第105話『月まで跳ねる青うさぎ』

 その頃ミレーユは、暗い闇の中に居た。


 目を開けても何も見えない。

 何も聞こえず、何も匂わず、ただどす黒い世界の中、内臓が浮き上がるような浮遊感から『どこかに落ちている』ということだけを自覚していた。


 息が苦しい。吸っても吸っても空気が入ってこない。

 もしかしたら死ぬんじゃなかろうか、などと嫌な想像をしていると、不意に何かに腕を掴まれた。そして、引き上げられる。


「ッ!?」


 それはすぐに、人間の腕だとわかった。そして突然、カチリという音と共に視界が明るくなり、目が眩んだミレーユは目元を押さえた。


「……え?」


 そこで初めてミレーユは、自分の状況を理解した。


 まず、自分はどこか部屋の中に居た。


 机やベッドがあるだけの簡素な部屋だが、どんと置かれたベッドはいわゆるキングサイズというやつだろうか、ミレーユが3人並んで横に寝れるほどの大きさで、寝具はどれも一級品であることがわかった。


 先程のカチリという音は、照明器具の明かりをつける音だったのだろう。暖色系の光が空間を包み込んでいる。


 そして――この空間にはミレーユ以外にもう1人、人間が居た。


「久しぶりじゃのう、小娘」


 黒く切り揃えられた髪。女性らしい起伏に富んだ肢体。白と黒で構成されたシンプルな服装。ミレーユの腕を掴み上げる手首からは甘い香水の香りがする。赤い唇から紡ぎ落とされた声には、それだけで人を魅了するような色気があった。


「――ッ!? あな、たは……!」


「嬉しいのう。覚えておったんじゃな。……そうじゃ、わらわは【イツメ=カンナギ】。1ヶ月ぶり……いや、もっと短いな、半月ぶりか?」


 ふふ、と笑う彼女の目の奥に覗く、鋭い光にミレーユの喉はひゅっと鳴る。


 ――イツメ=カンナギ。その名を忘れるわけがない。


 ジュリオットに呪われた手紙を渡し、グラン・ノアールの案内役として『イベント』の開催を宣言し、そして交戦のすえギルを監獄送りにした人物。


 ミレーユが彼女と関わっていた時間はごく僅かだったが、それでも彼女の行動によって与えられたミレーユや周囲への影響は計り知れなかった。

 彼女がいなければ、ジュリオットは氷漬けにならなくて済んだし、ペレットも向こう側につかなかったかもしれない。


 もっともイツメと出会うことになり、後に戦争屋が収監される羽目になる原初のきっかけを作ったのは弟の治療をジュリオットに依頼したミレーユなので、彼女にばかり責任を押し付けてはいられないのだが。


「……貴方が、私をここに呼んだんですか?」


「そうじゃ。匂いでヌシが近くまで来ていることはわかっておったからの。わらわの影の能力でヌシを引き寄せたのじゃ」


「匂い……?」


 どういうことだ。ミレーユからは建物らしい建物など全く見えなかったし、そもそも建物の中から外にいる人間の匂いがわかるのだろうか。よほど鼻の良い獣人族でも流石にあの状態でミレーユを察知するのは不可能だと思うが――。


 いや、しかし、イツメ=カンナギは鬼族だ。


 実際にそうなのかは知らないが、戦争屋を脱獄させた後の船内会議でギルからはそういう風に聞いている。世間に姿を見せない伝説の種族――そんな未知の存在を相手に自分達の常識が通用する、などとは思わない方が良いだろう。


 気を引き締めていると、イツメは『そうじゃ』とミレーユの腕を離し、


「グラン・ノアールの前でわらわはヌシの首を舐めたじゃろう。覚えておるか?」


「え、首を……? そういえば、そう、ですね」


 カジノの入り口で受付をしていたイツメに出会い、『舐めて転がしたくなる』と言われて背後に回られ、ちろりとうなじを舐められた過去を思い出すミレーユ。

 あの時は何でそんなことをしたのか、全くわからなかったが……。


「それがわらわの『マーキング』じゃ」


「……マーキング? って……」


 そう言われて思い浮かべるのは、動物の習性だ。なわばりや獲物など、ある特定のものを『自分の所有物である』と示すために印をつけ、他の動物達にわからせる行為をそう呼ぶが、もしイツメの言うマーキングがそのことなら、


「えっ、あの時首を舐めたのって……私の身体に、私がイツメさんのものって印をつけてたんですか!?」


「うむ、そうじゃ」


「『うむ、そうじゃ』!?」


「鬼族は元々人族や獣人族……総じて『ニンゲン』を食う狩猟民族だった故、そういう機能が備わっておるのじゃ。舐めたり噛んだり方法は鬼によるがの。そして鬼族のマーキングは、マーキングした獲物との距離もわかるのじゃよ」


「――はぃ!?」


 ミレーユの声がひっくり返る。でも、それも仕方のない話だ。こちらが何も知らずに偵察をしている間、ずっと距離を測られていた、などと聞かされてしまえば。


「もしかして、中央大陸に来る前から私の位置が分かってたんですか……?」


「まぁの。遠ければ遠いほど匂いは薄くなり、方角もわからなくなるが、3キロほど先までは匂いを嗅ぎ取ることが可能じゃからな」


「ひっ……」


 実質のストーカー宣言に白目を剥くミレーユ。マーキングされていたせいで偵察していたことがバレたのだとしたら、戦犯は間違いなくミレーユになる。


 つまりノートンが白装束の襲撃を受けたのもミレーユのせいで、彼は敵を一蹴していたからまだ良いが、他の班も襲撃を受けていないとは考えにくく、もしフラムやリリア、マオラオ、レムが襲撃によって死んでしまったとすれば、


「全部……わた、し……の、せい、だ……」


 スッ、と血の気が引いていく。表情を凍りつかせるミレーユを前に、イツメは嗜虐的な笑みを含んで彼女の身体を抱え上げ、


「……えっ? わっ!?」


 混乱するミレーユを、イツメは大きなベッドの上に放り投げた。弾力のあるマットレスがクッションとなって衝撃を吸収し、ミレーユの身体は仰向けに広がる。

 しかし脳の処理が追いつかず、ミレーユは我に返るまで時間を要した。


 そして、いつのまにか視界に広がっていた天蓋に、一体何が起きたのか、とミレーユは何故か鼻先まで迫ってくる黒瞳の美女に困惑の目を向けた。


 すると、


「――もう1つ、ヌシに鬼族の『狩猟民族』としての特質を教えてやろう」


 イツメはミレーユの腰に跨りながら、肩までの長さの黒髪をさらりと掻き上げた。その仕草が妙に色っぽくて、危険な状況だというのについ見惚れてしまう。


「鬼族はニンゲンを食う、と言ったが……自分の手で捕まえに行く鬼も居れば、色仕掛けをしてこちらからおびき寄せる鬼もおってな」


「色、仕掛け……?」


「鬼はふぇろもん、というのか? とにかく、魔性の気を撒き散らしてニンゲンを誘惑することが出来るのじゃ。そうして大昔の鬼は『一夜を共にしたい』と異性のニンゲンを密室に呼び出し、その肉を食物として喰らっていた」


「それって、つまり、どういう……んっ!?」


 恐ろしい答えに辿り着いた時、ミレーユの口は柔らかい何かによって塞がれる。


 それがイツメの唇であり――キスをされていると気づいた瞬間、ミレーユは目を見開いて暴れようとするが、下半身はイツメの脚で押さえつけられ、腕はイツメの片手にまとめて掴まれていて、僅かに身をよじることしか出来なかった。


「……! ……ッ!!」


 やがて酸欠気味になってきて、ミレーユの青い瞳は生理的な涙で潤み始める。

 次第に視界も白みがかり、これ以上はもたないと意識を手放しかけ――ふっ、と気絶寸前で口が解放された。


「っ! はっ、はぁっ、はぁ、」


「ふふ、ヌシはいやつじゃのう。あのまま続けて殺してしまおうかと思ったくらいじゃ。わらわは男しか食わんが、そうじゃな、女も悪くない気がしてきた」


 本気か冗談かわからない事を言いながら、くつくつと笑うイツメ。


 そんな彼女をミレーユは、はくはくと呼吸を繰り返しながら涙目で睨みつける。彼女なりの、精一杯の抵抗だ。こうでもしていなければ、すぐにでも彼女への敵意を忘れてしまいそうだった。


 過去に鬼族の女性に騙されたという男性達も皆、こうして意識を曖昧にされてから食われていたのだろう。


「あぁ、それで続きがあってな。実は、鬼の口づけにはニンゲンを酔わせる効果があるんじゃ。だんだんと身体が温かくなってきて、気持ち良くなってきて、あとは何もかもがどうでもよくなる。まさに今、ヌシはその状態のはずじゃ」


「……ッ!」


「さぁ、答えるがよい。ヌシらは何故この拠点に気づいた? 戦争を仕掛けようとしているなら、準備はどれほど進んでいる?」


 ぜえぜえと喘ぐミレーユを恍惚とした表情で見下ろしながら、質問を投げかけるイツメ。何ともない彼女の問いが、今の青髪の少女には酷く甘やかに聞こえる。


 自分を制御する力がだんだんと弱まって、もうどうでもよくなってきて、とろんとした意識の中ミレーユは口を開いた。


「……答えられ、ません」


「――なに?」


「私はとある女の子に『いつ如何なる時であろうと、情報を他者に公言してはいけない』という洗脳をかけられてからここに来ています。教えたくとも……貴方には何1つ教えられません。私から聞き出すのは諦めてください」


「――ッ!?」


 アーモンドの形にくっきりと開かれた目が、さらに見開かれる。イツメが息を止めるのを見て、ミレーユは小さく呼吸をしてから笑みを含んだ。


 思い出すのは、つい先日の出来事。宴で国王が踊っている最中のことである。



《――あっ、そういえばなんですけど!》


《? はい、なんでしょうか》


《ここで言うのもどうかな、って思ったんですけど……実は、ノエルちゃんにしか出来ないお願いがありまして……》


《お願い……ですか?》



 あの時、ミレーユはノエルにジュースを配膳した後そう言って彼女を会場から連れ出し、誰もいないところで洗脳をかけてもらったのだ。


「……まさか、偵察を事前に把握されているとは思っていませんでしたが……不慮の遭遇で私が誘拐され、尋問を受ける可能性は想定していました。ですから、私の身体に命令をしてもらったんです」


 そう説明をしながら、ミレーユは密かにイツメの視線をチェックする。どうか、彼女が気づかなければ良いのだが――流石にこの近距離ではが見つかってしまう可能性の方が高い。


 しかし、通信はなるべく長い間繋いでおきたいのが本音だ。

 ……仕方あるまい。成功するかもわからない上、勘づかれて殺される可能性もある危険な行為だが――ミレーユは両足をイツメの股下から引き抜くと、限界まで身体を丸め込んでから足のバネを使い、イツメの胸を蹴り飛ばした。

 脚力に優れた兎の一撃だ。動揺していて反応が遅れたイツメは、弾け飛んで部屋の壁に衝突した。ぐらりと部屋が揺れ、イツメはずるりと壁に沿って落下する。


「っ、なに……?」


 忌々しそうに顔を上げるイツメ。彼女はベッドの上に立ち上がったミレーユを下から睨みつけ、その表情に初めて怒りの感情を滲ませた。


 顔の彫りが深い分、睨んでいるだけでも凄みがある。

 ミレーユは一瞬気圧されかけるが、それでも引き下がるわけにはいかなかった。対抗するように目を細め、鋭い青の視線をイツメに返す。


「こちらから渡す情報は、何もありません」


「……は、小賢こざかしい娘じゃ」


 ゆるりと頭を振って、イツメは立ち上がる。壁に衝突した背中が僅かに痛むが、何度も繰り返すように彼女は鬼族だ。これくらいどうということはない。


「――なるほどな、面白い。しかし、ウヌはこの状況をわかっておるか? 情報源ですらなくなったあくたに、これ以上生かしておくだけの価値があると思うのか?」


 黒曜石のような双眸にすがめられ、ミレーユは表情を強張らせながら思考する。


 ――ここから逃げる術はあるか。否。ドアを蹴破って外へ出るには、そこまでの道を塞ぐイツメをまずどうにかしなければならない。


 だが、当然ミレーユにそんなことは出来ない。それに、もし仮にそんな芸当が出来たとて、敵地の中心部へ逃げ込むのは自殺行為も同然。

 部屋には窓があることから、辛うじて地下室ではないのは確かだが、ここが何階かもわからない以上飛び降りることもあまり良策とは言えない。


 逃げ場は、ない。


「……好きになさってください」


「――ふん。殺すには勿体ない娘だと思っとったんじゃがな」


 イツメは自分の喉の影に手を差し込むと、ワープホールのように影を繋ぎ、ミレーユの喉の影から手を生やす。影を纏ったような黒い手だ。その手は蛇のように少女の頭を這い、後頭部へ回ると、五指を広げて鷲掴みにした。


 軽く指の力を強めると、頭からミシッ、とあり得ない音がする。

 それでもミレーユは毅然として立ち、イツメを真っ直ぐな目で見下ろしていた。


「言い残すことはあるか」


「そうですね。貴方は――なるべく、痛い思いをして、死んでください」


 ミレーユは震える声でそう告げた。よく見れば、彼女の足や指先も小刻みに震えていて、額にはうっすらと脂汗をかいている。強気な態度を取り続けているが、彼女の本能はこれから起ころうとしていることに恐れを抱いているのだ。


「……ふん。命乞いでもすれば、可愛げがあったものを」


 あざけるように鼻で笑うと、イツメは首の影に突っ込んだ手に力を入れ――硬いものが崩れるような感触のあと、部屋中に血が弾け散った。


 血は霧吹き状に純白のシーツを染め、そこへどろりと垂れた血が上書きをする。残された顎から下の胴体は膝から崩れ落ち、潰れてぐちゃぐちゃになった頭蓋骨と脳髄が黒い右手から手放されると、長い青髪がいっぱいに広がった。


 圧死というのは思いのほか血が遠くまで飛び散るらしく、イツメの身体もこの室内も全体的に赤い飛沫で汚される。部屋は自分の部屋じゃないので放置するが、身体の方は厄介だ。後で風呂に入って入念に洗う必要がある。


 前に入浴してから半日以内に再び入るというのも面倒臭かったが、このまま血が乾いて服にこびりつくのを待つのも同じく面倒だった。


 さっさと入って着替えよう、とイツメは指についた血を舐め取り、


「……?」


 イツメは、少女の兎耳の中に何かが嵌め込まれていることに気づいた。


 血塗れの手で拾い上げてみると、それは黒いインカムで、ランプの部分はライトグリーンに明滅していることに気づく。耳に近づけてみると、向こうからは何の声も聞こえないが、しきりに何かの音がしていた。


 この音は――木々の枝葉が擦れ合う音に近いだろうか。ということは、この無線機は外に居る誰かと繋がって――?


「……まさか、とは思うが」


 ひとつ嫌な予感がして、イツメはインカムを握り締める。パキ、と呆気ない音がしてインカムは壊れ、手の中に粉々になった部品はポロポロと床に零れ落ちた。











――【ミレーユ=ヴァレンタイン】死亡。

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