4-3 戒め


 嘘を吐いた。


「遅くなって、ごめん」


 指定された待ち合わせ場所に向かうと、先に来ていた相手に砂音はそう告げた。彼の到着に気が付くと、相手の少女はぱっと顔を輝かせ、かと思えばすぐに頬を膨らませて拗ねて見せた。


「もー、砂音くん、なかなか会えないんだもん」

「ごめん、部活もバイトも休むとなると調整が必要だったから」

「知ってる。だから別に怒ってないよ。それに、今日は焦らされた分、いっぱい遊んで貰うんだから」


 ね? と甘ったるく鼻に掛けた声音で小首を傾げる相手に、砂音は曖昧な笑みを返した。上機嫌な相手はそれで満足らしく、深くは言及してこなかった。

 同じ学年の青のカラーの制服を纏った他クラスの少女――いつぞや砂音の眠る空き教室に訪れ、逢瀬を重ねたあの娘だった。問われるままに教えた連絡先アドレスに、再三また会いたいとの要請を受けていたのだが、今回それを受諾した形になる。

 鼻歌でも歌い出しそうな様子の相手を見るでもなく視線だけ向けながら、砂音の脳裏には昼休みに掛けられた朱華の言葉が再生されていた。


 ――『音にぃ、いつもこんな事してたのか?』


 咎めるような、不安と心配を混ぜ合わせたような揺れる問い掛けが、耳から離れない。


 ――『まさか』


 白々しくそう返したけれど、彼女の知らない所で自分はまたこうして罪を重ねている。

 あの訊ね方からすると、もしかしたら彼女も砂音に関する〝良くない噂〟を聞いた事があるのかもしれない。


 ――もう、会わない方がいい。


 そう思うと、胸が痛んだ。自分はここ数日、浮かれてしまって立場を忘れていたから。

 数年ぶりに朱華に会えて、嬉しかった。また話が出来て……昔みたいに、一緒に食事が出来て。彼女が変わらず優しくて、嬉しかった、楽しかった。ただ仮眠するだけのつもりでいた昼休みが、待ち遠しくなった。

 だから、誰にも見つからなければいいと思っていた。あの時間が……ずっと続けばいいのにと、思ってしまった。


 だけど、そんな事――願ってはいけなかった。

 自分はもう、当たり前の幸せを享受してはならないのだから。


「ねぇ、砂音くん」


 呼び掛けられて、不意に物思いから醒めた。脳裏に描いていた朱華の姿はたちまち消え失せ、目の前には甘やかな香水の香りをさせた同学年の少女が、上目遣いにこちらを見つめていた。長い付け睫毛は、瞬きの度にばしばしと音が聞こえてくるかのようだ。

 何? と問う代わりに、目を合わせて微笑んだ。彼女は心得たように笑み返して、要件を述べる。


「これから、どこ行こっか? あんまり街中ウロウロしてると学校の人に見つかりそうだから、どっか屋内に入っちゃった方が良いよね。あんまり変な噂立てられたら、砂音くん、困るでしょ?」


「わたしは別に構わないけど」そう言って、悪戯っぽく笑う。蠱惑的な笑みを口元に刷いて、彼女は続けた。


「そうだ。ねぇ……砂音くん家、連れてってよ。一人暮らしなんでしょ?」


 一人暮らしの男の部屋に行く。その事の意味を、彼女は理解していない訳ではあるまい。むしろこれは婉曲な誘いだ。

「駄目?」と小悪魔のように誘惑する彼女の言葉は、糖度の高い毒だ。蜜のようにべったりと耳朶に絡み付き、剥がれない。そこからじわじわと侵食し、脳細胞を犯す。

 空き教室で交わした熱が彼女の瞳の奥に燻り続けているのが見えた。あの日の続きを所望する意図を汲みつつも、その上で砂音はこう応えた。


「いいよ。……君が、そう望むのなら」


 いつものように、二つ返事で。

 それは、優しいようでいて、何処か突き放した台詞だ。

 いいよ。……どうでも。どうなっても構わない。好きにすればいい。

 そんな自暴自棄な諦観の響きが含まれている事に、相手は気付かない。ただ彼の了承を得た事にご満悦で笑みを深め、甘えるように彼の腕に己の腕を絡ませた。既に恋人気分のようだ。

 けれど、砂音は別段振り解く事もなく、相手の望むように振る舞うだけで――殺した心が動いたのは、前方にある人物の姿を認めた時だった。


「……ねぇ、見てアレ。何かヤバくない?」


 近くで囁き交わす声になんとはなしに目を向けてみると、ひそひそ話の主達の視線の先に、若い女性の軍団が列を成して道を行く様が見て取れた。行軍……そう例えた方がしっくりくるような、一種異様なただならぬ雰囲気を放っている。それは、彼女達が普通の一般人とは異なる、一様に尖った気配を纏っているからに他ならない。

 まるでこれから戦場にでも赴くような、そんな緊張感を漂わせて、周囲を威圧しながら進むその集団の只中に、一人だけ制服の――見慣れた少女の姿があった。


「……朱華ちゃん?」


 唖然と零した彼の呟きを拾ってか、腕組みの相手も足を止めて同じものに目を向けた。そこに見つけた自分達と色違いで揃いの制服に、「あっ」と声を上げて口元を押える。


「あの子、最近噂の転校生でしょ。前の学校で札付きのワルで退学になったって。あんな不良連中と一緒に行動してるって事は、あの噂本当だったんだね」


「怖~い」と、わざとらしく甘ったるい声を出して、砂音の腕にしがみつく。それには構わず、砂音は集団に連行されるようにして遠ざかっていく朱華から目が離せずにいた。


「……何か、様子がおかしいような」


 友人にしては、空気感が変だ。このまま放置して行かせてしまっていいものか。

 逡巡する彼の様子に、不満そうに唇を尖らせながら、くっつき虫の少女はくいくいと砂音の腕を引っ張った。


「別に、ただの友達でしょ。放っときなって」


 そう、なのだろうか。どうにも引っかかる。……しかし、ここで自分が行ったとして、どうするというのだ。先程自分は、もう彼女とは必要以上の関わりを断つと決めたばかりではなかったか。


 ――そうだ。もう彼女に甘えてはいけない。


 砂音は改めて、己にそう言い聞かせる。

 彼女の傍は、陽だまりのように温かくて、居心地が良いから。……自分はそこに居てはいけない。癒されては、いけないのだ。


 腕を引く相手の意に沿って、砂音はそっとその場に背を向けた。



 ◆◇◆



 連れて来られた先は、如何にもな倉庫跡地だった。元は白壁だったのだろう、朽ちてくすんだ灰色の建物の残骸が、暮れなずむ夕陽に照らされて薄朱く染め上げられている。

 工事予定でもあったのか、周囲を簡易的な板塀で囲われ隔絶され、人目を避けてひっそりと遺された場所。ここは、彼女らのような人種にとってはうってつけの根城だろう。人々から打ち棄てられ、忘れ去られた場所には、同じように社会からはみ出して遺棄された者達が寄り添うのだ。


 拘束こそされていないが、朱華に行動の自由は許されていないようだった。促されるままに足を踏み入れた内側は何も無く、ただ土臭い湿った臭いと、だだっ広い空間だけが待ち構えていた。

 所々欠けた屋根から天然のライトのように降り注ぐ朱色の光が、ノスタルジックな趣を感じさせる。じきに夜の闇が支配する刻限だろうに、それ以外の照明は灯される気配がない。電気はもう届いていないらしい。


 薄暗い屋内で一対多数で取り囲まれた朱華は、未だ茫洋と定まらない頭で、自分が夢でも見ているのではないかと思った。……そう、少し前までの自分が生きていた、裏社会とでも呼ぶべき世界の夢だ。あるいは、自分はまだあの頃に居て、砂音と再会し新たな友人を得た現実――あちらの方こそが、実は夢だったのではないか。そんな奇妙な感覚に囚われた。


 肌を刺すようなピリリとした馴染みの空気は、まだ懐古の念に浸るには年月が足りていない。懐かしさよりも、飽いた感慨の方が湧いた。そうして、ぼんやりと曖昧な世界に佇む朱華に向けて、正面に対峙した例の白金プラチナ・ブロンドの短髪の少女が、おもむろに口を開いた。


「更科 朱華。……何で連れて来られたのかは、分かってんだろ? えぇ? 〝曼珠沙華マンジュシャゲ〟の元総長、〝血染めの朱い華〟さんよ」


 凄むように告げられたその呼称も、懐かしいというよりも相変わらず痛々しかった。自分からそんなものを名乗ったつもりはなかったのだが、気が付いたら周囲が勝手に彼女をそう呼んでいたのだ。

 朱華の名から着想を得て自分達にそんなチーム名を付けたのは、彼女を慕っていた自称妹分の一人だったか。そもそも、朱華はチームなどというものも組んだつもりもない。それも気が付いたら彼女に惹かれた人々が周囲に集まっていて、いつの間にかそういう事になっていただけだ。

 とはいえ、そんな事を言っても到底相手は理解しないだろうから、朱華はただ黙っていた。その沈黙を肯定と受け取ったのか、白金の少女は勢い付いて続けた。


「てめぇ、チーム抜けたんだってな? んで、これからは心を入れ換えて普通の女子高生として生きます、ってか? てめぇのチームメイト達がそれで許しても、あたしらライバルチームとしては、てめぇにこのまま勝ち逃げされる訳にはいかねーんだよ。チームの誇りってもんがあるからな」


 ライバルチーム、と言われても朱華にはピンと来るものがなかった。ので、こう訊ねた。


「悪ぃ……あんたら、誰だっけ?」


 これは当然ながらに相手の怒りを買った。方々からぶつりと血管が切れる音が聞こえてくる程に、周囲が一瞬で沸き立った。


「ふっ……ざけんなよ、てめぇ! 〝山茶花サザンカ〟だよ! んで、あたしはチームリーダーの〝椿ツバキ〟! てめえらよりも前にウチらのチームが存在してたのに、後から来といて赤い花の名前で被せて来やがって!」

「ああ……それで何か因縁付けられたから、うるせぇって返り討ちにして追い払った連中か」

「そうだよ、畜生! てめえらにナワバリを奪われて、こうして拠点を移して活動してたら、今度は何だ。あたしらの新たなナワバリにまで、何食わぬ顔でやって来やがって!」

「お前ら、今はこの辺で活動してたのか。それは知らなかった、悪い」

「だから、そんな気軽な感じで謝るなよ⁉ こっちのメンツも考えろ‼」


 そうは言われても……。


「じゃあ、どうすりゃあんたらの気が済むんだよ」


 朱華が溜め息混じりに質すと、ツバキと名乗った少女は、瞬間黙して口元を吊り上げた。それから、たっぷりと気を持たせるような間を空けて、いらえる。


「……分かってんだろ? ケジメ付けろや」


 獰猛に笑う〝山茶花〟の総長は、しかし目だけは笑っておらず、天井から漏れ出づる夕陽の朱を取り込んで、ぎらついた眼光を放った。



 ◆◇◆



 前を行く彼が、不意に足を止めた。

 困惑の眼差しで彼女が覗き込むように見上げると、砂音は至極真剣な表情をしていた。何かに憑かれたように前を見つめたまま、こちらとは一切、目線が交わらない。焦燥に駆られ、彼女が名を呼ぶ。


「砂音くん……?」


 この場に彼を繋ぎ止めようと、切実で縋るような響きをもって――呼び掛けた声は彼の耳に届いた筈だが、ヘーゼルの瞳はやはりこちらを向かなかった。代わりに、彼の口から言葉が零れ落ちる。


「……ごめん。俺、やっぱり放っておけない」


「え?」と戸惑う彼女の腕をするりと解いて、砂音はそのまま元来た道の方へと駆け出した。


「砂音くん⁉」


 甘さを失った彼女の声が必死に背に追い縋るのも無視して、彼は朱華が消えた方角に一心に足を進めた。

 頭上には、朱から次第に紫へと移りゆく鮮やかなグラデーションの空に、微かに白い星々が瞬き始めていた。

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