むいのらくえん

@ameyamatelegraph

第1話 無為の楽園

 深い深い、藍色の空。夜が明けるにはまだ早い時間にハクトウワシは目を覚ました。傍らに眠るブラックバックを起こさぬよう、そっと寝床から起き出したハクトウワシは、近場の水場に向かい水を一杯飲んだ。

体の芯には、昨晩のブラックバックとの行為の余韻が残っていた。下腹をさすると、かすかな残響のようにじくじくと熱を持っているのが分かる。

「あなたの赤ちゃん、産んであげたかったわ。ブラックバック。」

今の素直な気持ちだった。だが、フレンズ同士の疑似交尾行為で妊娠、出産した記録はない。

初めて自分が卵を産んだ時。飼育員のナナが、自分の卵を処理する際に限りない愛情と慎重さをもって臨んでくれたことに深い感謝を覚えた。決して孵ることのない、命の宿らない蛋白質の塊を、命あるもののように敬意をもって扱ってくれた。

それと同時に、産卵経験のある鳥のフレンズたちの限りない痛みを想った。皆こんな自らの体の一部を引き千切られるような思いをしたのだ。冗談でなく命をかけて産んだ、命の宿らない巨大な卵を、それでもおのれの「輝き」だと断言できるダチョウの強さを知った。

強さとは何だろう。一人でいるとそんなことを考える時間が増えた。こんな時ハクトウワシは、いつもライオンのことを思うのだ。

 ライオンの事が嫌いだった。軽蔑していたといってもいい。パークいちの強さを誇りながら、決して人を導こうとしない彼女の態度にずっとやきもきした気持ちを抱いていた。

フレンズ同士で起きたいざこざを仲裁する際もそうだ。明らかに片方に過失がある場合でも、いつものあの、ふにゃふにゃとした曖昧な笑みを浮かべてその場を取り繕ってしまう。群れに余計な波風を立てないことだけ考える、事なかれ主義の風見鶏。そんなふうに彼女を評していた。

「でもさ。私たちはさ。そう生まれちゃったわけじゃん。強くて、賢くて、正しい、そういう生き物に。キミはたぶん、それなりに分かってくれると思うけど。」

ふにゃふにゃした、悲しそうなライオンの笑み。

「強くて正しいひとが強くて正しいこと、それってちょっと残酷なことだよ。」

あの時は分らなかった。今は、ほんの少しわかる。

私たちはフレンズだ。野生の、獲物を狩って肉を食らう動物ではない。私たちの強さは、ただ自分が生きるために振るわれるものではない。では、私たちは何のために強く正しく生まれたのだろう。ただ、そう生まれるよう定められただけなのか。

正しさが自分の証明だった。困っている者を、弱い立場に立たされたものに手を差し伸べることが自分の生きる道だと信じてきた。その道に後悔はない。だが、救い上げた弱い者と、共に並んで生きることを選んだことはあっただろうか。ブラックバックの傍らには、いつもあの弱く小さな者たちがいる。

床に戻ると、まだブラックバックは眠りに中にあるようだった。眠りの中にあっても、彼女の眉間には深いしわが刻まれていた。それを親指の腹で軽くなぜる。普段は黒く大きなマントで分かりづらいが、ブラックバックの身体は肩幅も狭く、あばらにはうっすら骨が浮くほど華奢だった。

この細い体で、どれだけの重荷を背負っていたのだろう。タスマニアデビルとオーストラリアデビル、二つの守るべき命を抱えて。自分にそれができるだろうか。守るべきものを抱えたままで、空高く舞い上がることができるだろうか。――たとえそれが今の自分にはできなかったとしても。

たとえそれが出来なかったとしても。もし自分がたった一人しか抱えて飛ぶことができなかったとしたら、その時は、ブラックバックを抱えて飛びたい。

「ニンゲンには、気を付けてね。」

ライオンの言葉が頭の中で反響する。

「ニンゲンは、怖い動物だから。」

ハクトウワシも愚かではない。戦慄すべき人間の歴史については十分に理解がある。しかし、目の前にいる人間のナナに、目の前にいる人間のミライに、ライオンが語る恐ろしいホモサピエンスの姿がどうしても重ならない。ライオンは、それはここが無為の楽園だからだという。

「無為の…楽園…?」

「ここは誰も奪わなくていい場所。誰のものも、誰のいのちも奪わなくていい場所。もしここが本当のサバンナだったら。」

ライオンが歯をむく。

「ブラックバックなんか、お腹が空いた私のいいおやつさ。」

ハクトウワシは無表情を守る。つまらない挑発には応じないというふうに。

「人間もそうだよ。この中でなら、いくらでも優しくなれる。この楽園の中でなら。」

「ならいいじゃない。どうせ私たち、このパークの外には出られないんだわ。ここはいいとこよ。」

「ははは、それもそうかもね。でも、覚えておいて。できれば、私が間違っていた方が嬉しいんだけどね。」

 静かに寝息を立てるブラックバックののっぺりとした顔を覗き込む。限りない愛しさが、胸の奥のほうからこみ上げてくるのをハクトウワシは感じていた。過去も未来もない、無為の楽園。その時間が動き出した時、我々はその楽園を追われるのだろうか。知恵の実を口にしたアダムとイヴのように。

ブラックバックの髪の毛のにおいを嗅ぎながら、ハクトウワシは寝息を合わせた。骨ばった背中からぬくもりが伝わってくる。ブラックバックを感じていたい。このまま眠れなくとも。夜が明けるまで、ずっと。ずっと。ずっと。

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