3-5 手遅れの恋に落ちる。
隣には親友の千真、手には荷物と共に大きなゴミ袋。どうやら、砂音はまたゴミ捨て当番を請け負ったらしい。
話題の人物の登場に、リーダーの女子は瞬時に顔色を失くした。朱華に追われていた時よりもずっと強い恐怖を
自分のした事を知られたら、砂音に嫌われてしまう――その心情が、朱華には痛い程に伝わって来た。
「朱華ちゃん、どうして、そんなに濡れて……何があったの?」
ずぶ濡れの朱華に気が付いて、砂音が心配げに駆け寄ってくる。彼女が口を開くより先に、ここでハッとしたように取り巻きの女子達が咄嗟に言い訳を述べた。
「う、うちら掃除しててっ! うっかり更科さんに水を掛けちゃったら、更科さんがブチ切れて!」
「そ、そうそう! 謝ってるのに、全然聞いてくれなくって!」
「怖くて、思わず逃げちゃったら、追ってきてさぁ!」
口々に飛び出す〝自分達は何も悪くありません〟アピールに、傍らで聞いていた千真が見苦しいものを見たように眉を顰める。砂音はぽかんとした表情でそれらを受けた後、改めて朱華の方に振り向いた。
「朱華ちゃん」
事情を問おうとするニュアンスの呼び掛けに、朱華が先んじて答えた。
「ああ、そうだよ。そいつらの言ってる通りだ」
微塵の躊躇いもなくサラリとそう言ってのけた彼女の対応に、驚きの色を浮かべたのは砂音よりもリーダーの女子の方だった。
朱華は砂音の方を見ないように顔を逸らして、やれやれと肩を竦める芝居を打つ。
「音にぃに叱られんのも面倒だから、もういいわ。あたしは帰る。てめぇら、今度からは気を付けやがれよ」
それだけ言って朱華は早々に身を翻すと、自身の下駄箱のレーンへと向かった。濡れた身体を拭う事も、着替えをする事もなく、そのまま下校する気のようだ。
後に残された面々は暫し誰も身動きすら出来ず、呆気に取られていた。しんとした空気の中、最初に声を発したのは千真だった。
「……怖。やっぱとんでもねえ女じゃねえか、アイツ」
見た目通りの不良女。彼の中では朱華の評価がそう下されたようだった。しかし、砂音が聞き咎めたのは千真のそんな感想ではなく、
「あの子、何で……」
という、リーダーがぽつりと零した言葉の方だった。
「神崎さん」
砂音が名を呼ぶと、リーダーの女子はびくりと身を竦ませた。叱られる、と身構える子供のように。
「本当の事、聞かせてくれるかな」
こちらに振り向いた彼の表情は真剣そのものだった。ヘーゼルの瞳に見詰められて問われると、彼女の心は大きく動揺した。
千真が驚いたように己が親友の方を見遣る。リーダーが答えるよりも先に、取り巻きの女子達が慌てて横から口を挟んだ。
「ほっ、本当の事って……今のが本当で」
「違うよね。朱華ちゃんは、そんな事するような子じゃない。ちゃんと話を聞いてくれる子だよ」
きっぱりと断言されると、彼女達は揃って声を失った。未だ迷いを抱えたままのリーダーを促すように、砂音は彼女の顔の横から下駄箱の壁に手を着いた。息を呑む彼女の瞳を、先程よりも近い距離で正面から覗き込み、今一度問う。
「――話してくれるよね?」
それは質問ではなく、命令だった。
◆◇◆
寒風に吹かれて、朱華は小さく身震いした。
「……やべ。そのまま来ちまった」
勢い余って濡れた格好のまま校外へと飛び出してしまった。流石にこれは冷える。じきに夏が来る頃合とはいえ、まだ春の陽気を孕んだ風は、水分を含んだ制服には冷たい。
何処かで着替えよう。そういえば、冷水を浴びせられて吃驚して止まってしまったが、そもそも自分は用を足そうとしていたのだ。公園辺りの公衆便所でも探して、ジャージに……と、そこまで考えて、はたと静止した。
――いや待て、鞄! 置いてきた⁉
てっきり持っているつもりでいたそれは、空の両手を見下ろせば忘れてきた事実が明白だった。最悪だ。そういえば、
来た道を引き返そうとして、ふと砂音の顔が脳裏に浮かび、足を止めた。……まだ近くに居たりして。今顔を合わせるのは、何だか非常に気まずい。もう少し間を空けてから戻った方が良いだろうか。
――音にぃには、きっと呆れられたな。
そう思うと胸に針を刺されたような痛みを得るが、同時に、何処かで安堵する自分も居た。
呆れられたのなら、嫌われたのなら――きっと、その方がいい。
あの優しい笑顔に、変な希望を抱いたりせずに済むから。
「朱華ちゃん!」
不意に、背後から呼び止められた。やはり、一瞬で誰だか分かる。バツの悪い気分でそろりと振り向くと、砂音がこちらに向かって駆けてくる様が窺えた。その手に、朱華の鞄が提げられているのを見て取り、彼女は目を丸くした。
こちらに追い付くと、彼はその鞄を突き出すように掲げ、「はい、忘れ物」と柔らかく笑み掛けた。思わず受け取り、朱華は唖然と零した。
「……何で、音にぃが」
あたしの鞄を? と、続く疑問は呑み込んだ。次に砂音が思いがけない事を口にしたからだ。
「神崎さん……あの子達から聞いたよ。朱華ちゃんとの間に、本当は何があったのか」
「へ?」
「だって、朱華ちゃんがあんな理由もなく怒ったりする訳ないもん。あの子達の事庇ってるんだなって、すぐに分かったよ」
「朱華ちゃん、優しいから」そう告げる砂音の声に、朱華は途端に胸苦しさを覚えた。
――なんで。
きっと、呆れられただろうと思っていたのに。
「朱華ちゃん、昔からそうだったもんね。給食係の子がうっかり鍋を運搬時に落としてスープを駄目にしちゃった時も、クラスの子達の怒りの矛先がその子に向かわないように、朱華ちゃんは自分がぶつかったからだって言って、庇ってた。……誰かの為に、自分が悪者になるのを厭わない子だった。だから今回も、きっとそうなんだろうなって」
――どうして、いつも……音にぃには分かっちゃうんだろう。
「……別に。そういうんじゃねえし」
不器用に隠した本当の自分、蓋をした本当の気持ちを、いつもそうやって探して、見つけ出してくれる。
「……ごめんね。今回の事は、俺の所為だね」
眉を下げて申し訳なさそうに謝る砂音に、朱華はハッとして言い募った。
「違う! ほら、そうやって……音にぃは、すぐ自分を責めるだろ!」
「ヤなんだよ、そういうの」朱華がそう主張すると、砂音はキョトンとした表情を浮かべた。それから、ふっと力を抜くように頬を弛める。
「そっか……朱華ちゃんは、俺の事も庇おうとしてくれてたんだね」
「やっぱり、朱華ちゃんは優しいね」そう言って
「買い被り過ぎだし。あたしは、そんな優しくなんか……っくしゅん!」
目線を外して、口の中でもごもご言っていると、途中でくしゃみが出て来た。またぞろ軽く身を震わせる。それを見ると、砂音は慌てて自身の鞄からタオルを取り出した。そのままふわりと、朱華の頭から包み込むように被せる。青色のスポーツタオルからは、洗いたての石鹸の匂いがした。
「朱華ちゃんは、優しいけど……自分の事も、もっと大切にしてね。そのままだと、風邪引いちゃうよ」
穏やかに言い聞かせながら、朱華の濡れた髪を拭うように、布越しに頭を撫ぜる。彼の指先の優しい温もりに、朱華は心の柔らかい部分を掴まれた気がした。喉の奥が詰まる。不意に泣き出したくなるのを、顰めっ面で何とか堪えた。
――駄目だ。今そんな風に優しくされたら、気が付いてしまう。
ずっと、目を逸らそうとしていた事実に。
いや、本当はとっくに気が付いていた。でも、気付かないフリをしようとしていた。……だって、認めてしまったら、余計に苦しくなるだけだから。
――好きだ。
あたしは、今でもやっぱり……音にぃの事が、好きなんだ。
それは、自覚した途端に失恋が決まっていた、手遅れの恋だった。
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