リバース・ワールド

江乃

序章

 日本の裏側には地図には記されていないもうひとつの世界があって、そこにはおかしな人間と猛獣が暮らしているらしい。僕が裏の世界に足を踏み入れたのはほんの少しの好奇心。ただそれだけだった。


--裏の世界は危険だから行っては駄目よ


 幼い頃から言い聞かされていた母の言いつけを破ったあの日、僕は裏の世界で得体の知れない猛獣に襲われた。


「ヒッ! 来るな!来るな!」


 目の前には羊ほどの大きさの獣が二体。目は黄色の毛で覆われ、キュウキュウと甲高い声をあげている。可愛らしい鳴き声とは裏腹に、剥き出しになった鋭利な牙が底気味悪い。


「誰か、助けて」


 震える足で後退りすると、一体の獣がにったり笑った気がした。息を飲み込んだと同時に毛むくじゃらの前足が僕の足首に絡まり、一瞬浮いた身体は激しく地面に叩きつけられた。そしてそのまま勢いよく獣の方へ引きずられる。


「うわあああ! 誰か!誰か!」


 地面に爪を立てながら必死にもがく。このまま見知らぬ物体に四肢を喰いちぎられ、命を落とすのだろうか。息を荒く吐き出しながら、懸命に地面の土を掻きむしる。だがクラスで一番小さい自分の身体ではこいつらには敵わない。溢れ出る涙と鼻水で地面を濡らしながら必死に抵抗を続けていたその時だった。


「やめろ、ペティの獣」


 声のした方を振り返ると、一人の少年が氷柱のようなもので躊躇いなく獣の脳天を突き刺した。透き通るようなアクアブルーの長髪が印象的な美しい少年だった。


「キュウ……キュウ……」


 目にも留まらぬ早さで駆逐された獣たちは力無く鳴くとあっという間に氷のように溶けていなくなった。

 僕は恐怖と安堵で震えながら、少年を見上げる。アニメの中でしか見たことがないような髪色と中世の貴族のような装い。そしてその人間離れした美しい容姿に目を奪われた。少年は一息つくと、腰が抜けた僕と目を合わせるように地面に跪き、優しく微笑んだ。


「大丈夫かい?」


 上手く声が出せない僕は何度も小刻みに頷いた。


「誤解しないでくれ。さっきの物体は隣国……ペティの獣だ」

「僕を、拉致するの?」


 ようやく絞り出せた声で食い気味に問うと、少年は首を傾げた。後ろで一つに縛られた髪がさらりと肩を流れる。


「ラチ? なんだいそれは」


 この世界の住人には日本語も通じないのか。僕は汗で額に張り付いた前髪を掻き上げ、みっともなく顔中にこびりついた涙と鼻水を袖で拭う。そして立ち上がり、尻に付いた砂を手で払うと少年に深々と頭を下げた。相手の機嫌を損なわないようにと、人生の内に早々と身に付けた自分なりの処世術だった。


「勝手に入ってすみません。悪気はありませんでした。もう二度と入りません」


 子どもが書いた反省文のような謝罪を口にすると、目の前の少年は寂しそうな顔をした。憂いを帯びた表情も美術作品のようだったが、今の僕の頭は一刻も早く自分の世界に戻りたいという思いでいっぱいだった。

 少年も腰を上げると、僕に握手を求めるように手を差し出した。間近で見るとまだ幼い顔付きに気付く。もしかしたら自分と同じ年くらいかもしれない。


「僕の名前はクレイル。君は?」

遠山とおやま水希みずき

「ミズキ。この出逢いを僕は忘れない」


 クレイルはそう言って僕の手を両手でしっかり握った。冷たい手だったが、優しい温もりが恐怖で強張った体を解すように包んでくれた。

 クレイルは「じゃあ気をつけて」と一言添えると、背中を向けて去って行った。揺れるブルーの髪を見ながら、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 僕が住む世界、そしてクレイルが住む裏の世界。決して交わることのない啀み合う二つの世界。


 でも僕は今日、この世界の温もりに触れた。

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