定期券

有機喧騒

ある日の鈍行列車

 私は今、電車に乗っている。


 それは、長い長い梅雨が明けて、ようやく夏らしい日差しが照りつけるようになった、ある日のこと。

 電車に揺られ、窓の外を流れる景色を眺めるのがなんだかとても心地ここちよくて、どうにも立ち上がるのが億劫だった。

 やがて電車は、私の最寄り駅のホームへと滑り込む。

 床下から金属同士の擦れる音が響いた後、続いて側面にある四つのドアが同時に音を立てて開く。

 車内の冷え切った空気とは真反対に、夏の陽気にじっくりと暖められた蒸し暑い空気が私の足元まで侵入してくる。

 私は迷っていた。

 このまま電車に乗って遠くへ行ってしまおうか。

 私がうんうん唸っている間に、四つのドアはピタリと閉じられてしまった。

 ドアが閉まってしまったのでは仕方ない。

 今日は遠くへ行って美味おいしいものでも食べてこよう。

 私は半ば開き直りに近い形で、電車に揺られ続けることを決めた。


 どれくらい電車に揺られていたのだろう。

 窓の外を流れる景色は、いつの間にかあざやかな緑色から、無機質な人工物の群れへと姿を変えていた。

 それでもなお、窓の外を眺めながら電車に揺られるのがどうしようもなく心地ここちいい。

 やがて電車は、ゆっくりとその速度を緩めていく。

“次は、籠宮。籠宮。お出口は、左側です。“

 女性の車掌の、やさしさの篭ったあたたかい声が車内に流れる。

 そうだ。この駅で降りてみよう。

 私はロングシートの隅から立ち上がる。



 ムクゲ、百日紅、紫陽花。

 夏の花たちが、閑静な街並みをあざやかにいろどっていた。

 見知らぬ街をあてもなく歩く。

 私の気分は普段の生活ではありえない程高揚していた。

 おそらくそれは、この可愛かわいらしい花ばなのお陰でもあるのだと私は感じる。


「ラ・ミリオーネ?へぇ〜、イタリア料理かぁ。」

 時刻は既に十七時を回っているが、まだまだ日は高い。

 私は一軒のイタリア料理店の前で立ち止まっていた。

 煉瓦調の外壁に、洋風の十字窓からはオレンジ色の関節照明が煌々と灯っているのが覗ける。

「ここにしようかな。」

 私が木製の扉を開くと、来客を知らせるベルが店内に響く。

〈いらっしゃいませ〜〉

 店の奥から女性のあかるい声が聞こえてくる。

 あかるい声を聞くとなんだか私まであかるくなれてしまうような気がする。

 店の奥からひょこっと顔を出したのは、綺麗きれいな顔立ちをしたショートカットの女性だった。


 私は案内された席に座り、色とりどりのイタリア料理の写真が載ったメニューブックを眺める。

 イタリア料理と聞くと、ピザやパスタを何となく想像するけれど、私はそれ以上のことをよく知らなかった。

 私が興味深げにメニューを見回していると、さっきのショートカットの女性が近づいてきた。

「どうですか?お決まりになりました?」

「それが、美味しそうだなぁって思って入ってきたんですけど、よく考えたらイタリア料理のことをよく知らないなって思ったんです。」

 私の話を聞いた彼女は、少し考えたあと、話を始めた。

「そうですね。一口にイタリア料理と言っても、イタリアの特徴的な国土や歴史のせいもあって、各地域によって様々な特色があるんです。私たちが想像するようなチーズやトマトを使うような料理は、実はナポリ料理と呼ばれる郷土料理なんですよ。あとは…代表的なものといば、やっぱりパスタですね。パスタはイタリアの全土で好まれていて、バリエーションがとても豊かです。それこそ覚えきれないくらい。ちなみに、私のオススメはシンプルにトマトパスタですね。」

 彼女はにぱっと笑う。

 綺麗きれいな顔立ちとは対照的に、子供のような可愛かわいらしい笑顔だった。

「長々とごめんなさい。では、お決まりになったらお呼びくださいね。どの料理でも、味は保証しますから。」

 彼女はもう一度、可愛かわいらしい笑顔を私に見せた。

 下手をしたら女の私でも惚れてしまいそうだ。

 少しばかり揺るんだ顔を引き締め、私は改めてメニューに向き直る。

 マルゲリータ、リゾット、ミネストローネ、カルパッチョ…

 どの料理も美味おいしそうで、優柔不断な私にはどれも捨てがたい。

 散々迷った挙句、私はさっきの女性のオススメのトマトパスタとカプレーゼを注文することにした。


 しばらくして、トマトパスタとカプレーゼが運ばれてくる。

 トマトの豊潤ほうじゅんな香りと、バジルの甘みのある爽やかな香りが漂ってきた。

 もちもちとした食感のパスタは、少しばかりの酸味とまろやかさが絶妙なバランスで調和ちょうわしている。

 いろどり豊かなカプレーゼは、濃厚なモッツァレラチーズとトマトの酸味、加えてバジルのほのかな苦味が合わさって絶品だった。

 どんなに手間暇のかかる料理でも、食べてしまうのはあっという間だ。

 すっかり空になってしまったお皿とは対照的に、私は満足感で溢れていた。


「料理のお味はどうでしたか?」

 私がレジの前に立つと、ショートカットの女性はニコニコしながら私に訪ねてくる。

「とても美味しかったです。それに…色々と教えてくださって。」

「いえいえ。喜んでいただけて何よりです。」

 私は彼女の笑顔に見送られ店を出る。

 美味おいしい料理に優しくて綺麗きれいな店員さん…満足しないはずがない。


 店員の女性に礼を告げ、店を出た私はもう一度同じ道を、今度は駅に向かって歩きだす。

 すっかり日は落ちてしまっているが、この街に咲く花ばなのあざやかさは相変わらずだ。

 花に溢れた陽気ようきなこの街が、どうしようもなくきで堪らなくなっている自分に気が付いた。



 私は言葉が好きだった。

 綺麗な言葉で、美しい言葉で、何気ない日常の中で感じたことを記していくのが好きだった。

「美しい言葉は人を幸せにできるのよ。だから、美しい言葉を沢山使って、沢山の人を幸せにしてあげなさい。」

 小説家だった母の口癖だった。

 言葉が綺麗だと評判で、家には毎日のように読者からの手紙が届いていた。

 だけれど、自慢だった母は気づけば私の傍からいなくなっていた。

 美しい言葉で読者に感動や驚きを届けていたはずの母は、読者から送られてきた無責任な醜い言葉で命を絶ってしまった。

 それでも私は、言葉を嫌いになることも、恨むこともなかった。

 美しい言葉で人を幸せにすることは、私が母から教えられた、いわば大切な形見のようなものだから。

 私はそれから、たくさんの美しい言葉を知った。

「鮮やか」「彩り」「美しい」「調和」

 世界には美しい言葉がいくつもあった。

 世界には美しい言葉が溢れていた。

 だから私は、美しい言葉を沢山使ってきた。

 母の言葉を信じて。

 世界はこんなにも美しい言葉で溢れているはずなのに。

 それなのに。

 どうして。

 どうして私に向けられる言葉は、美しくないのだろう。


〈気持ち悪い〉

〈死ねばいいのに〉

〈学校来れるとか逆にすごくね?〉

〈うわ、目合っちゃった。最悪。〉

〈あいつ死にたいらしいよ。うける。〉

〈キモ。〉


 美しい言葉は人に幸せを与えることができるのなら。それなら醜い言葉は人に何をするのだろう。

 それはきっと、醜い言葉は人から何かを奪っていくんだ。


 私は、「醜い言葉」で何を奪われたのかな。

 きっとそれは、「私」。

 地獄のような日々の中で、私の中の「私」は、いつしか何も感じなくなっていた。

 もしかしたら、私の中の「私」は、大切なものを奪われすぎたせいで死んでしまったのかもしれない。

「生きることを楽しむ」ことも。

「未来に希望を見出す」ことも。

「幸せを感じる」ことも。

」も。

 全部奪われてしまった。

 でもね。

 無責任な醜い言葉で、これ以上「私」が奪われるのは、



     

        もう、嫌。





 私を奪えるのは私だけ。

 私がまだ私であるうちに。



 私は改札を通り抜け、人々の雑踏に紛れる。

 改札機に表示されたICカードの残高は、最寄り駅までの運賃には到底届かない金額だった。

 それに、私の持っている定期券の期限は今日で最期だ。

 明日も学校へ行かなくちゃいけないのに、私に定期券を作り直す気力はもうない。

 私は人混みをぬって、ホームの端に向かう。

 もうすぐ電車がやってくる。

 私は今日一日の出来事を思い出していた。

 電車から見た景色。

 陽気で鮮やかな街並み。

 美味しい料理。

 優しくて気さくで、綺麗な店員さん。

 そのどれもが私の中で輝き、一つの思い出となって溶け込んでいく。

 どうして今日、遠くの街へ行こうと思ったのかは分からない。

 けれど、この街へ来て本当によかった。

 少しの時をおいて、電車がホームに滑り込んでくる。



 裂けんばかりの警笛が、駅のホームいっぱいにこだまするのを聴いた。

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