第54話『蛇に睨まれた青うさぎ』

 その白煙が一斉に針屋の足元から噴き出す様は、噴火と喩(たと)えても差異はそれほどなかった。しかし噴火とは違い恐ろしく熱のない、むしろ人肌から一瞬で体温を持ち去るその白煙は、展示された彫刻も照明のシャンデリアも稀代の芸術家の絵画も何もかもを覆い尽くして飲み込む。


 すれば当然、針屋の目の前に居たジュリオットも低音の気体の餌食となり、回避行動を取る前に全身を飲み込まれていく――。


 ただその時、死の淵に置かれていたのはジュリオットだけではなかった。


 それはジュリオットが必死に会話で作り上げた時間で逃走を試みていた2人も同様であり、その内の、ペレットに担がれて逃げていたはずのミレーユは、美術館の床に尻餅をついたまま呆然としていた。


「えっ……ペレット、さん……?」


 何も置かれていない、ただ平なベージュ色の床を凝視して、幻覚を見せられている人間かのように語りかけるミレーユ。


 当然ペレットはそんなところには居ない。しかし異常事態が起きたせいで、彼女はその後もしばらく冷静さを欠いてしまっていたのだ。故に狂ったように床に語りかけ、ペレットの名前を何度も口にしていた。


 というのも、時は遡ること数十秒前。

 ミレーユを抱えたまま駆け出したペレットが、数メートル走ってジュリオットや襲撃者からある程度距離をとった途端、何もない平面ですっ転んだのである。


 その時、ミレーユは突然の浮遊感に頭が真っ白になって、何があったのかよく視認していなかったのだが――。


 確かに、ペレットの足首が〈床から伸びた片手〉に掴まれていた。


 それで彼はバランスを崩して、前のめりになったのだ。


 いや、正しくは床からではなく〈ペレットの足元に伸びた影から〉と言った方が良いだろうか。その影から黒を纏った女性らしき綺麗な手が伸びていて、ペレットの足首を掴んでいたのである。まるでホラー小説のように。


 これだけでもよくわからないのに、わからないことは立て続けに起きた。


 まず、前のめりになるとどうなるか。ミレーユが放り投げられる。


 するとクッション材が腕から居なくなるため、もろにペレットが顔面を床に衝突させて激痛を喰らう――はずだった。が、床にぶつかった瞬間、あろうことか彼は自分が床に作った影に〈飲み込まれた〉のである。


「ペレ……ペレット、さん……!?」


 それが、ミレーユが狂ったように床に向けて話しかけている理由だ。


 しかし当然、彼女の声に床から返答が返ってくることはない。ならばと床を叩いてみても、ミレーユがペレットの身に起きたような超常現象は起こらなかった。


 ひたすらに混乱。だがすぐに、ペレットを気にかける時間と余裕もミレーユからは奪われる。ただっぴろいこの展示エリアの中、遠くから流れてきた冷たい空気に顔をあげれば、ジュリオットと襲撃者らが居たはずの場所が白で覆われていた。


「ジュリ、オットさん……!?」


 名前を呼んでもジュリオットからの反応はなく、ただひんやりとした濃霧が館内を覆い尽くし、極寒の世界に塗り替える。最初は涼しいという程度だったミレーユの居場所も、ついには真冬のロイデンハーツの夜を思わせるような寒さへ。


 ――おかしい、おかしい。明らかに空気がおかしい。


 突然の気温の変化に心臓をばくばくと鳴らしながら、へぁ、と変な声の前ぶりを入れたミレーユはくしゃみを1つする。宮殿内の暖房があるからと安心して、多少の露出があるドレスを着てきたのが裏目に出たのだ。


 彼女は腕を組むように二の腕をさすり、奥歯をがたがた鳴らして細かいリズムを刻む。吐いた空気は白く、吸った空気は肺をつん裂き、目が乾かないようにと瞬きをすれば睫毛が凍る。明らかに逃げなくてはならないのだが、ここでミレーユは場違いな眠気に襲われていた。


 ほとんど人型とはいえ、兎の性質が根本にあるせいか、本能的に身体がこの状況を真冬――冬眠の時期だと勘違いをしてしまったのだ。


 しかしミレーユは、強めに頬の裏をガリッと噛んで、眠気を一時的に打ち消す。多少鉄の味が溢れるが、それを舌で舐め取り彼女はふらつきながら立ち上がった。


 すると同時に、濃霧を突っ切ってくるひょろっとしたシルエットが1つあり、


「ッ! ジュリ……」


「あ〜あ、1人で凍えちゃって可哀想に。でも安心して? ボクが今、君の身体をあっためてあげるからね」


 ただ1人、冷たく白い息を口からゆっくりと流して、軽薄そうに笑った男だけがこちらへと歩み寄った。


 冷たい霧の影響を受けず、むしろ影響を真っ正面から受けているミレーユを、可愛らしいとあざけるように目を細めながら。


「……うそ、でしょう」


 絶望に叩きのめされたミレーユは、せっかく伸ばした膝すらも折って、へたり込んでしまった。





「ボクは【バーシー】。気軽にバーシーくんって呼んでよ」


 そう薄っぺらい笑みを浮かべたスーツの青年、針屋ことバーシーは腰を抜かしたまま現状を拒絶しているミレーユに向けて手を差し出した。その手は若干青々しくなっており、体温が異常に低下していることが見受けられる。


 ただしミレーユほどではなかった。ミレーユに比べれば、ちょっと肌が青白めな彼など四捨五入で健康体のようなものだ。


「あぁ、少し煙たいかな? 待っててね、今霧を晴らすから」


 バーシーは凍えているミレーユに憐れみの目を向けると、カーテンを横に引くような動作で霧を撫でる。すると、視界を覆っていた濃霧は一瞬にして消え去った。


「……ッ!?」


「強めにやんないと中々しっかり凍らなくてさ、巻き込んじゃったよね、ごめんごめん」


「こおら、ない、って……」


 口の中で呟くミレーユ。すると彼女は直後、こちらに手を差し伸べるバーシーの奥に、ずっと同じ体勢で凝固しているジュリオットが居ることに気づいた。


「なっ、ジュリオットさ……ッ!?」


 ようやく見つけた彼の身体は――氷の中に、閉じ込められていた。


 後ろ姿しか見えず前面がどうなっているのかはわからないが、恐らく身体の全てを氷で覆われていた。まるで結晶の中に居るみたいな彼の身体が、動くことは当然だが全くない。


 同時に、それを全く気にしていない様子と本人の発言から、ジュリオットをあの氷像にしたのはバーシーなのだと気づいた。氷の能力者。いや、厳密に言えば空気中の温度を操って、水蒸気を凍らせて集めることで氷を作る能力者か。


「……彼を、どうしたんですか」


 ミレーユは差し伸べられた手を受け入れず、警戒をあからさまに瞳に映しながらそう問えば、バーシーは若干不服そうにしつつも目尻を下げて、


「見てのまま、身体を凍らせてるんだよ」


「それ、は……殺した、ってことですか……?」


「いいや? 普通に生きてるよ、物凄い低体温にして生命活動をゆ〜っくりにしたってだけだから、なんなら長命になるんじゃないかな。ただ、身も凍り始めてるから、あのままぶち壊せば身も氷みたいに崩れちゃうけど」


 どうする? と、突然何かの判断をミレーユに委ねてくるバーシー。それに対して訳がわからないといったような懐疑の視線を向ければ、バーシーはスーツの胸ポケットから煙草とライターを取り出して、


「あの、彼。ジュリオットサン? っていうの? 彼を壊すかどうかの選択を君に聞いてるんだけど」


「――っ! 壊……」


 壊す訳ない、と即発的に答えようとするも、ギリギリのところでミレーユは踏みとどまる。これで答えたら彼は、ミレーユの反応を見るためだけに氷像となったジュリオットを破壊しようとするかもしれない。


 そんなことを平気でやるだけの、冷酷で残酷な人間の香りが、この男からはしてくるのだ。初めて体験する匂いであったが、冷気をまとい殺意を瞳に宿した彼の姿には、ミレーユでさえそんな感想を抱かずにはいられなかった。


「……ボクさ、察するってことが苦手だから、なるべくちゃんと口にして答えて欲しいんだけど」


「……答えたところで、貴方は、どうなさるんですか? 壊すなといったら、壊さないでいてくれるんですか……?」


「それはどうだろうねぇ? ボクって流れるままに生きてるから、壊さないことを君に誓っても2秒後に蹴り飛ばしちゃうかもしれない。今だって怯えてる君が可愛いから殺さないだけで、10分後にはどうなっているか」


 先端に火をつけて、慣れたように煙草を唇で食(は)むバーシー。ライターは蓋を閉じることで火が消され、バーシーの手中で温度を下げられてから元のポケットにすっと収まる。実に便利だが、それを便利だと思う余裕がミレーユにはなかった。


「……じゃあ、私に選択権なんて、ないじゃないですか」


「……そうだね。だからさ、面白いことし続けてよ。面白いことしてくれたら、彼は温かい状態で返してあげる」


 ――駄目だ、やはり迂闊に行動が出来ない。かと言って何も行動をしなければ、ミレーユに関心がなくなってしまった彼がジュリオットを殺してしまうかもしれない。どんな行動をいつ取ったって、全てが逆効果になり得る。


 更に、当然ミレーユは無力だ。兎の獣人としてちょっとした跳躍力はあっても、今は片足もろくに言うことを聞かず全力が出せない。


 仮に戦い、反抗する力があったとしても、瞬間的に人間1人を凍らせてしまうような能力者の前では歯も立たないだろう。


 どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば……!!


 などと行き場のない思考、を同じ言葉を使って巡らせていれば、



「あーっ! せんぱぁい、ここにいたんですかぁ〜!」



「……え?」


 そんな風に苦悶していたミレーユを、天上の神は憐れに思ったのだろうか。このタイミングにて、この状況を一変してくれる救世主が現れ――たと、一瞬でも期待したミレーユはどうやら馬鹿だったらしい。


 憐れまれてなどいなかった。むしろ鼻で嗤われていたようだ。


 ふと知らない少年声が聞こえてそちらを見れば、このエリアの入り口に、頭部をフードで隠さずに白い装束を纏った〈青年〉が居た。


 その180cmはあろうかという体格とは裏腹に、ふわふわと高い声を出すその青年は、にこにこと柔和な笑みを浮かべてはバーシーの元へ駆け寄ってきて、


「イツメさんから招集かかってたんで〜、伝言役でおれが来たんですけどぉ」


「あぁ……もうそんな時間? あれは? 大目玉は捕まえたの?」


「【ギル=クライン】のことでしたらぁ、彼は今も元気に逃走してますよぉ〜! 何人か差し向けてはいるんですけど、ぜーんぶ殺されちゃってぇ」


 突然ふわふわ声で紡がれたギルの名前に、ぴくり、と兎の耳を立てるミレーユ。――なんだ、大目玉とは。何をもってして彼を『大目玉』と呼んでいるのだ。


「あらま、じゃあボクが行った方が良いのかな?」


「い〜や、イツメさんが直々に捕まえるそうですよぉ。『バーシーには手を出させるな』って言ってましたから、間違っても手は出さないでくださいねぇ〜?」


「うーわ、マジじゃんイツメちゃん……他の男にご執心なんて妬けちゃうな」


「そもそも先輩みたいに女の子取っ替え引っ替えしてるヤニカスなんて、イツメさんと釣り合うわけないじゃないですかぁ。目ぇ覚ました方が良いですよぉ」


 ぱちん、と両手の平を合わせてふわふわ微笑む高身長の青年。それを受けてバーシーはドン引きしたように表情を歪め、煙草を握り締めて冷やして鎮火をすると、ぽいっとその辺に投げ捨てて、


「君ふわっふわの喋り方する癖にちょいちょい毒吐くよね!?」


「先輩のことは『家畜未満の下等生物だと思え』ってイツメさんにしっかり教わりましたからぁ。――で、その凍りついてる男の人とぉ、がたがたに怯えてる女の子はどうするんですかぁ? どっちも殺すんですかぁ?」


「あ〜〜凍ってる方は、好きに砕いて良いよ。兎の女の子の方はまぁ、殺すのも可哀想だし持ち帰って好きにやるかな」


 そう言ったバーシーの黒と青が混じった瞳が、ジュリオットを一瞥(いちべつ)してからミレーユの方に向けられる。


 ――砕く。今、ジュリオットを砕いて良いと言ったのか。今の彼を砕いたら、どうなる? 全身の周りを氷が固めているだけなら良いが、『あのままぶち壊せば身も氷みたいに崩れちゃう』と先程この男は言わなかったか?


 もし本当に身体が崩れてしまう場合――それは、修繕が可能なのだろうか。バラバラになった氷の欠片を集めてパズルのように繋ぎ合わせた時、周りの氷が解凍されたら中身の肉体は無事繋がっているのだろうか。


「……!!」


 わからない、助かるという保証がない。だから今すぐ助けなきゃいけない。だが、バーシーどころかよくわからない青年が増えた今、どうすれば良いというのだ。ミレーユには何もわからない。


「あぁ、それならせめて扉はきっちり閉めて、鍵をかけてからやってくださいねぇ。あと特殊シチュエーションものは聞いてて恥ずかしいんでぇ……」


「赤裸々にボクの黒歴史を公開する前に、ちゃちゃっとやってくれないカナ!?」


「じゃあ早速〜〜!」


 青年は流れるように滑らかに氷像のジュリオットへと寄ると、凍りついている彼に対して何かを行おうと手をかけた。


 それが目に入ったミレーユはその瞬間、錯乱するあまり何がなんだか分からなくなりながらも、必死にジュリオットの方へと手を伸ばす。届くわけも、止められるわけもなかったのに、手を伸ばさずにはいられなかった。


 ただ本能のままに手を伸ばし、刹那、彼女の蒼い双眼が淡く光を纏って、


「あッ……」


 自分が今何をしたかに気づくと同時、氷像がミレーユの瞳と同じ色を放って一瞬輝いた。すると静観していたバーシーが氷像から離れるよう青年に告げて、一言ミレーユへ問う。――『何をしたの』と。


「……ッ!」


 ミレーユがしたのは、保存だ。『形状保存シェイプ・セーヴ』を使って凍りついたままのジュリオットの形を維持させ、いかなる衝撃を受けても破壊されないようにしたのである。


 だがバーシーの関心、それも殺意というよくない関心が向けられて、ミレーユはその場でへたり込んだまま震え上がる。


 『蛇に睨まれた蛙』なんて言葉がこの世にはあるが、どうやら蛙だけでなく兎も硬直してしまうらしい。なんてどうでも良いことを考えて現実逃避するくらい、今のミレーユの状況はどう動いても最悪の結果にしか繋がらない『詰み』というものであった。


 だがしかし、そこに緊迫した空気を切り裂くように雷鳴が轟く。そしてこの空間に新しく、雷電の如き速さでやってきた来客が迎え入れられた。



「おらおらおらぁ!! ジャック君のお通りだーーぃ!!」

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