申請を。お袋はたまった年末集中業務の片づけを。
こうして鬼原家三人は、今、関東某所にある最先端技術研究本部のうちの一つに足を踏み入れていた。
当時、俺の興味を惹いていたのは、ずばり人工衛星だった。我ながら奇妙な子供だったと思う。だが、たまの休日に帰ってくる親父が、自分の研究に関して熱弁を振るう様子を見るのは、とても楽しかった。
そういう意味では、人工衛星に興味を持ったのは親父の影響、なんだろうか。それでも、俺の気持ちに偽りがあったわけではない。俺はこの日を心待ちにしていた。
『今、お父さんたちは、新しい人工衛星を造っているんだ。これには、最先端の気象観測システムが搭載される。天気予報が当たりやすくなるよ』
そう語る父の姿を見て、俺は自分自身も誇らしい気持ちになったものだ。
俺は両親より一足先に、ラボや試作機の製作室、スーパーコンピュータの置かれた冷却室などを見回った。どれもこれも、意味は分からなかった。しかし、俺の好奇心を満足させ、さらに貪欲にしていくには、十分すぎるほどの魅力があった。
今思えば、どうして俺は両親と歩調を合わせなかったのだろう? それが生死を分ける決断だったとしたら、俺は何か躊躇ったり、狼狽えたりしたのだろうか?
親父の後輩だという若い研究員に連れられて、ラボからラボへと渡り歩いていた、その時だった。ずどん、という短い重低音と共に、研究所全体が振動したのは。
「伏せろ、涼真くん!」
俺を抱き締めるようにしながら、近くのデスクの下に潜り込む研究員。気配からして、皆が同じ所作を取っている。と同時に照明が消え、真っ赤な非常灯が点滅し始めた。
「おい、地震か?」
「違う! 揺れは一回だけだ!」
「まさか、爆発か?」
そんな大人たちの声を無視して、俺は来た道を引き返した。
「待って! 涼真くん、まだ危ないよ!」
追いすがる研究員の手を逃れ、スライドドアを抜ける。そのドアは、たまたまカードキーの施錠が外されていた。しかしそれが良かったのか悪かったのか、未だに俺は判じ損ねている。ドアの向こうの光景が、あまりにも残酷だったからだ。
そこには、五人の人間がいた。いや、その身体があった。魂が抜け出て、肉塊となったものが。
非常灯の赤によって、飛散した血飛沫や露出した臓物が見えづらかったのは幸いだ。
それでも、判別はついた。眼鏡姿の親父と、スーツ姿のお袋。
その後、大人たちがどやどやとやって来て、いろんなことを叫んだり、喚き散らしたりしていたが、そのあたりの記憶は極めて曖昧だ。
気づいた時、俺は病院にいた。てっきり、どこか怪我をして、あるいは風邪を引いて入院させられているのだと思ったが、そうではなかった。身体はどこも痛くはないし、熱に浮かされている感じもしない。
その後、数日間にわたって、数名の医師と面談をした。しかし、そのどれもが要領を得ないものばかりだった。それはそうだ。俺はこう言い続けたのだから。
『僕の身体はどこも悪くありません』『両親に会わせてください』
そう言うと、皆が顔を顰め、それから哀れむような目を向け、曖昧な笑みを浮かべたものである。
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