第8話 窓居圭太、榛原マサルの異変を悟る

榛原はいばらマサルは、僕とミミコに語った。


彼はS機関で受けた自分への大がかりな人体改造から満4年が経過した時点で3つの選択肢、すなわち現状維持を続けて何年後かにある代償ツケを払うか、再度の手術を受けて日本人としての生活を完全に放棄するか、S機関のミッションから解放される代わりに4年間の記憶をすべて失うか、いずれかの道を選ばないといけないのだということを。


そしてそのいずれを選んだとしても、何がしの痛みや犠牲を伴うことを。


榛原は話を続けた。


「俺は数日前にS機関の日本支部から呼び出しを受け、昨日の夜、そこへと赴いた。


担当者は俺にこの3つの選択肢を改めて提示し、俺の判断を求めた。


俺はそれにすぐに答えることは出来ず、その夜は支部に泊まって考え続けた。


そしてけさ、再び担当者と向き合い、話し合った。


俺としては、第2の選択肢は絶対に避けたかった。


家族とも、そして圭太けいたをはじめとする大事な友人たちとも離ればなれになって他国でエージェントとしての人生を送るなんて、まっぴらごめんだったからだ。


また、第3の選択肢もけっして選びたくはなかった。


この4年間は、俺のこれまでの16年間の中で、一番大切な思い出に満ちた歳月なのだ。


一晩考えてみたものの、その記憶をすべて失うことは、自分の四肢をもぎ取られるぐらい辛いことのように思えた。


もし軽率にそれを選んでしまったら、圭太たちとのいい関係もこれまでのようには続けられなくなるんじゃないかという恐れが湧き起こってきた。


そりゃあ、もしそうなったとしてもきみたちの中の榛原マサルの記憶までなくなるわけじゃない。


きみたちの方は、これまで通りに俺に接してくれるだろう。


だが、俺自身の中の4年分の記憶がすっぽり抜けてしまうんだぜ。


アルバム4年分の写真が丸ごと消えてしまう、いやそれ以上のショックと欠落感を味わうに違いない。


俺は『誰かはよく知らないけれど自分に親しげに接してくれる他人』と無理に仲良しごっこをしなければならなくなる。


それは精神的にとても耐えられないだろう。


そう思うと第3の選択肢には、とても手が出なかった。


よって、比較するならば第1の選択肢しかないように思えた。


とはいえ、それを選んだところで、何年かのちには払わなくてはならないツケを抱えることに変わりはない。


そのツケの大きさを思うと、俺はとても憂鬱だった」


「で、担当のひとにはどう伝えたの、マーにい?」


ミミコが兄に尋ねた。


「俺はこういった自分の迷いを吐露し、ほかにいい手はないのだろうかと担当者に尋ねたのだ。


彼はしばらく考えていたが、おもむろに口を開いてこう言った。


『では、第4の選択肢として、こういうのも考えられますが、どうでしょうか。


あなたは身近な人たちとの関係にヒビが入ることを、なによりも懸念しているようですね。


それもとりわけ、あなたの妹さん、そして友人の窓居まどいさんとの関係が途絶えることを。


それらを保ちながらも、あなたが健康な状態で生き続けられる道が、ひとつだけあるかと思います』


彼はそう言って、その大きな青い目で俺をじっと見つめた。


1秒。2秒。


まるで深い海溝のようなその瞳に、俺は思わず吸い込まれそうになった。


『妹さんと窓居さんを、説得してください。


S機関のプロジェクトに参加して、エージェントとなるように。


そうすれば、あなたはひとりぼっちでエージェントを続けずに済むでしょう。


アメリカにも彼らを連れて移住出来ます。


それがたったひとつの冴えた解決法ソリューションだと思いますよ』


彼はにこやかに微笑んで、俺の手を握ったのだった」


榛原はそこでひと息入れた。


『要するに、そういう理由で僕とミミコは呼ばれたということか』


榛原の話を聞きながら、僕は得心した。


左隣りのミミコの様子をうかがうと、彼女は真剣な表情で唇を噛みしめている。指先も少し震えている。


榛原は再び口を開いた。


「だから、きみたちをここに呼んだ。


俺は担当者の言ったそのやり方が、もっとも現実的で正しい解決法だと思うんだ。


いや、いきなりプロジェクトに参加しろとか、部外者であるきみたちにとっていかにも唐突な頼みなのは、俺も分かっている。


だがそこは、賢明なきみたちのことだから、すぐに理解してくれるんじゃないかと期待している。


どうだろう。これからS機関の支部に一緒に行ってもらえないだろうか。


連絡すれば、すぐに迎えの車もやって来るから」


僕はその言葉を聞く間、ずっと別のことを考えていた。


『なぜ榛原は、僕たちをこのような場所に呼んだのか?


昼間なのにあえて薄暗いパブに呼び出したのか?


それはもしかして、明るい光のもとでは自分の変わりようを悟られてしまうので、それを防ごうとしてのことではないのか?』


僕は榛原にこう返事した。


「ちょっとだけ、時間をくれないか。一晩とは言わないから。


僕もミミちゃんも、さすがに考える時間が必要だ』


「たしかにそうだな。


いいよ、全然かまわない。俺だってすぐには決められなかったんだから」


榛原はそう言って、軽く笑った。


僕はそこでこう言って席を立った。ごくさりげなく。


「失礼。ちょっとお手洗いを使わせてもらうよ」


「どうぞ」


榛原は姿勢を変えずに、そっけなく返事をした。


僕は特に行く必要もなかったのだがトイレを使うふりをして、そして戻ってきた。


ボックス席に着く前に、僕は榛原の斜め後ろから声をかけた。


「そう言えば、ご両親はいつお帰りになるんだっけ、榛原」


その声に、榛原は思わず振り向いた。


ほんの一瞬だったが、確実に見えた。


榛原の瞳孔は、完全に開いていた。


「明日の夜、だったかな」


予想した通りの答えが返ってきた。その内容はどうでもいい。僕は「そうかい」とだけ生返事をした。


間違いない、今の榛原は何者かにコントロールされている。おそらくは担当者による催眠術か。


僕は席に腰を下ろして、榛原には見えない位置で両手の人差し指を組み合わせた。


「(今のヤツは)ヤバい」と言う意味だ。


目ざといミミコが横目でそれを見つけ、かすかにうなずいた。


これで臨戦態勢だ。後は突撃あるのみ。


僕は、今まで手をつけずにいた水の入ったグラスを手に取り、飲むポーズをとった。


「ミミちゃん、ダッシュだ!」


そう言うや僕は、グラスの水を思い切り榛原に引っかけた。


一瞬、榛原が驚愕の表情を見せた。


その隙をついて、僕とミミコはパブのフロアへと踊り出た。


入り口までの距離は10メートル弱。


たぶん、入り口のドアは空いているはず。


そう思った僕は、ミミコの手を引いて走り、取手をつかむのももどかしく、ドアに突撃した。


案の定ドアはそのまま開き、その勢いでふたりの人影がもんどりうってひっくり返った。


「撤収だ、お姉ちゃんズ!』


僕は力の限り叫んだ。


これまでずっと店内の様子を偵察していたわが姉しのぶ、そして従妹いとこ明里あかりがようやく我に返り、そしてこう叫んだ。


「「けーくん、後ろ!!」」


とたんに、背中に激しい痛みが走った。


「うっ!!」


僕はビルのフロアに崩れ落ちた。


榛原は僕の背中の上に、馬乗りになった。


「マー兄やめてっ、お願いだから!!」


ミミコの悲痛な叫び声が聞こえる。


「マサルさん、かんにん。どうか落ち着いてや…」


明里も懇願している。


が、榛原はこう言い切った。


「ミミコ、もうダメだ。


俺はおとなしく話し合いをしようとしたのに、お前たちが勝手に席を蹴ってしまった。


そんなマネは許せない。


ふたりともこれから機関支部に連れていく」


「そんな…」


ミミコがすすり泣きにも似た声を上げたとき、急に背中の上の重みが消えた。


いったいどうなった、榛原?


僕は顔をようやく上げた。


「やあ、ギリギリセーフだったようだね、みんな。


お待たせ、真打ちのボクが登場だよ」


聞き覚えのある、お茶目な口調。


そこにすっくと巫女姿で立っていたのはもちろん、僕と同じ神使しんし仲間、狐娘のきつこだった。(続く)

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