君に伝えたい、たったひとつの気持ち

山橋和弥

プロローグ

 心が跳ね回っていた。

 身体の内側で暴れまわっている熱い感情は抑えきれないほどの熱量を放出している。

 これが恋だ。

 疲れやら後ろ向きな気持ちを一瞬にして吹き飛ばしてしまう力強い感情。

 僕はいまある女子生徒の恋の気持ちを体感していた。

 自然と口元がにやける。油断すると口笛でも吹いてしまいそうだ。

 説明文を見る。

 ある男子生徒から好意を向けられてそれを喜んでいる感情。なるほど、まさに幸せって感じだ。ヘッドエモーションを外す。

 パソコンのモニターを見る。

 ヘッドエモーションと接続されたそれには、数値化された感情シートに基づいた数値と、カテゴライズに感情の種類が表示される。

 分類は喜びに区分されている。

 僕はキーボードに指をのせた。感情を共有して思ったことや感じたこと、想像したことをタイピングして打ち込む。そのメモと感情のファイルを同じフォルダーに移動させて僕は頷いた。

 恋愛の感情は不思議だ。どの感情もきらきらして温度を持っているかのように温かい。

 恋愛というものを実体験で味わったことがないだけに、なんとも漠然とした感想になってしまうが。

 僕も誰かを好きになったらこんな感情を抱くのだろうか。

 そうしたらもう少し恋愛という感情を分析できるようになれるのだろうか。

 一度目を閉じて想像してみる。自分と可愛らしい女の子を思い描いて、さっき共有した感情を思い出す。いや、自分にできるとは到底思えない。僕に好きな子ができたら不安や恐怖の連続になるのではないだろうか。

 そんなことを考えたあと息をついて作業を再開する。今日送られてきた他のメールに目を通す。

 月曜日の放課後。

 毎週金曜日に行われる部活の下準備を今日も行っていた。感情共有処理部(emotion share processing club)通称ESP部が普段使用している情報処理室も今は人の気配がない。僕は部活の資料に使えそうな感情をメールの中から探す。

 メールを開いては閉じる。

 毎月配られる学年だよりにESP部の共有メールアドレスと、体験した感情を自由に送って欲しいという文面を載せてもらっている。完全なボランティアなので自分が体験した感情を提供してくれる人は多くはないが、それでも毎日何通か部活で使っているアカウントにメールが送られてくる。

 添付されている感情ファイルは簡単な文章と一緒に送られてくるのだが、まあだいたいが恋愛系のもので、半分以上が女子生徒からのものだった。

 わたしが感じたこの愛をみんなにも知ってもらいたい。あるいは純粋にESP部への協力精神か。どちらにせよ彼らのおかげで部活動の幅が広がっているので感謝している。

 送られてきた他の感情ファイルを開き、再びヘッドエモーションを頭に装着する。

 どこかの誰かが抱いた感情。

 そしてヘッドエモーションを通してプログラム化されたファイル。

 それを僕は体験して、カテゴリーごとに分類する。

 毎週月曜日に定期的に行っている作業を今日もこなしている。手作業なんて面倒なことをせずに、自動で区分シートにぶち込めばいいという意見も言われるが、それじゃああまりにつまらない。

「さてさて、次の感情はどんなやつかな」

 まずは感情を体験してそれから説明文を読むことにしていた。そのほうが先入観なく感情を体験できると思ったからだ。

 感情のファイルを開く。

 ん? なんだこれは?

 どうにも不思議な感情だ。嬉しいと思った次の瞬間には大きな後悔の気持ちが広がっていく、かと思ったらまたすぐに嬉しくなって、また自分を責めるような感情。

 交互に現れる正反対の感情。それでいて後悔することを恐れていない。

 なにをしているときの感情なんだろう。

 もっと分析してみたい、そう思って共感指数を上げようとしたら不意に後ろから大きな声が聞こえた。

「しまった!」

 突然背後から聞こえた声に椅子の上で身体が跳ねる。自分以外に誰もいないと思っていた情報処理室に突然現れた女子生徒の声。あまりにも予期していなかったことに驚いた。

「あれ、いま何時なんだろう?」

 肩越しに振り返ると、いかにも寝起きという声で女子生徒が辺りをきょろきょろと見回していた。

 僕が驚きで声も出せずにただ見ていると、女子生徒のまだ半開きの目がこちらに向いた。

「ん? なにしてるの?」

 訊きたかったことを先に言われた。

「あっ、えっと」いきなりのことに言葉が詰まる。「ESP部の活動というか、今日は部としての活動はないんだけど自主練というか雑務というか」慌てる必要はないはずなのに、言葉が自然と早口になる。

 理解したのかしてないのか女子生徒は小首を傾げた。少し色素が薄く、光の加減で茶色く見える髪は、この距離からははっきりとはわからないが腰の辺りまでありそうだ。目は二重でちゃんと開いたらくりくりとした可愛らしい瞳になるだろう。肌は白く透き通るように滑らかだった。

「ん?」さらに女子生徒が首を傾げる。

 慌てて視線を落とした。

 しまった。まじまじと顔を凝視してしまった。

 失礼だったかもしれない。それにしてもいつからここにいたのだろう。僕が情報処理室に入ったのが30分前。入ってすぐ電気をつけた時には既にいたのだろうか。まったく気がつかなかった。

 ふと不安になる。

 自分の今までの言動を振り返る。誰もいないと思って結構気が抜けていた。

 変なことをしてただろうか。独り言ぐらい言ってかもしれない。

 ああ、それにしても心臓が破裂しそうなぐらい脈打っている。いきなり見知らぬ女子生徒と二人っきりになるなんて状況どうしたらいいんだ。

 席を立つ音がした。

 見ると一番後ろに座っていた彼女が立ち上がって近づいてくる。ふと女子生徒が手に持っているものに目がいく。

 ヘッドエモーション。

 音楽を聴くヘッドホンと形状が似ているが、違うのはこめかみを挟むようにふたつの出力機がついていること。ちなみに普通に音楽を聴くこともできる。

 どんどん女子生徒の姿が大きくなる。

 緊張で身体が強張ってくる。

 彼女はそのまま僕の隣に座ってモニターに視線を向けた。彼女の横顔が至近距離にある。目鼻立ちがはっきりしている。睫毛が長い。唇も色素が薄いのかピンク色だ。あまりに近くて彼女の吐息まで聞こえてくる。

 自分の身体が熱をもっていくのを感じる。

「この感情体験してたの?」

 透き通るような声。

 大きな瞳と視線が合う。

「えっと、それは」

 上手く声が出てこない。

 僕は彼女の言葉を確かめるようにモニターを見た。そこには感情の種類ごとに分類されたフォルダと、さっきまで体験していた感情のファイルが添付されたメールが開いてあった。

「どうな感じだった?」

 彼女は興味津々といった様子で僕に訊ねる。

 僕は真正面から見られなくて顔を伏せる。

「変というか、不思議な感情だった。嬉しいのか辛いのかどっちなのかわからないし、なんで交互に現れるのかもわからなかった」

「へー、それで? それがどういう時の感情だったかはわかったの?」

「いや、わからなかった。でもきっとメール見れば」とモニターを見たが、メールの本文には『さてなんの感情でしょう?』と質問が載せられているだけで感情に対する説明は全く書かれていなかった。

 誰かの悪戯だろうか。

「いやはや、どう思いますか?」

「いや、どうって言われてもさっぱりだよ」少なくとも僕の人生の中でまだ感じたことがない気持ちに思える。

「そうだよね。やっぱり不思議な感情だよね」納得するように彼女は何度も頷いた。

 その物言いに違和感を覚えて訊ねる。

「この感情のこと知ってるの?」

「うん。だってわたしが送ったやつだよ」彼女はさらりとそう言った。

 少しの沈黙が流れる。

「どういうこと?」

「学年だより見てわたしも送ってみよっかなって。ちなみにこれはね」ふふんと彼女は笑う。「なんとダイエット中に甘いものを食べているときの感情だよ」

「ああ。なるほど」そう言われてみると、そうなのだろうなと納得できる。

「不思議なんだよね。なんで食べちゃいけないとわかってるのに食べてしまうのか。なぜ我慢できないのか。そしてなぜ甘いものはここまで人を幸福にもすれば辛い気持ちにもさせるのか。時代は複雑になったものだね」

「甘いものが悪いってわけじゃなさそうだけど」

 そうか。ダイエット中の気持ちか。ダイエットをしたことがない僕にわかるわけがないな。

 そう思ってメモにタイプしようとして僕はあることを思い出す。

「えっと、ここで何してたの?」放課後の情報処理室に人が来ることはめずらしい。

「いやーそれがさ」聞いてよというように彼女は笑った。「寝てるときの感情を共有してたら気づいたらそのまま寝ちゃってた」

 あまりにも間抜けな答えに辺りの空気が緩む。

「えっ? どういうこと?」

「ESP部の人に会いたくてここに来たんだけど、来たら誰もいなくて、それで待ってる間暇だったからESP部に感情のファイル送ったり、ちょっと面白い感情ないかなって思ってネット探してみたら、睡眠っていうのがあったの。睡眠だよ? そんな感情初めて見てさ。ああ、これはぜひとも共有したいって思ってすぐにダウンロードして体験したら」そこで思い出したのか彼女はくつくつと笑った。「気づいたら寝てて、起きたら知らない人がいて。あー驚いた」彼女は目に浮かんだ涙を指ですくった。「いやー。こんなことってあるんだね」

 と満面の笑みを向けられる。

 可愛い。表情をころころ変えて嬉々として話す彼女の笑顔は眩しかった。僕の全身を静かに何かが駆け抜ける。相づちを打つのも忘れてただ僕は彼女に見入っていた。

 そこで彼女は何かに気づいたように急に驚いた顔になり、目を丸くして俯いた。

「ご、ごめんなさい。なんか馴れ馴れしく話しちゃって」

 僕は慌てて手を振る。

「こっちこそごめん」

 つられて僕も謝った。何に対する謝罪なのかは自分でもよくわからないけど。

 沈黙が流れる。

 情報処理室には二人の他は誰もいない。エアコンがついているはずなのに自分の体温が上昇する感覚。静かすぎてついにはパソコンのファンの音までが耳に届き始めた。あまりの静寂に空気が重くなる気配がする。

 なにか言わなければと思って言葉を探す。

「えーと、同じ学年だよね?」

 学年集会で彼女を見かけたことがある気がして訊ねた。

 同じなら高校二年生だ。

「うん。廊下とかですれ違ったこともあるよ」

 そうだったのか。気づいてなかった。

「名前、訊いてもいいですか?」自分でもわからないが敬語になってしまう。

「はい。いいですよ」彼女は笑って僕に調子を合わせてくれる。

 雨宮光奈。

 彼女の小さな唇からその言葉がこぼれた。

 あまみやみな。

 それが彼女の名前だった。

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