第16話
家に帰ってすぐに僕は作業を再開した。食事中も母親の目を盗んでパソコンをいじり、夜は遅くまで部屋の明かりを消さなかった。
「やっぱり今はESSなのかもな」
何日か経過したころ風呂上がりにソファーの上で作業をしていたら頭上から父が声をかけてきた。そのまま父はビール片手に僕の隣に腰を下ろす。顔が少し赤くなっていた。
「部活か?」父が訊ねる。
「……そんなとこ」
「……同じ部に好きな子でもできたか?」
不意打ちに思わず吹き出しそうになった。父はにやにやと笑ってる。
「男が何かに熱中するときは明確な目標ができたときか、女だ」
断定するのはどうかと思うが。
「父さんの知ってる子か?」
「そもそも父さん誰か僕の友達知ってるの?」
「……男友達なら何人か名前が浮かぶけどな。そもそも家でお前が女の子の名前言うことが少ないだろ」
そう言われてみればそうかもと思う。
「いいねー。恋は。おれもしたいわ」
しみじみと父は言った。
「だから、これはそういうんじゃないって」
「じゃあ、どういうんだよ?」
「なんか。気になることがあってさ」
相も変わらず感情の合成は全然進展がないのだが、それでも僕は何度も何度も合成を繰り返した。
父が訝しむような顔で僕をのぞき込む。僕は話題を変えたくて口を開いた。
「父さんは昔母さんとつき合ってた時の感情とか体感したいって思うことあんの?」
父は少し驚いた顔になる。普段あまり父に質問することがないので珍しかったのかもしれない。
「そうだな。そういう気持ちになることもある」
「なんで?」
父は声を出して笑った。そして僕の頭をがしがしと撫でる。
「面白い質問だな。なんでと訊かれたらきちんと言語化して返したいところだが、まあようは思い出に浸りたいってことかもな。昔の写真見たり、昔書いたラブレターを読んだりするのと近いかもな」父はビールの缶を傾けて喉を鳴らす。「けどそういう媒体と違って感情はごまかしがきかないからな。過去を美化しすぎてたら逆にこんなものだったかと拍子抜けすることもあるだろうし。出会ったときはお互いいい大人だったからな」
「ふーん」
少し間を置いたあと父は独り言のように呟いた。
「けど、自分がどうやって人生を歩んできたか、ふと確認したくなったときに昔の感情を体感したくなるかもな」
なるほど。やっぱりESSには色々な使い方があるのだなと納得する。人間と感情は切っても切れないものだ。どんな人でも何かしらでESSとの関わりを持っているのだろう。
と、僕はそこでひとつのことに気づいて笑った。
「どうした?」父が怪訝な顔になる。
僕は笑いながら答える。
「いや、父さんもESSが嫌いなわけじゃないんだなってわかってさ」
父はばつの悪そうな顔になる。
「そりゃあそうさ。ESSは単純にすごい発明だと思う」
「普段は毛嫌いしてるみたいなのに」
「あれは小説に付録としてつけることに関しては、納得がいってないってだけだ」
父はビールを一気に飲んで、少し間を置いたあと言った。
「けど、そうだな。もうESSは生活であって当たり前のものだからな」
父は何かに納得するように、どこか遠くの方に視線を向けた。
その夜も僕は自分の部屋でパソコンのキーボードを叩く。
ヘッドエモーションを外して天井を仰ぎ見た。両手の指を頭皮にのせてマッサージしてみる。
ある程度気持ちいいけど、奥に溜まった疲労は取り除くことができない。
「頭蓋骨開けて揉めればいいのに」
「なんか体調悪そうだね」放課後。雨宮のきゅんきゅんランキングの作業を手伝ってたら、心配そうに声をかけられた。
「そうかな?」
平然を装っているが、実際かなり限界に近かった。だいたい感情ファイルを連続して何度も体験することも人体に悪影響があると言われているのに、合成された感情ファイルを繰り返し体験していたら、それは体調も悪くなるってものだ。
しかし、それにしても今日は気分が悪い。窓の向こうから聞こえてくる運動部の掛け声が薄気味悪い叫び声にしか聞こえない。
そしてついに身体の表面に異常が見え始めた。始めはタイピングしようとする指が震えた。小刻みに震えた指先はこちらの意図と反して文章を乱れさせる。水分を補給してみても喉がいっこうに潤わない。今が寒いのか暑いのかわからなくなってくる。身体中から脂汗が染み出てきた。
だめだ。気持ち悪い。
「大丈夫?」雨宮の心配そうな顔が近づいてくる。「うん。大丈夫そうじゃないね。保健室行こう」
問題ない。そう口にしようとしたが言葉が喉から出てこない。
ああ。さすがにこれはダメだな。
限界を越えてここで倒れて雨宮に迷惑をかけるわけにもいかない。
僕はよろけながら雨宮に助けられて保健室に向かった。
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