光に照らされて、それでもあなたは成長しない

もめなし

光に照らされて、それでもあなたは成長しない


月光に照らされ、あなたは生き続ける。


まだ日が出ていない未明、僕はいつものように自転車をただひたすらに漕いでいた。自転車のカゴには何十冊もの新聞をのせて。これらの新聞はこれから顔も見た事のない苗字ばかりを知っている人達に届けに行く。顔も見た事のないのは当たり前だ。彼らのほとんどは僕のこの苦労を感じることなくまだまだ夢の中だから。

大学に入ったばかりの僕は早くもお金が無い、自分で稼がなくては行けないという状況に追い込まれた。だから、新聞配達。未知の領域だった。地元では母親に起こしてもらい、一日の始まりは準備されていたのも当然だったからだ。最初の頃こそ、この薄暗い灰色の空間を自分が移動していることを新鮮に感じて、ちょっとでも色気のあるものを見つけると、なんだか仲間を見つけたような気がしていちいちぽっと心の温度をあげていたが、今ではもうそんなことはない。ただ事務的に、これから貰える微量の給料のことだけを考えているのだった。

いつものように、色あせたリサイクルショップの看板を左に曲がり、ちょっと行ったら今度は右に曲がって、そしてまっすぐ進んで…… いつものように、全体が蔦で絡まっている家が現れる。もちろん、その家も他の今まで通り過ぎてきた家と同様家の灯はついていない。ただ、ほんの少し。蔦のせいで存在自体が不気味に思える。この暗い世界の中でいるところしか僕は見たことがない。だから

だろうか、彼は彼からは生というものを感じさせない。

いつものように、置いてある古びたポストに新聞を入れようとする。が、入れようとした新聞はあえなくこのポストに拒否されてしまった。入らないのだ。ポストの隙間に目を近づけると新聞の記事が見えた。今日は月曜日。昨日は日曜日で休刊日だ。つまり、この家の持ち主は土曜日からこのポストに触れていないことになる。旅行にでも行っているのだろうか。そうでなければ…… 否。僕はこの家の持ち主について何も知らないのだ。ただの僕はこの家に毎朝新聞を届けに来ているいわば通行人に毛が生えたようなものでしかない。それなのになぜ、そう思うにもかかわらず、僕はここでずっと立っているのだろうか。今の僕にあるのはやましい心。この館について不意に湧いた興味から一線を超えたいというただの通りすがりのものにしてはあまりにも自分勝手な心であった。と、その時。

ガタッガタッと、音がした。自分のやましい心に対して咎められたように感じ、思わず当たりを見回した。何も無かった。音がしたのはこの家からのようだった。

気づいた時には僕は家の壁だけではなく、門にまで絡まる蔦を取り、家の敷地へと足を踏み出していた。自転車に残してきた新聞達を横目で見ながら。

「新聞配達のものですが、大丈夫ですか」

木で作られたドアの前で、部屋の中にいる誰かに届くことを祈りながら僕は大きな声で言った。僕の勘違いで、すやすや眠っている中の人を不愉快な気持ちで起こさせてしまってなければいいのだが。少し身構えながらも、中からの応答を待つ。何もない。中でものが動く気配さえも感じられなかった。これはどういうことなのだろうか。ドアノブに手をかけ、半ば諦めながら回してみようとする。

――回った。ドアはギィっと、なんとも朝に聞きたくない不愉快な音を残して部屋の空間が僕を包む。それはポストのように僕を拒むのではなく、待ってましたかのように僕を中へ引き入れた。と、思えるのは気のせいだろうか。少なくとも、家の中は僕にとって不愉快な空間では無かった。中に入った僕は初めの目的を忘れ、部屋の様子ばかりを見ていた。特に大きな装飾はなく、外観と違ってまるで何も感じさせない。恐怖も、不安も、もちろん希望も、幸福も。

ふと下を見ると、人が倒れていた。うわっと思わず声が出てしまった。女の子だろうか。真っ白のワンピースを着た小柄な女の子。彼女は背中を天井に向け、ただ倒れていた。

急いで僕は彼女に駆け寄って体を揺らす。何か反応があることを信じて。こんな朝っぱらからやむを得ないとはいえども、不法侵入した挙句、死体の第1発見者なんてまっぴらごめんだ。しかし、そんな目にあわずにすみそうだ。彼女に触れた僕の指先から彼女の体温がじわっと伝わってくる。急いで手首に指を持っていき、彼女の脈を確認する。有。全身の緊張がとけ、グラッと思い切り倒れてしまった。

「ん……」

僕が倒れた音で、横になっている彼女の体はピクリと動く。やがて、のっそりと顔をこちらに向ける。ほんのりと暗い室内で彼女の潤んで見える黒目が僕を射止めた。不法侵入者とのご対面である。

「あ、あなた…… 誰。」

ですよね。彼女はそこまで言うと、また目を閉じてしまった。そうだ、僕は倒れている場合では無い。なんのために中に入ったのか。彼女はおそらく、自分で動く力を一時的に失っている状態なのだ。介抱しないと。

僕はぶつけたひじや膝からくる鈍い、痛みに思わず顔を歪ませながら立つとまず部屋の灯りをつけることにした。目が暗いのにも慣れ、灯りの元はすぐに見つかった。明るくなってもくらい時に感じた部屋の無機質な感じは変わらなかった。僕が今いるのはリビングといったところで、まだ奥には部屋がありそうな感じだ。いつまでも彼女を冷たい床に倒れさせとく訳にも行かず、とりあえず彼女を持ち上げ、本来彼女が体を寝かせる場所はどこか探した。あった。彼女の部屋のようだが、置かれているものは少ない。シンプルな木の机、椅子、何も置かれていない棚。そして、ベッド。彼女の体は存在を忘れてしまうほど軽くて、これはただ数日間食べていないわけではないことがわかった。とにかく、彼女をベッドに寝かせ、自分はまだ配りきれていない新聞を片付けるため、一旦この家を後にすることにした。そして、また戻って来ようと。自分が不法侵入者だったわけを彼女に釈明しなくてはならず、彼女がこのまま元気になるとは思えなかったからだ。彼女が眠り姫でなければ、僕は彼女のそばにいるべきなのではないかと勝手に思っていた。

数十分後、僕は再びこの家の前に立っていた。さっきとは外の様子も変わり、周りの家から光が漏れていた。ただ、この家を除いて。

「失礼します、さっき来たものです」

と僕はさっきと同じように応答を待つ。なるべく不法侵入の経験は積みたくない。このドアが開いてくれることを待つのみだ。と、ドアが開いた。

「さっきの方ですね、お入りください」

ドアを開けてくれた彼女はそれはそれは美しかった。顔の造形もさることながら、真っ白い肌の上に真っ白なワンピース。部屋の暗さとも相まって一人浮き出ている感じ、真っ暗な世界でより彼女の存在が強調されているように感じた。そんな彼女が僕を招待してくれている。さっきまでの緊張がまた戻ってきた。蔦でおおわれた真緑のこの家に真っ白のワンピースを着た美少女。ここの時空だけ他の世界とは切り取られているように感じた。神聖だ、と。

「どうか、お座りになって」

彼女は僕をとある部屋まで連れてき、灯りをつけた。そこは彼女が倒れていたあの部屋であった。部屋の入口に立ち、先程は目にしなかったものがまず飛び込んできた。絵だ。僕はこの絵にずっと背を向けていたのだろう。

その絵には一人の少女が書かれていた。白い肌に白いワンピース。美しい彼女は肩にかかる美しい栗色の髪を風にかすかになびかせながらただ前を見ていた。頬をほのかに紅く染め、少しはにかんで。まるで美しいという言葉の化身を見ているようだった。絵の中の彼女は間違いなく、僕の今目の前にいる彼女て間違いなかった。ただー

「あの絵ですか」

彼女はこのただ呆然と一点を見つめ立ち尽くしている鑑賞者にそう言った。

「あの絵、私だと思うんですけど、だいぶ未来の私なんですよね。」

そう、まさにそれだ。絵の中の彼女は今の彼女よりも大分大人っぽい。今の彼女が絵の中の彼女に向かって進化中という感じだ。単に子供っぽい、大人っぽいということではなく絵の中の彼女はもう既にこの世の中を全て知った目をしている。彼女とは不釣り合いなこの俗世間を。知った上で、全てを包み込むような母性さえも感じる彼女。

「私が一人になった時はもう既にこの絵はありました。でも、誰が書いたのかは分かりません。」

彼女は伏せ目がちに言った。

「あなたはずうっとここで1人で暮らしているのですか。」

と僕。なんて気の利かない、野暮な質問だろう。彼女は何も言わずに首を縦にふった。

彼女に促されるまま、その部屋の中央にある大きなテーブルの席についた。しばらくして彼女が出してくれたのは紅茶とクッキー。自分の分と、僕の分。彼女は今起きたのかもしれない。大丈夫なのだろうか。

「どうぞ、こんな時間朝食の時間だと思いますが」

腕時計を見る。朝の七時。カーテンは閉まっているが隙間から光がさしている。

「朝は助けていただきありがとうございました。」

と、ぺこりとお辞儀をする。どうやら僕の不法侵入の罪は解かれたようだった。でも一体どうしたのだろうか。

「私にも分からないんです。実は」

あなたは孤独だから倒れていたんです、などとは言えない。孤独だから。死をも覚悟してただ事切れるのを待っていたのではないか、と。そんなこと言えるわけがない。


彼女と僕はテーブルに向かい合ってそこにある紅茶を飲み、クッキーを食べた。何も話さなかった。彼女はまるで誰も前にいないかのように、過ごしていた。僕と彼女の間には大きな壁があるようだった。

僕の帰り際、彼女は玄関まで着いてきてくれた。

「今日はありがとう」

と一言だけ言って、ドアは閉められた。彼女の顔は見えなくなった。彼女とはもう永遠に会わないような気がしていた。

事実、僕はあれから彼女とは会わなかった。いや、会えなくなったと言った方が正しいだろう。なぜなら、彼女は天使になってしまったから。今度はベッドで、安らかな顔で。詳しくは分からないが、僕がアルバイトをする新聞会社に、新聞購入停止の申請があったのだ。彼女が住んでいたあの家は持ち主の死にも表情を変えず、未だに僕が新聞配達する際に目に入ってきた。僕はあまりその家のことを考えたくなかった。美しく、しかし心に芯をもつあの日の彼女を思い出したくなかったからだ。一日のほんの数時間だけでも感じることのできた彼女の美しさに心底惚れてしまったからだ。しかし、気になることがある。あの絵だ。成長出来なかった彼女の代わりに成長した絵の中の彼女。僕はその彼女に逢いに行くことにした。


あの日のように、そこに絵は存在した。やっぱり彼女はまっすぐ前を向いていた。見られる人がいなくなった彼女は何を思うのだろうか。あの日あった彼女は自分の成長した姿をこの絵に見ていた。彼女は彼女の未来に想いを馳せたに違いない。と、その時。

「お前は誰だ」

と野太い男の声がした。この館にはふさわしくない、生を感じさせる声。振り向くと、1人の男が立っていた。顔は色黒く、髭は伸び放題、ヨレヨレのシャツにズボンを履いていた。目をギラギラさせて。それはまるで野犬のようだった。これは、どうすればいいのか。今回の僕はただ絵を眺めにきた不法侵入者だ。弁解の余地はない。ただ、弁解をする暇はなさそうだったが。男は片方の手に、大きな瓶を持っていて、振り上げて僕に向かってこようとしている。

「ま、待ってください! あなたはこの家の持ち主なのですか」

僕がこう言うと、男の体の動きは止まった。そして振り上げていた腕を力なく下ろした。そして俯いた。彼の背後にはどこか憂いを含んだ陽炎が見えた。さっきまで彼に対して抱いていた恐怖心も僕の中から消えていた。

「あなたはかつてのこの家の持ち主を知っていますか」

僕は改めて尋ねた。自分だってちょっと話しただけではないか。自分こそ何を知っているのだろう。名前知らないただそばにいる絵の中の彼女の視線に苦しさを覚えながら。

「お前は私の娘を知っているのか」

僕は驚いて男の方を向いた。”私の娘”……?この男が……?

「僕は彼女に会ったことがあります。一度だけ。でも何も知らないんです。」

そう、残念ながら。僕は彼女のことを永遠に知ることはできない。彼女の名前も、一人で暮らしている理由も、好きな食べ物とか他愛のないことも何もかも。そして、また訪ねていいかどうかということも。

「そこに絵があるだろう」

彼女の父であるという男はうなだれたままぽつりと言った。”絵”とはもちろんあの『天使』が描かれた絵であろう。嗚呼、僕はこの絵を見るためにここにいるのだ。絵の中の彼女は彼女のように居なくなったりせずに縁で囲まれた絵の中に住み続けている。平面という限られた空間の中ではあるものの僕がその気になればそちらの世界へ行けてしまうような不思議な存在出会った。それでいて、触れることのできない絶対的な”聖”の象徴。この素晴らしい絵をこの目の前にいる男が書いたというのか。

「私はね、娘が赤ん坊の時この家から出ていったのさ。その時に私が彼女が大きくなった姿を想像して書いたのだ」

ゾッとした。絵の中の彼女はまさに彼女で生前彼女がまとっていた雰囲気がこの絵にもあったからだった。ただ残念なことに彼女は死に、そのままという訳ではなかったが。しかし、間違いなく、彼女は絵の中の彼女と対峙して鏡を使っているように錯覚する時もこれからあったであろう。

「彼女はこの絵の彼女と瓜二つでした。あなたが最後に見た彼女の姿はまさにこの絵のように美しく成長したのです。あなたは恐ろしい人だ」

僕は絞り出すように言った。喉は渇き、頭ではもう何も考えることが出来なかった。

「私には絵の才能があった。だから私は何年もたった後、この家で娘の成長した姿を見に来るつもりだった。答え合わせとして。そして、自分の才能を改めて自覚したかった。彼女のこの絵は僕にとって最高の作品だということを」

男は僕の前を通りすぎ、絵の中の彼女の頬をそっと撫でた。

「しかし、彼女は死にました。僕は彼女と話したことはありますが、彼女のことはまるで知りません。確かにこの絵はあなたの最高傑作です。でもあなたはもうひとつの最高傑作を置いて行った。彼女は孤独になった。彼女は孤独のうちに死んでいったのです」

いつの間にか僕は泣いていた。名前も知ることのなかった彼女の孤独を、見ることの出来なかった彼女の笑顔を想って。

「そうか、娘はこの絵のように成長していたのか。私の素晴らしい作品を私は見ることが出来なかったのだなぁ」

男は娘の足元で泣き崩れた。彼女は前を向いていた。あの日のように閉め切られたカーテンの隙間から溢れるほどの月の光が彼女を照らしていた。























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