5-6 幸福な人魚姫


 ひらり、ひらりと赤、青、黄。極彩色の小さな魚達が珊瑚の上で舞う。華麗で幻想的な光景を水槽越しに眺める紫穂は、何を想うのか。薄暗い展示場の通路。ブラックライトの照り返しを浴びた彼女の横顔には、見慣れた哀が滲んでいた。声を掛けるのを躊躇う程に、静粛に。分厚い硝子の板で隔絶された楽園に魅入る彼女の姿は、何処か儚くて――。


「紫穂」


 唐突な焦燥に駆られて、呼び掛ける。応じて彼女はゆっくりとこちらに振り向いた。その顔には、曖昧な微笑が飾られていた。


「イルカショー、小雨だからやるって。どうしようか。席取りに行く?」


 訊ねると、彼女は少しだけ考えるような間を置き、それから控えめに頭を左右に振って見せた。


「……いい。外、寒そうだし。ショーの間は通路が空くだろうから、館内の方がじっくり観られるし。 ……こっちがいい」

「そっか。それじゃあ、そうしよう」


 言うなり、すぐと紫穂は水槽に目を戻した。他の展示よりも熱心に目前のそれを注視している様に、湧いた疑問をぶつけてみる。


「熱帯魚、好きなの?」


 我ながら幼稚な質問だと思った。けれど、彼女は笑う事無く、真剣に肯きを返してくれた。


「小さい頃ね。人魚姫に憧れてたの」


 不意にもたらされた語りに、砂音は黙して続きを促した。


「原作の童話じゃなくて、有名なアニメ映画の方。人間の王子様に恋をした人魚姫は、二本足と引き換えに海の魔女に声を奪われてしまうんだけど、王子様は彼女が自分を助けてくれた相手だって、ちゃんと気が付くの。そうして、海の魔女から声も取り戻して、人魚姫は地上で王子様と末永く幸せに暮らすのよ」


 誰もが思い描いていた、そんな幸せな結末。泡になって消えてしまう悲恋の物語の、もう一つの可能性の世界。


「ご都合主義でしょ? でも、私は原作よりもずっとそっちの方が好きだった。可憐な人魚姫に憧れて、よく海やプールや水族館なんかに行くと、人魚姫の夢想をしたの。……その事を思い出して、何か懐かしくなっちゃった」


 思い出話を紡ぐ彼女の表情には、しかし依然として寂寥が漂っている。それは、その頃の純粋な自分にはもう戻れないと知っているからか。それとも――隣に居る〝王子様〟が、偽物だからか。

 彼女の耳朶に光る紫水晶アメジストのピアスに視線を寄せる。鈍い輝きに、此処に至る前夜の事を想起した。

 

 二人の睦みはいつも粛々と執り行われる。それは、義兄と義妹として。互いの役割を再確認する為の儀式だ。彼女は行為の間だけ、砂音の事を〝兄さん〟と呼んだ。しかし、事が終わるとそれ以降は、明確な線引きをするように、彼の事を彼として扱おうとした。それはおそらく、彼女なりの気遣いで。はたまた贖罪の気持ちの表れなのかもしれないが。ともかく、それが砂音には複雑な心境を齎した。

 自分が彼女の義兄の代わりになると決めた。それで彼女が救われるのなら構わないと思った。けれど、当の彼女がそれを拒む。――この時も、そうだった。


 薄い疲労感に包まれた気怠い事後。シーツの上に横たわったまま半ば睡魔に誘われている彼女を、何とはなしに見詰めていた。朱を帯びた白絹のような艶やかな肌の上に、ふと一点の紫が目を引いた。それは、一糸纏わぬ姿の彼女が、唯一身に付けたままの装身具ピアス。思えば、初めて彼女を見た時から、それはそこに在った。

 触れようと思ったのは、ほんの気まぐれだった。深い意味など無い。けれど、彼の指先がそれを掠めた時、紫穂は強い拒絶を示した。ピアスに伸ばされた彼の手を、払ったのだ。彼女自身でもそれは思い掛けない行動だったらしく、驚愕に目を見開いては、そこに動揺と罪悪感を滲ませる。

 黒目がちな彼女の瞳に映る砂音の表情も、同じように驚き、瞠目したまま時を止めていた。彼のヘーゼルの瞳に次第に傷心の色が浮かぶのを見て取ると、紫穂は慌てて謝罪を口にしようとした。しかし、それよりも早く――。


「ごめん」


 砂音が先んじて述べた。告げるべき言葉を相手に取られてしまい、紫穂は口を開けたまま固まった。そんな彼女に、砂音は眉を下げて苦笑を向ける。


「そのピアス、いつも着けてるから、お気に入りなのかなって、思って……」


 ――もしかして。

 脳裏を過った予感に、訊ねずにはいられなかった。


「お兄さんから、貰ったものだったりする?」


 責められたように感じたのだろうか、途端に紫穂は小さく身を竦ませた。無言のまま何も言葉を発さない。しかし、それが答えになっていた。


「……そっか」


 本物の〝兄さん〟から貰った、大切なピアス。それに他者が触れる事を、彼女は拒んだ。――思い知らされた気がした。

 砂音がどれだけ彼女の〝兄さん〟になろうとしても、それは決して叶わない事なのだと。彼女が求めているのは、どうしたって本物の方なのだと。紛い物では敵わない。自分では駄目なのだと――突き付けられた気がした。


「これ……誕生日プレゼントだったの。私、二月生まれだから。誕生石がアメジストなの。そうだ。砂音くんは、誕生日いつ?」


 場を取り繕うように、紫穂は敢えて明るい声を出した。痛みを隠して微笑んで、砂音はその話題に乗る。


「俺は三月。九日だよ」

「じゃあ、アクアマリンだ。え、近いね。私、二月十八日。もしかして、うお座だったりする?」


 頷いて見せると、紫穂は「一緒だね」と言って、笑った。それから、そこにまた一掬いの負い目を混ぜたように、瞳を伏せる。


「うお座って、十二星座中一番感受性が豊かで優しい星座なんだって。私は外れてるけど、砂音くんは、何だか分かる」

「そうかな。紫穂だって、合ってると思うけど」


 否定するように、彼女は曖昧に微笑んでそれ以上の言及を避けた。彼女は自分自身を責めている。〝優しい〟なんて言葉に、自分は相応しくないのだと考えている。けれど、それなら砂音だって同じだった。


 ――俺は、優しくなんかない。


 今も、彼女の耳朶に穿たれた紫の宝玉を……彼女の〝兄さん〟への執着の証を、引きちぎってしまいたいと思っていた。自分の中にそんな苛烈な感情が在る事を、初めて知った。そして、その事に、自分自身でも慄いていた。

 彼女を守りたい。彼女を幸せにしたいと思う一方で、彼女を傷付けるような衝動を抱いている。こんな後ろ暗い感情、決して表に出してはいけない。彼女に悟られてはいけない。――彼女の望む通り、〝優しい〟男で居なければ。


 そうして、自分の中に封じた醜い嫉妬の念を、今一度彼女の紫水晶アメジストのピアスに見ていた。紫の小さな光は、今も彼を拒むようにそこに在り続けている。


 ――俺は、彼女の〝王子様〟じゃない。


 彼女が幼い頃憧れて夢想した人魚姫の王子様は、きっと彼女の〝兄さん〟だったに違いない。彼女の想いに終ぞ気付く事なく、他の女性と婚姻を遂げた、原作の通りの王子様。ならば、人魚姫は……彼女は、どうなる?

 近くに在るのに、決して触れられない、硝子の向こうの理想郷に少しでも近付こうとするかのように、紫穂がそっと水槽に手を伸ばす。まるで、海に帰れなくなった人魚姫。その仕草が、深く胸を抉り――不意にまた、彼女が消えてしまう恐怖に襲われた。


 後ろから、抱き締める。彼女の存在をその場に繋ぎ止めるように。砂音の突然の行動に、紫穂は少し驚いたようだった。キョトンとした顔が水槽の硝子に映る。


「どうしたの?」


 やや困惑した声を上げる彼女に、砂音は瞬間答えに窮し、


「童話のお姫様に憧れる紫穂が、可愛いなって」


 結局そんな風に誤魔化した。「何それ」と彼女は擽ったそうに笑う。その笑顔だけは、初めて見せてくれたものと同じ、屈託のない表情だった。

 この笑顔を守りたい。悲恋では終わらせない。模造品の王子様は、いつしか本物になる事を願った。


 観賞順路の最奥に差し掛かった所には、周囲の展示とは一線を画す一際明るいブースがあった。


「おみやげ屋さんだって。寄ってく?」


 答えは分かっていたけれど、一応尋ねる。すると紫穂は、案の定微苦笑を浮かべて遠慮を示した。


「ううん。……大丈夫」

「……そっか」


 何処へ行っても、そうだった。食べ物など、その場で消費されるものは断らないが、土産物や、自分の写真。そうしたものは彼女の気が乗らないようだった。

 紫穂は、形に残る思い出を嫌った。きっとそれは彼女にとって、自分達の罪の記録に他ならないからだ。目に見える形で傍に置いておくと、罪の意識に胸を締め付けられるように思うのだろう。


 自分達の関係は、過ちだ。互いにそれを分かっていて、それでも二人で必死に幸せの形を探した。

 砂音がいつしか本物になりたいと願ったのと同じように、紫穂は紫穂なりに、義兄あにではなく、砂音自身を愛そうとした。その事は、砂音にも伝わっていた。


 けれど、人間の気持ちというものは、そんな簡単に切り替えが利くようなものではないのだと。時を重ねる毎に、じわじわと。水を吸った布が次第に重さを増すのと同じように、この先揺るぎない事実として思い知らされていく事になる。

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