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第52話『クイーン・オブ・ハート』

　セレーネの撃った銃弾で心臓を撃ち抜かれ、倒れたシャロの銃創から噴き出したのは、血ではなく霧のような可視の気体であった。

　その真っ赤な色をした濃霧は辺り一体に広がって、薔薇の庭園をじわじわと埋め尽くす。地面も周りも全て覆って、セレーネを逃さぬようにと侵食していた。

「な……」

　何よこれ、と眉をひそめて溢そうとするが、セレーネの喉からはほとんど声が出ない。そしてあまりの不可解な状況に退避しようとすれば、行くことを引き止めるように赤い霧が全身に絡みついて、

「――！？」

　霧が、振り払えないことに気づいた次の瞬間、周りの視界が晴れた。霧が押されるように流されていって、赤い霧がかかっていた空には〈青空〉が広がっていた。まごうことなき晴天の青空だ。

「どういうこと……？」

　しかし霧がかかる前の空は、黒がかった濃紺に星が散りばめられていた夜空であったはず。それがいつの間にか澄むように晴れ渡る朝の空と化している。

　それだけでもおかしいのに、おかしいことは立て続けに起きていた。

　まず、庭園のほとんどを覆っていた薔薇の茂みがなくなっていた。石畳の通路も煉瓦の花壇も取り払われ、周囲は森に囲まれた芝生の庭と化していた。すぐそこに美しい白亜の城があって、ここがどこかの城の裏庭である事だけはわかった。わかった上で、理解が全く出来なかったが。

　そして次に、セレーネは〈椅子に着席〉していた。平坦な芝生の庭に置かれた、背もたれつきの豪華なデザインをした椅子があって、そこに縛りつけられるようにして座っていたのである。

　華奢な全身を椅子に縛りつけるのは、〈薔薇の茎〉だ。肌の出たところに棘が刺さっており、そこから血が流れている。痛みこそそれほど感じないものの、異常事態のあまり『ぃッ！？』と声をあげてしまった。

　それだけではない。奇妙な事態はセレーネの周りで更に増えていく。

　次に着席させられているセレーネの前に、大きなテーブルが広がっていた。純白にテーブルクロスをかけたローテーブルで、セレーネの座る位置をいわゆる誕生日席として長く奥まで続いている。

　そのテーブルの上には、手作りとは思えないクオリティの菓子が並んでいた。

　キャンディを詰めた編み籠に、淡いパステル色のマカロンを積んだ白い皿。チョコレートからクッキー、ケーキからタルトまで、ありとあらゆる菓子が並んでその可愛らしさを主張している。

「どういうこと……！？」

　困惑の呟きを溢せば、彼女の声に応答したように横からヌッと影が差した。

「ッ！？」

　それは、薄汚れた赤のローブを纏った『何か』であった。

　フードを深く被っていてよく中身はわからなかったが、とにかくその物体が人間でないことだけは確かだった。僅かに見えるフードの隙間からは、闇が覗いているのだ。黒煙を凝縮したような闇が。

　そして足はなく、赤色のローブの裾は空気に溶けるようになっている。幽霊の足元、と言った方が良いだろうか。動く度に空気と混じっているのである。

　その赤いローブの幽霊が、横から突然現れてセレーネに寄ると、テーブルの上のティーポットが浮いた。金の装飾が施された白いティーポットだ。

　それは宙にふらりと浮くと、1人でに身を傾けて、セレーネの前に置かれた小さなティーカップに中身を注いだ。

　注ぎ口から湯気を上（のぼ）らせながら溢れ出したのは、恐らくアップルティーか。林檎の蜜を凝縮したような蜂蜜色が注がれて、ふんわりと良い香りがセレーネの鼻腔をくすぐる。飲んだことはないが、酷く懐かしい匂いであった。

　――おかしい、おかしい、何が起きている。自分が今居るのは、どこだ？　幻覚を見せられているのか？

　幻覚にしては棘の痛みも紅茶の香りも確かで、そんなことをしている場合じゃないというのに、食欲がそそられて、目の前の菓子につい手を伸ばしたくなってしまう。けれどその欲求を薔薇の棘が物理的に抑止しており、

「……！　アイツは、シャロ＝リップハートはどこよ……！」

　錯乱して赤の幽霊に尋ねれば、赤の幽霊は当然のように沈黙を続け、それからとある一方を見てすごすごと引き下がる。その動作につられてセレーネも、幽霊が見ていた方向――セレーネの向かいの席に目を向ければ、

「えっ……？」

　そこにあの憎き少女、シャロ＝リップハートが座っていた。

　彼女はセレーネと違い、薔薇の棘の鎖には縛られずに普通に座っており、しかしうたた寝をするように瞑目していた。だが、驚いたのは彼女が居たからではない。自分がめちゃくちゃにしてやった満身創痍のはずの身体が、何事もなかったかのように治っていたからである。

「な、によ……何よ、これ……ッ！！」

　縛りつけられたまま声をあげても、シャロが眠りから覚めて返答してくれることはない。ただ気持ちが良さそうに、静かに眠りについていた。

　――これがシャロ＝リップハートの能力か？　いいや、彼女は非能力者であったはずだ。説明するまでもなく、非能力者が能力を使えるはずがない。では、あの都合の良いタイミングで能力が発現したのか？　いいや、それもない。あるはずがない。たとえ天地がひっくり返ろうと、あるはずがないのだ。

　我が『天国の番人（ヘヴンズゲート）』を統率する唯一神（ゆいいつしん）でさえ出来なかったことが、こんな小娘に出来るわけがない。

　故にこの状況は、シャロ＝リップハートによって作られたものではない――だとすれば何故だ。何故このような状況下で、茶会の主催者のように振る舞っているのだ。こちらは縛りつけられて、罪人のような扱いを受けているというのに。

「返答をしなさい、シャロ＝リップハート！！」

　そう大声をあげれば、また突然現れた〈白いローブ〉の幽霊が、シャロ＝リップハートの傍へ寄った。するとそのタイミングでうたた寝をしていたシャロがかくんと首を揺らし、その衝撃で瞼を若干開いて意識を取り戻す。

「あ、あぁ……ごめん」

　口元を手の甲で拭いながら、真横で沈黙している白い幽霊に謝るシャロ。完全にこの状況が何で、この赤や白といったローブの幽霊達がなんなのかを知っている様子だ。つまりこの世界で優位をとっているのは、確実に、シャロの方である。

「ッ……！」

　またもや声をあげようとすれば、口にする前にシャロがセレーネの方を見た。眠りから目覚めたばかりの緩い表情で、覚醒しない頭を彼女なりに動かして、セレーネの姿を捉えて思案する。

　――と、不意にシャロが頷いて、琥珀色の瞳を妖しく輝かせた。

「うん、いいよ」

　するとその言葉を皮切りに、真横に居た赤の幽霊の手元――手は生えていないようだが、恐らく手があったらこの辺り、という空中に〈大鎌〉が現れた。その鎌の鋭利な刃は、奇妙なほど青い空に浮かぶ太陽の光を反射して、

「っ！？　どういうつもりよ、ねぇ……！！」

　シャロ＝リップハートや赤の幽霊、白の幽霊に返答を求めるが、当然の如く誰も答えない。ただし幽霊達はセレーネを嘲笑うように、甲高く耳障りな、不協和音を素で演出したような声で笑っていた。

　そして幽霊達がセレーネの周りを取り囲み始めるのに合わせて、野次のような雰囲気で何か言葉をこちらにぶつけてくる。当然、不協和音にしか聞こえないので何を言っているかはわからないが、それがセレーネにとって良い言葉ではないのは肌で感じ取れた。

　その最中、大鎌を持っていた赤いローブの幽霊は、ふよふよと空中を浮遊してセレーネの背後に周り込み、

「ねぇ……ッ、答えなさいよ、シャロ＝リ……」

「――首をお刎（は）ね、『赤の女王（クイーン・オブ・ハート）』」

　セレーネの問いかけは、ひどく冷酷に、しかし僅かな笑みを含んで放たれた言葉に邪魔をされる。まるで、命じるような言葉に。

　直後、それに呼応するように動いた赤の幽霊は、縛りつけられたセレーネの首元へ不可視の手で大鎌を振るった。

　――それは、一瞬のことで。

　何かを考えたりするような時間など、2秒もなかったように思う。けれどセレーネには、大鎌が振るわれてから自分の首に刃がかかるまで、驚くほど時間がゆっくりと流れていくような心地がした。

　――自分が、悪かったのだろうか。自分が、間違っていたのだろうか。自分はずっと泣いてばかりで、ペレットが居なければ生きることもままならない愚図から、何も変われていなかったのだろうか。わからない、わからない、わからない。

　もっと違う方法をとっていれば、彼は幸せになれていたのだろうか。自分と出会わなければ、彼はずっと早く平穏な人生を歩めていたのだろうか。

　ほとんど何もわからないけれど、1つだけ確かなことがあって。ペレットを幸せにしたかったという気持ちだけは鮮明で。

　刃が首にかかった途端、刹那、セレーネの脳裏に浮かんだのは、死ぬことの恐怖でもシャロへの恨みでもなかった。

　ただ純粋に、この世で1番愛しいあの人が――ペレットが、幸せになれる日が訪れますように、ということだけであった。

「ぁっ……」

　なんの躊躇いもなく刃がかけられて、セレーネの頸（くび）は飛んだ。

　椅子に残された胴体の首元から滝が逆流するように血が撒き散らされて、まだ湯気を立てているティーカップや、一口もつけられていない焼き菓子にびしゃりとかかり、純白のテーブルクロスも汚す。

　そして鎌に飛ばされ、血を撒き散らしながら芝生に転がったセレーネの頭部は、白の幽霊の不可視の手によってゆっくりと拾われた。

　長く美しい金髪すらも絶たれて、毛先が短くなった彼女は、瞼を開いたまま翡翠色の瞳から光を失っている。それを白の幽霊が確認すると、シャロは生きることを放置したようにがくりとテーブルに倒れ込んだ。

＊

　――マオラオは、その惨状を目にして絶句していた。

　招待客たちが武器庫を探しに急いだことによって、はぐれてしまったシャロ。それを監視者で位置を確かめて交戦中と知り、窓に叩きつけられた彼を見て急がねばと庭園に来れば、もう、何もかもが遅かった。

　この際ヘヴンズゲートのセレーネが、ここに居ることなどどうでも良い。ただ、全身を血塗れにした彼がそこに居るというだけで、マオラオの中からは冷静という概念が全て消し去られた。

「シャ……ロ……？」

　よろよろと力の入らない足で近づいて、仰向けに倒れているその人を抱え起こすマオラオ。

　同時にぐらりと頭が傾き、乱れていた肩までの長さの薄茶髪がさらさらと重力に従って流れる。その顔も、身体も血塗れで、大鎌も持っていないというのに、本当にぎりぎりまで耐えていたのだと理解した。

「……オレが、見失ったからや。……オレが、もっと急がんかったから。……オレが、もっと、もっと、ちゃんとしてたら……ッ！！」

　震える腕で彼の身体を寄せて、自分の片耳にシャロの唇を寄せる。その呼吸が、止まっていないことを願って。

「……まさか、そないなこと、ないよな」

　どくどくと、痛いほどに心臓が高鳴っている。その答えを知ることが怖くて、息が詰まって、自分の心臓の音で周りの音すらよくわからなくなる。

　落ち着いて、落ち着いて、そう、呼吸をして――。

「なに……やってんの……マオ……」

「わぁぁぁぁぁあああああ！？！！？」

　突然耳元で囁かれた声に、つい絶叫してしまった。

「えっ、えっ、シャロ、シャロ、シャロ！？」

　慌ててシャロの身体を耳元から離せば、彼は心底うるさそうに表情を歪めていた。

　ただ『うるさい』と声を荒げる気力も、殴り払う体力もないのか為されるがままになっている。しかしその琥珀色の双眸（そうぼう）に、光が健在しているのを確かめて、

「お……おれ……オレ……お前が、死んどったら、どう、しようかと……！！」

　一瞬で紅色の瞳に膜が張られて、透明な雫が溜まり、一気に崩壊してマオラオの頬へと溢れだす。肩は震え、声に嗚咽が混じり、涙は止まること知らずにどんどんと顎からシャロの腹部にまで零れ落ちた。

「ま、お……」

「オレ、生きていかれへんかと、思って……もうオレ、嫌や……！！　オレが、オレがシャロの分まで、戦うから、もう、2度と戦わんで……こないな思いもう、しとうない……しとうないよお……」

「……」

　シャロの身体を柔（やわ）く抱きしめて号泣するマオラオに、流石に強気な返答も出来なくなったのか黙り込んでしまうシャロ。

「オレと、約束してや、今ここで……」

「――ごめん」

　死にかけたことにも、マオラオの要望に応えられないことにも。

　そのどちらに対しても謝罪をして、泣きじゃくっているマオラオの後頭部をゆっくりと、ゆっくりと撫でてやる。ただ不安に苛まれている彼を落ち着かせてやることしか、自分には出来ることがなかった。

「お願い、お願いやから、オレの見えるとこ以外行かんといて。ずっと、オレの傍におって。じゃないと、いつ死んでまうんかって、不安で……」

「……や、でも……ギル以外はみんな、同じじゃん……ウチだけ、マオに……マオに、守ってもらうことなんて出来ないよ……？」

「……ッ！！　シャロは、他のみんなとはちゃうから！！　お前だけは、オレが守らなあかんねん！！」

「違うって、何が……！？　ウチだって……っ、それとも、マオまで……マオまでそんなこと言うの……？　ウチが、能力者じゃ……ないからって……」

「――！　そないなこと言っとらんやろ！　むしろほんまに尊敬しとる！！　オレは能力と家系の体質に頼らなロクに機能せえへん、やから100%自分の力で戦えるお前を、ほんまに凄いって思っとる！！」

「なら……っ！　なら、なんで尊敬してくれてるのに、守ろうなんて言うの！？」

「……それ、は……オレはただ……っ、お前が……シャロのことが……」

　変なプライドと気恥ずかしさに苛まれて、その後の言葉が喉の奥でつっかえて、マオラオは黙り込んでしまう。ただ言葉が出せない苦しみから、再び目元が熱くなって、視界が潤んでぼやけ始める。

　きっと、この時からだった。マオラオがシャロに対して抱く感情が、おかしくなり始めたのは。そして彼自身が、狂い始めたのは。

「そないなこと言われるんやったら、いっそ……」

　――いっそ、自分の手の届く場所に閉じ込めてしまおうか。

　なんて思ってから、自分の考えたことの恐ろしさに我に返るマオラオ。熱していた頭が急激に冷えていって、今まで何を喋っていたのかを改めた。

　それと同時、マオラオが突然黙ったことにより、キレ気味になっていたシャロも頭が冷やされたようで、

「……怒っちゃって、ごめん。ごめんね。とにかく、止血をしなきゃ……って、あれ？」

　マオラオに思考が奪われて忘れていたが、セレーネはどこへ行った？　先程までここで彼女と向き合っていて、それで、心臓の辺りを撃ち抜かれて――。

「撃たれた痕がない……？」

　自分の左胸を見れば、そこは無傷であった。いいや、服には撃たれたときに出来たのであろう穴がある。しかし血の痕も、銃創もそこにはないのだ。かといって全身の傷が完治しているわけではない。相変わらずガラスの破片で切った傷は身体のそこら中にある。

「なん、で……？」

　見れば知らずのうちにセレーネが〈無傷で〉絶命しているが、シャロが殺した覚えはない。だが、マオラオが女性に対して軽率に本来の力を振るえるはずもない。

「な、にが……」

　何があったのか、とそうマオラオに尋ねようとした時、耳元の超小型無線機がノイズ音を発し始めた。マオラオの方の無線機は反応していないらしく、シャロの無線機だけに誰かが通信しようとしているのだとわかる。

「待って、マオ、通信が……」

「……おん」

　自分を抱きしめているマオラオに一旦断ってから離れさせると、ノイズ音がクリアになってきちんと無線が繋がる。しかしその途端、鼓膜を刺すように無線の向こうから飛ばされたのは、

「た、助けて、ください……！！　ジュリオットさんと、ペレットさんが……！！」

「み、ミレーユちゃん……！？」

　無線越しでも錯乱しているとわかる、ミレーユの悲痛な声であった。