雨の日の殿

 3階の住人に戸野川という男がいた。

 奈良県出身の3浪生で、整った顔立ちの一見するとイケメンなナイスガイであったが、クセのあるキャラで3階でも浮くことなく空気に馴染んでいた。

 

 3浪というレベルの高さと名字から「殿」と呼ばれていた。

 

 彼とのファーストコンタクトは、衝撃だった。

 入寮早々、彼の部屋に招き入れられ「伊澤くん、ベッドを解体するからちょっと手伝ってくれないか」と頼まれ、「ベッドの解体?一体何を言ってるんだ、彼は……」ととてつもない怪しさを感じたものの、断ることもできず、何がなんだかわからないままベッドの解体作業を手伝った。


 「ベッドがあるとすぐに寝てしまうからなぁ。 勉強に集中するにはこれくらいしないと」


 そう言って、ちゃんと元に戻せるのか分からないほどバラバラにしたベッドを見て満足そうに彼は言った。


 「す、すげぇ、3浪にもなるとここまで覚悟ができるのか。 夜も寝ずに勉強する気か……すげぇ」と僕は心底、感心した。


 そして次の日。


 予備校で彼をみかけなかったため、「どうしたの?」と尋ねてみると、「寝てた」と信じられない答えが返ってきた。

 

 「いやぁ、布団があると寝てしまうから…」

 「寝てしまうって寝坊とかそのレベルの話かよ……。 てか、布団で寝るならベッド解体の意味あった?」と心底、驚いた。


 こいつも「アカン奴」やと落胆するとともに、妙に安心した。


 ある日、3階のメンバーで連れ立って学校から帰っていたところ、にわか雨に遭遇した。

 スコールのような激しい雨の中、僕たちは走って寮にたどり着いた。


 「濡れちゃったねぇ」などと話していると、急に殿が「うわぁ!」と大声で叫んだ。

 「なんや、なんや」と殿の視線の先を見ると、ベランダに干してある布団が雨に激しく打ちつけられている。

 どうやら殿の布団らしい。

 殿は布団を見上げたまま、茫然と立ち尽くしていた。


 「この辛さは伊澤みたいな1浪には耐えられん。 2浪の俺らでも心が折れるわ。 この苦しみに耐えられるは3浪だけや」と宮崎くんは笑っている。

 隣にいた川野くんも吹き出しそうになっている。

 高山は「アホや」という顔つきで冷たい視線を殿に向けていた。

 

 僕も正直、その光景を見て申し訳ないけれど笑ってしまった。

 

 殿はベッドだけでなく、布団までも期せずして失うこととなった。

 もう、寝坊することもできなくなるのだ。

 雨か涙かわからない水滴が滝のように彼の顔を流れていく。

 殿は表情を無くし、ずっと布団を見上げている。


 明日も雨らしい。

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