第3話
「っ、ぐ……」
体の随所から響く鈍痛にうめくと同時に、凍えるような流水の冷たさを感じる。ひどく耳鳴りのする頭は朧気ながら覚醒し、自分の置かれた状況を僅かなりとも知ることができた。どうやらくねった谷川の岩間に引っかかって、それ以上流されることなく済んだらしい。
頭を振って周囲を見る。わずか動かすだけで耳鳴りはさらに高く鳴り、割れるような頭痛が襲った。痛みには慣れているつもりだったが、これは些か堪える。しかしそれが目の端に映った瞬間、頭痛などはもはやどうでもよくなってしまった。
「俺……?」
耳鳴りがひどい。自分で発した声でさえ、うまく拾うことができない。しかしそれもどうでもよかった。というよりも、気にしていられる余裕はなかった。なぜならば、俺の視線の先には、俺と同じように岩に引っかかりながらも、しかし顔を水に沈めたままピクリとも動かない俺の姿があったからだ。
気が狂いそうだ。頭をかきむしろうとして、腕が言うことを利かない。中途半端に持ち上がった腕を目の当たりにして、俺はさらに混乱を深めた。
「なんだよ、これ」
それはよく鍛えられてはいるものの、なめらかでしなやかさを失わない女性の腕だった。そして気づく。水面に映る顔に。今まで耳鳴りのせいにしていた声に。
「ローラ……!?」
見違えるはずもない。それは俺が心底愛した女、ローラの姿かたちに相違なかった。
///
ひとしきり混乱すると、急に頭が冷めた。実際谷川の急流に体を晒されづづけたことで、体温が低くなっていたのもある。
何が起こったのか。いまさら確かめるまでもない。俺の意識がローラの体に入ったのだ。もしくは、体と魂が入れ替わったか。無論、なぜそうなったかまではわからないが。
ローラの意識のようなものは、感じられない。とすれば入れ替わりだが、俺の体はすでにこと切れていた。当然といえば当然か。あれだけ血を流したのだから。
ローラの魂が入れ替わったとするならば、その生存は絶望的だろう。俺は失意に沈みそうになる頭を切り替えて、次の行動を模索した。悔やむのは、泣くのは人心地ついてからでいい。長い旅で培った、やりきれない処世術と生存術が役に立った。
ひとまず自分に治癒魔法をかける。ローラの体でも、魔法はきちんと働いた。体中の痛みが嘘のように消失し、代わりに言いようのない倦怠感が襲う。魔力を多く使った代償だ。
名残は惜しいが、俺の元の体は打ち捨てて、すぐにでも移動する。じじいのことだ。もう捜索隊――しかも完全武装の――を出しているはず。ローラの体といえ、すでに捨て駒に使った以上、捕捉されればどうなるか分かったものではない。どれだけ意識を失っていたかわからない以上、迅速な行動が求められた。
さて、まずはこの谷川を脱出しなければならない。
切り立った両岸は下流に進むにしたがって険を緩めていく。順当に脱出しようと思えば、このまま下流に向かうのがいい。
しかし、それは捜索隊もよくわかっていることだ。下流では流れてきた死体をさらうべく、陣が敷かれているだろう。これは却下だ。
ならば上流はどうか。上流域に進めば川そのものが細くなる。そのまま山中に落ち延びることもできるだろう。
しかしこの弱った体で急流を遡上するのは堪えるし、じじいならまず逃げ道をふさぐ。上流にはわんさと敵が待ち構えているはずだ。これも却下。
というかそもそも、あのじじいならば「待ち」はしないだろう。この川は一本道だ。上流と下流から同時に軍を薦めれば、容易に挟み撃ちにできる。上流に堰を作って、鉄砲水というのもありうるだろうか。いや、それでは時間がかかりすぎるから、しないだろう。猶予はもう、みじんもない。
「こちらへ」
最悪この崖を上るかと腹を決めかけたところへ、女の声が割り込んできた。とっさに身構えるも、剣がない。ローラのサーベルは俺の体の胸につき立ったまま、なかばからへし折れていた。
「誰だ」
短く鋭く誰何を発する。自分の口からローラの声が出るのは、いまだ大きな違和感があった。
「秘密の抜け穴がございます。説明は後ほど。急がれよ。既に捜索隊は目と鼻の先まで迫っております」
女は質問には答えず、自分の要件をつらつらと並びたてた。声の主の姿が見えないことから、これは念話であろう。とすれば、相応の手練れだ。
どうする。一瞬逡巡する。じじいの差し金だろうか。それにしては迂遠すぎる。じじいは策を使うが、あまり凝ったことはしない。シンプルに済むならシンプルに済ませる。上からも下からも軍を進めているなら、これは余計な手間だ。
「乗った。どこに行けばいい」
「そこから100歩下流の崖に、隠し穴があります」
「わかった」
決めてからの行動は早い。俺は俺の亡骸に短い黙祷をささげて、声の示す場所へ向かった。
///
重たい体を引きずって、流されないように下流へ下るのは思いのほか堪えた。それでも何とか指定の場所にたどり着くと、再び声が聞こえる。
「ちょうどそこです。今結界を解きました。もう入り口が見えるはずです」
「なるほど、見えたぞ」
声の言うとおり、崖には人が3人は並んで入れるほどの横穴が、こつ然と姿を現していた。ずいぶんと高度な結界術である。そして、これが本来何のために掘られたものであるのかも察した。
俺は迷うことなく横穴に飛び込んだ。脅威度をはかりにかけて、それが一番軽い選択肢だったからだ。俺が入ると同時に結界は再び閉ざされて、闇があたりを包む。ヒカリゴケの薄ら明かりに目が慣れると、眼前に佇む人物の姿をはっきりと確認することができた。
「お初にお目にかかる、勇者殿」
黒いヴェールで目元を隠した、妙齢の女だ。一見すると人だが、背に蝙蝠のような羽がある。
「魔族か」
「いかにも。魔王軍では四天王の一角を仰せつかっておりました。サジェールと申します。以後お見知りおきを」
「ハ、四天王とはまた、大物だな。……魔族が、なぜ俺を助ける。見せしめにして殺すためか」
「まさか」
俺の問いを、サジェールは薄い笑みを浮かべて否定した。では何を。探り切れないうちに、サジェールが続けた。
「前魔王陛下の御遺言に従い、勇者様をお迎えに上がりました。あなた様には、これより我々の
To be continued...
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