BLACK TRIGGER

RAG

プロローグ


 大粒の雨が降る中、この街は相も変わらず賑やかだ。

 煙突から噴き出るスモッグは悠々と空へと上がり、その中に混じった毒は雨雲と混ざりやがては雨となって地面へと降り注ぐ。

 降り注ぐ雨水を溜めるドラム缶の水面には毒々しい虹色が浮かび上がり、住人は手馴れた手つきで虹だけをお玉で掬い上げ、地面に零した。

 政府主導で開発した水のろ過装置に繋げる為のホースを、雨水の溜まったドラム缶に入れ、装置を起動する。けたたましい音を上げて装置は水を吸い上げ、

反対側のホースからは『少しだけ』綺麗になり、飲めるようにはなった水が排出された。

 マズイマズイと言いながらも住人たちはその水を飲み干す。ある者は持参した水筒やペットボトルにその水を入れて、棲み処にしている廃アパートの

自室へと運ぶ。

 壊れかけのテレビはノイズが走り、流れる映像は白黒と極彩色が入り乱れる。見ている人間はこれに慣れたのか、安く仕入れた医療用アルコールに

ろ過していない雨水を注ぎ、薄めた物を呑んでいた。肴はコオロギとバッタの乾物。その為に飼育しているのか、薄汚れたゴミ箱の中には大量の昆虫が

蠢ていた。

 外を見上げれば、真っ先に移るのは豪華絢爛な城、ホワイトハウス。そこに住むのはこの国の代表、大統領と政治家たちである。

 その城を中心に広がるビル群と工場地帯。工場から排出される煙と汚染水はその下層へと流れ着く。下層――スラムと呼ばれる場所には汚染水と

共に住宅地を追われた者、職を無くした者たちが集う。

 その日暮らしの生活を享受する者もいれば、夜な夜な金持ちの家に忍び込んで金品を盗み売る者、違法なドラッグを中層の人間に売る者などもいた。

 荒れ果てていくかつての強大国は貧富の差が一段と激しくなった。

 富を持つ者は救われ、無い者は容赦なく切り捨てられる。

 無い者同士で繰り広げられた意味の無いデモ行進すらも、結局は金持ちが富を得る為に仕組んだ罠であった。

 事実を突きつけられた人々は暴徒と化すも、雇われた傭兵や軍警察によって瞬く間に鎮圧されていった。

 自分たちの行為が無駄と分かった人々は次第に鎮静化していく。強権を握った支配者たちは自分たちの利益のみを追従し、やがて彼らに弓引くものは

いなくなっていった。

 そんな時代だからだろうか。ある時、こんな噂が流れ始めた。


 『この国の地下に巨大な監獄がある』

 『そこに住むのは不死身の怪物』

 『多額の金か、自分の命を犠牲にすればどんな願いも叶えてくれる』


 そんな噂に食いつくのは誰一人としていなかった。酒のつまみのネタ話程度、そんな扱いであった。

 煌々と輝きを放つ大統領館にもその噂は届いた。そして案の定、鼻で笑われた挙句、「やれるものならやってみろ」と宣った。

 ――翌日。大統領館の威厳を保つ為だけに設置された巨大なライト――輝きを放つ物の正体――に、政治家の一人がめり込んでいるのが

発見されるまでは。

 両腕と両足が切断されて達磨になり、顔は何度も殴られたのか元の顔の何倍も膨れていた。着用していたスーツは多量の血液を吸い込んだのか、

襟からズボンの先まで赤黒く変色し、触れば湿り、動かさなければ血が垂れる状態であった。

 この事件に国中が騒然とした。政治家は怒りと恐怖で。中間層の人間は驚きと興奮で。スラムの住人たちは狂喜乱舞して。

 事件発生からすぐに軍警察による大規模な調査が行われた。スラムはおろか中間層の人間まで徹底的に調べ尽くされ、無関係の人間に冤罪を

被せ事件を収束しようとまでした。

 そんな彼らをあざ笑うように、今度は軍警察の幹部が犠牲になった。軍警察の象徴である鷹のエンブレムの嘴部分に、半分潰された頭部がぶら下って

いたのだ。

 その翌日、また翌日にも同じような事件が起きた。犠牲者の殆どは政治家や警察の幹部。時には大企業の人間が狙われる事もあった。

 それと比例して、スラムの人間が一人ずつ消えていく事件も起きていた。

 それは政治家たちが惨たらしく死んだ後に必ず一人が消えていくというものだった。昨日まで隣で呑んだくれていた隣人が、今日の朝にはどこかに

消えて、身元まで分からなくなっていた。

 だがスラムの人間たちは警察に通報する事はなかった。冤罪で逮捕される恐れでもあり、それは彼らにとっての暗黙の了解でもあったからだ。

 軍警察による調査では満足いかなくなった政治家たちは次第に傭兵を雇うようになった。時にはマフィア等とも手を組むようになり、住民たちからの

批判はさらに強まっていった。

 悪評と蠅が飛び交う混沌とした街。その街の名前は『セントラルシティ』。

 その街に今、一人の若い警官が赴任しようとしていた。



 珍しく太陽の光が雲の間から差し込んだセントラルシティの高速道路。

 決められた速度を守らない車も多々あるが、それでも今日は平和な方だった。

 いつもならクラクションがひっきりなしに鳴り、幅寄せではらわたが煮えくり返ったドライバー同士が路肩に車を止めて殴り合っているのだが、

今日はそういった蛮行は見られなかった。

 それもその筈だ。トラックや普通車の後ろから見える赤いパトライトを付けた車が、法定速度を守った上で彼らの後ろにいるのだから。

 赤いパトライトの付いた車内には二人。運転をしているのは警察の制服を着た利発そうな顔立ちをした警官と、金髪のオールバックで決めたラフな

恰好をした男であった。

 「どうです、街には慣れましたか?」

 利発そうな男は意外にも丁寧な口調で質問する。

 「そうだね。あの署長の嫌味にはもう慣れたよ」

 金髪の男は軽口を叩きながらコーヒー缶に口を付ける。缶を上に傾け、中の土色の液体を体内に取り込む。

 「あれが私たちにとっての挨拶みたいなものですからね。でもまあ、就任早々に署長と喧嘩をしたのは貴方が初めてですよ、ブライト刑事」

 どうも、と返し、刑事と呼ばれた金髪の男――ブライト・ホープは車窓から外を眺める。

 工場地帯と言われる場所ではもくもくと煙が上がり、それは段々と天へと昇っていた。あれらの中にどれほどの有害物質が混じっているのか、

ブライトには見当もつかない。

 (日本の湾岸方面の工場と似たような景色だな。ただ、日本の煙は白かったがこちらでは紫色なのか)

 視線を逸らし、今度は住宅地の方を見る。そこにはスーツを着て忙しそうに歩く者や、ベンチに座り込んで長々と携帯電話をいじる者、買い物帰りの

主婦が数人集まって何かを喋っているのが見えた。

 駅の方に近づくにつれ、忙しそうに歩き回るスーツ姿がより一層目立つようになる。そしてホームレスの姿も。

 (こちらは日本と同じだな。あちらでも浮浪者やサラリーマンが多かった)

 視線を上にあげると、そこにはホワイトハウスが見える。ただそれだけだ。あそこには別に思い入れも何もない。

 スラムの方も見ようとしたが、事故防止の為のガードのせいで見えなかった。今一番の問題はそこであるというのに。

 ブライトは小さくため息をつく。そして視線を前に戻し、運転している警官に質問した。

 「このパトロールが終わったら、次は何をすればいいんだイーサ」

 「特に何も言われていませんね。それに、下手に動いて刺激しない方がいいですよ」

 「分かった。それじゃあスラムに寄ってくれないか?」

 「スラム、ですか?」

 怪訝な顔をしたイーサに、ブライトは只の視察だと返す。

 「正直、気は乗りませんね。あそこは上級国民憎しで動いてますから、殺されるかもしれませんよ?」

 「いずれ行く事になるからな。それなら今の内にスラム内部の近況を知りたいし、可能であれば協力者も作っておきたい」

 イーサは更に怪訝な顔をする。そもそもこの街でスラムに協力者を作ろうとする人間を聞いたことが無いからだろう。それほどスラムの人間は

嫌われており、また信用ならない相手なのだ。それに彼らは警察に対しては殺意を剥き出しにしている。命令でスラム探索を命じられた日には

多くの同僚が遺書を書いているのをイーサは目撃していた。

 「・・・・・・分かりました。遺書を用意しますよ」

 しかし、一応はブライトの方が立場が上だ。苦虫を噛み潰したような顔で、彼は了承する。

 「いらないよ。イーサはスラム手前で待機していてくれ。俺一人で行く」

 「はぁ・・・・・・了解」

 スラム方面に近い道路出口に車を寄せ、ブライトたちの乗る車はそのまま下へと降りて行った。

 彼らの車がいなくなった途端、大人しくしていたトラック達は一斉に暴走し――夕刻時には交通課に捕縛されていた。



 スラムと住宅街の境目。武装した警察官二人が門の前で待機していた。

 車を近くのガソリンスタンドに止めたイーサは「護身用です」と銃と通信機を手渡してきた。

 「大丈夫だとは思いますが、警戒はして下さい。まだ例の政治家殺しの犯人が捕まっていませんからね」

 「イーサの推測だと、犯人はスラム街の人間だと思うのか?」

 「それは分かりませんが・・・・・・噂だと政治家一人が死体となる度に、スラムの人間が一人減っていると聞きますからね。可能性はあるかも」

 「ふむ。一人死ぬ度に一人が消えるか・・・・・・。まるでサブカルチャーの謎みたいだな。わかった、気を付けるよ」

 銃と通信機を受け取った彼は車を出て、門の武装警官二人の前まで歩いた。

 彼らの前まで来ると、軍警察刑事課のバッジを取り出す。それを見た二人は互いに顔を見合わせ、横に一歩ずれて道を開ける。

 「お気をつけて、刑事」

 片割れの一人がそう呟く。ブライトは頷き、スラムの内部へと入っていった。

 その後、二人は元の場所に戻る。車の中で、イーサは呆れたように口に出す。

 「どうかご無事で。出来れば死体で再会は止めてほしいのですが・・・・・・」

 彼の言葉が届いているのか、ブライトはどんどんと奥へ入っていく。崩れ、鉄骨が剥き出しになったビルには、こちらを見つめる住民たちが

ちらほら見かける事が出来た。

 露天にはどこから流れてきたのか。アジア産の米や乾燥パスタ、レトルトカレーやソースが乱雑に並べられていた。

 隣では護身用としてテーザーガン、スタンガンや警棒がやや割安で販売されていた。警棒はあちらこちらに傷が見受けられたので、誰かが捨てた物を

横流ししたのであろう。

 反対側にも店があり、そちらは建物内に店を構えていた。タバコを口に咥えながら、今日の売り上げを勘定している所のようだ。

 細い通路には飢えに耐えかね横になった老人。それを気にせずはしゃぎまわる子供たち。彼らを見守りつつ辺りを警戒する大人たち――。

 白人も黒人もアジア人も関係なく、ただ職と家を失った者がここに集う。ここでは常に何かしらの小競り合いが起きており、その大半はマフィアの

構成員たちが仕組んだ娯楽のようでもあった。

 また大統領選挙前には、ここの人間たちを扇動する活動家も現れていた。彼らに扇動され、大規模なデモを行うも、結局は軍警察に鎮圧されるのだが。

 噂では聞いていたが、ここまでひどいとは思っていなかった。それがブライトの印象である。

 飢えを凌ぐために男たちは犯罪に手を染め、女子供を使って売春を繰り返す親たちもいる。そして彼らを雇う、買うのは富ある者たちだ。

 彼らスラムの人間は金持ちを嫌悪するが、その金持ちのお陰で今を生きている。なんて皮肉だろうか。

 (もういいだろう・・・・・・。大方見終わった)

 また次の機会に訪れよう。そう思ってイーサの待つ表通りに足を向けた、その時だ。

 足がおぼつかない様子で、ふらふらとブライトの前に老人が立ち塞がった。

 老人は訳の分からない言葉をぶつぶつと呟きながら、白く濁った眼は両方とも明後日の方向へと向いていた。

 それでも、ブライトの方へと少しずつにじり寄ってくる。まるで助けを求めるかのように、両手を前へと突き出しながら歩いてくる。

 その光景に驚きつつも、ブライトは持ち前の正義感から、「彼を助けなければ」と老人へと駆け寄る。

 「大丈夫ですか?」

 ブライトの言葉に、老人はただ呟くだけだ。老人の肩を揺さぶりながら、同じ言葉を投げかける。

 「おじいさん、大丈夫ですか?どこか体調が・・・・・・」

 「あ・・・・・・あぁぁぁあ・・・・・・?」

 老人の眼球がブライトの方へと向く。白く濁った眼の中にしっかりと彼の姿が映し出された。

 「あの――」

 ブライトが言葉を発しようとした、その瞬間。老人は声にもならない叫び声をあげてブライトに掴みかかった。

 やせ細った老人とは思えないほどの膂力で、ブライトはいとも簡単に地面に伏せられる。老人の細く、骨と皮だけの指が自分の首に食い込むのを、

彼は驚愕しつつも恐怖を感じた。

 首の血管が徐々に締まっていくのが分かる。酸素を送り込む為の部位が徐々に力を失い、やがて意識が朦朧としだす。

 振りほどこうにも老人の方が強く、暴れれば暴れるほど老人の手に込める力が強くなる一方だ。

 そんな状況であるのに、スラムの人間たちは全く動かない。皆が遠巻きに事態を傍観しているだけだった。

 無論、今のブライトにそんな余裕はない。苦しみながらも老人から離れようと彼の肩を掴んでみたものの、肩を掴む感覚さえなくなってきた。

 いよいよ、ブライトは白目を剥き出し、口から涎が出てくる。最後の止めとばかりに、老人は金切り声を上げて更に力を加えてきた。

 (意外と・・・・・・呆気なかっ・・・・・・たな・・・・・・)

 意識が遠のいていくのがはっきりと分かる。視界が段々とぼやけ、聞こえてくる音も曖昧になり始めた。

 (結局・・・・・・何も出来なかったか・・・・・・)

 後悔の念に苛まれ、思わず奥歯を噛み締める。そうしても状況は変わらないというのは分かっている筈なのに。いつもの癖でやってしまう。

 いよいよ、目の前の老人の顔すら朧げになり始めた。死を覚悟したブライトの耳には、老人の金切り声と――渇いた銃声だけが聞こえた。

 「うっ・・・・・・!?が・・・・・・げほっ!おぇっ・・・・・・!」

 急に解放されたブライトは咳き込む。今まで送れなかった酸素を脳が欲しがり、心臓は通常時よりも激しく動機する。

 早く酸素を取り込もうと大きく口を開け、何度も何度も口から呼吸を行う。

 ぼやけていた視界が明瞭になっていく。意識も先ほどよりハッキリとしていくのが分かる。

 (助かった・・・・・・のか・・・・・・)

 最後に聞こえてきた銃声――あれに助けられたのか。慌てて周囲を見渡すと、自分を襲った老人が仰向けに倒れ、陸に上がった魚のように口を

ぱくぱくと開けながら痙攣していた。

 「無事かい、刑事の兄ちゃん?」

 聞こえてきた野太い声にブライトは顔を上げる。そこには、彼よりも太い、筋肉質の男であった。

 片手に持ったハンドガンからは白い煙が噴き出ている。先程発砲したのは彼であろうか。

 「危なかったな。もう少しで二階級特進コースとおまけのこんがり肉が出来上がる所だった」

 「こんがり・・・・・・肉?訳が分からないが・・・・・・助かった。礼を言うよ。名前は?」

 ブライトは立ち上がり、握手の為に右腕を差し出したが、男はそれをやんわりと断った。

 「ここの人間は手の平に平気で毒針を仕込む連中ばかりだ。安易に握手は求めない方がいい。ああ、そうだ。名前なら――ここの奴らからは

『オウル』と呼ばれている。本名はないんだ」

 オウル、梟か。確かに知的な感じもしているし、梟のようにがっしりとした体形でもある。何よりも、正確な射撃のセンスは梟の狩りのようでもある。

 「さて・・・・・・こいつをどうするかだな。リーダーの所に回すか」

 オウルは未だに痙攣している老人の頭を足で小突く。すると、小さい呻き声が老人の口から洩れた。

 「頭を撃ち抜いてもまだ生きてるのか。相当使いこんだようだな」

 「使い込んだ?何を・・・・・・いや、それより、まずは彼を病院に・・・・・・」

 老人の下に駆け寄ろうとした彼を、オウルは腕で制止する。

 「その必要はない。俺の知り合いの良い医者がいるから、そいつに見せるさ。なぁに、すぐ近くさ」

 「そうか・・・・・・ならいいが。それよりも、なぜ俺の名前を?」

 老人を担いだオウルはブライトの顔を見て、二カッと笑う。

 「あんたの名札を見ればすぐに分かるさ。それじゃあな刑事。夜には気を付ける事だ」

 老人を担ぎ直し、オウルはスラムの奥の廃ビルの中へと入っていく。ブライトはそれを見届けつつ、疑問に感じた。

 名札など着けてはいなかった筈だが――と。

 その後は何もなく、イーサの待つ車へと戻っていったブライトであったが、遅い帰りと通信機の電源を点けていなかった事を後輩に怒鳴られたのであった。

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