誘惑の紫

月人美下

第1話

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昔々あるところに、1人の女の子がいました。

貴族の家に生まれた彼女は大きなお屋敷でいつもたった1人きりで過ごしておりました。

生まれつき身体の弱かった彼女は友人と外で遊ぶことを禁じられ、広い庭で駆け足になることも禁じられていました。

両親は日々慌ただしく仕事に向かい、お手伝いさんも彼女の身の回りのお世話をするばかりで、決して彼女と遊んではくれません。

娘の身体を心配した両親から無闇な干渉は避けるよう厳しく言いつけられていたのです。

そんな彼女の夢は、本で見た大きな犬と一緒に、広いお庭を駆け回ることです。

ですがそれは、彼女にとって、夢のまた夢のことでした。

毎日毎日、たくさんの本を読んで、絵を描いて。

前触れなくやってくる苦しさに身体を蝕まれて。

そんな娘を不憫に思った両親の図らいで8つの誕生日にもらった瑠璃色のインコは、彼女の唯一の友達でした。

彼女は毎日色々な言葉を教え、利口なインコはその言葉をすぐに覚えていきました。

インコと彼女は2年の月日を共に過ごしました。


「あのね、私、星が好きなの。」

「ホーシ、ホーシ。」

「そう、星よ。」


鳥籠の中でホシと繰り返すインコにふわりと微笑み、彼女は部屋の大きな窓を開けました。

そして窓際に鳥籠をそっと運びます。


「ねぇ、見える?」


夜空に瞬くのは小さな光。

その色は一体インコには何色に見えているのでしょう。


「私ね、あの星が好きなの。たった1つ、紫に光る星。不思議よね、他にそんな色を放ってる星なんてないのに…」


うっとりと想い人を見つめるように夜空を眺める彼女の長いブロンドの髪を夜風が撫でていきます。

インコは言葉を繰り返すこともなく首を傾げました。

そして少女はいなくなりました。

翌朝、彼女を起こすためにお手伝さんがやって来た頃には、空っぽの部屋と開け放たれた窓と、


「ムラサキ、ムラサキ」


と繰り返しながら羽を羽ばたかせるインコしかおりませんでした。


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「あー、何度読んでも面白いわ!」


ベッドの上に座ってお気に入りの本を読んでいたユーリア。膝の上に本を預け、両腕を高く突き上げ読書で縮こまった身体を伸ばしながら背中から倒れこみ、枕に頭を預ける。


「一体彼女はどこに消えてしまったのかしら…」


白い天井を眺めて本の中の少女に思いを馳せる。天井のシミ1つ1つが夜空に瞬く星に見えてきた。

ユーリアはとにかく元気な少女だった。

物語に出てくる少女とは正反対に赤毛の髪を肩より少し長めに切り揃えた彼女は、毎日のように外で友人たちと走り回るお転婆な女の子だ。それでも本は好きだった。いつも寝る前に短編の小説を1つ読む。特にお気に入りの本のタイトルは『temptatio』。このお話だ。難しい本のタイトルは読めないうえに意味もわからないユーリアだったが、特に気にしたことはない。きっと大人になったらわかるだろうと思っている程度だ。もう何度読み直したかわからないそのお話は、彼女にとって宝物なのだ。そして読み終わって窓を勢いよく開け星空を眺める行為は最早習慣になっている。

今夜もユーリアは膝を上の本を大事に抱き締めると、弾け飛ぶようにベッドから起き上がると窓を開けた。夜風がさらさらと髪留めのリボンを揺らした。見上げる夜空にはたくさんの星が散りばめられているが本に出てくるような紫に瞬く星なんて、ない。その事実にいつも落胆するのだが同時に胸が高鳴る。物語の世界に出てくるものが現実世界にそんなほいほい出てきてしまってはつまらない。それにきっと、いつか、時が来れば見れる気がしていた。この物語に出会ってからずっと信じている。それこそ物語に出てくる少女と同じ熱を孕んだ瞳で夜空を眺めていた。


「ユーリアー?まだ起きてるのー?そろそろ寝なさーい。」


部屋の外から母親の声が聞こえた。明日はユーリアの10の誕生日だ。両親と3つ下の弟と朝から出掛けることになっている。


「わかったー!おやすみー!」


大好きな家族と大切な誕生日を思う存分楽しむために、彼女は部屋のドアのほうに向かってそう叫んだ。夜空を眺めてドキドキした気持ちに明日のワクワクが重なって、今夜はなかなか眠れなそうだ。


「よし。とりあえず、ベッドに入ろうかな。」


名残惜しそうに窓の外をもう一度眺めて、ふと気付いた。そこに瞬く、どの星よりも綺麗に瞬く、紫の星に。

ユーリアは目を丸く大きく見開いて窓から身体を乗り出すようにして星空を見上げた。

さっきまでなかった星が突然現れるなんてあり得ない。しかしずっとずっと待ち望んでいた存在に心が踊る。

心臓の音がすごくうるさい。いや、それしか聞こえない。

興奮と名前のつけられない感情が沢山絡み合って震える右手を、ゆっくりとその星へと伸ばした。


「やぁ、やっと会えたね。ユーリア。」


何にも届くはずのなかった右手をふわりと他人の体温が包んだ。握り返されたのだ、この、男の人に。


「貴方…は、誰?え、浮いてるいるの?それに、どうして私の名前を…」


次から次へと起こる不思議な現象にユーリアの思考は停止し、驚いて手を離すことも出来ない。

そんな彼女に彼はくすりと小さく笑う。


「なんだか君は面白い子だね。僕はアゼール。それに、いつも僕を見ていてくれたじゃないか。」

「え…あ…」


よく見えると彼の瞳は物語で何度も読んで想像した、先ほど始めてこの目で見た美しい紫色をしていた。透き通る紫のその瞳は見たものを誘惑するかのようにまっすぐとユーリアを見つめて輝いている。優しく弧を描く口元には人より長い犬歯が覗く。もう牙と表現してもよい程に主張するそれは、整った顔をしている彼を更に魅力的な男性へと導いていた。夜空を吸い込んだような黒髪をかけている耳はつんととんがり、上を向いている。ふわりふわりと宙を舞う彼が人でないことは確かで、それでも優しく握られた右手はとても熱い。


「貴方…お星様、なの…?」


惚けた表情でそう尋ねるユーリアに彼もつられて首を傾げてから、声を出して笑った。


「ははっ!ほんとに君は面白いなぁ。」

「ちょ、笑わないでよ!もう!」


アゼールの盛大な笑い声に我に返ったユーリアはむっとを睨んだ。


「はは、ごめんごめん。うーん、そうだね。君がそう言うのなら、お星様…かな。」


顎に手を添え暫く逡巡する姿を見せると目尻を緩ませ、内緒だよ、とばかりに立てた人差し指を緩く唇に当てる。その仕草の美しさと言ったら、女性でも嫉妬してしまうだろう。優しい笑みはなにかいけないものを含んでいるようだった。明日10つの誕生日を迎える少女の頬は赤く染まり、胸は高鳴る。少女なりにこの感情の名前に気付いてしまったのだ。


あぁ、これが恋…初恋なのだと。


初めて感じる甘い感情に幼い少女は期待や憧れを無意識に感じているのだろう。潤んだ瞳でじっとアゼールを見詰めていた。そんな彼女を知ってか知らずか、宙に浮いたままの身体をアゼールがユーリアへと近付き、柔らかな少女の頬に優しく触れる。


「ねぇ、ユーリア。」

「な、に…?」


更に身体を近付けた男は、小さな赤い果実のようなユーリアの耳元で囁いた。


「僕と一緒に、きて?」


不適に口角を上げたアゼールの唇の形を、ユーリアは知らない。





そして少女はいなくなった。

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誘惑の紫 月人美下 @tsuki10mika_ss

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