第21話 覚悟

 ジェイソンの店に戻ると、グレースとジェシカが、奥のテーブルで食事を取っていた。

 店内には、奥の窓際に五つのテーブルが並び、カウンター側の窓際にも三つのテーブル席がある。いずれも四人掛けだ。加えてカウンター席が5人分。まあまあの広さだ。

 ジェイソンは、カウンター席の真ん中でコーヒーを飲んでいる。レイチェルの淹れた香りの上品なコーヒーだ。私はその隣に座った。

「遅いから、心配したぞ」

 そう言ったジェイソンの言葉に反し、その場には平和な空気が漂っている。

 それは何事もないように、平常な時を刻むレイチェルのお陰に思えた。相変わらず彼女は、カウンターの中で寡黙に手を動かしている。

 他に客はいなかった。店内には、ジャズが上品に流れている。

「メールは取れたか?」

 ジェイソンがさり気なく訊いた。取り立てて、情報を待ち侘びていたという感じではなかった。この店にいると、不思議と気分がゆったりする。

「ああ、取れた。これからは、フランスが俺たちをサポートしてくれるらしい。二日後に潜水艦を回してくれるそうだ。原潜で来るらしい」

 自分で言っておきながら、現実離れした話だった。

 原子力潜水艦の欠点は、エンジンを簡単に切れない事だ。音で艦を探知されたくない場合でも、エンジンを止めて敵をやり過ごすという事が苦手なのだ。

 その代わり、頻繁な燃料補給が不要という特技を持っている。隠密で長距離移動するにはうってつけだ。

 私はラップトップを開けて、ジェイソンの前に差し出した。彼が興味深げに、画面を覗き込む。

 私の前には、まだ頼んでいなかったコーヒーが置かれた。

 私は静かに深く息を吸い込んだ。妙に落ち着く。追われている身である事を、忘れてしまいそうだ。

 十年も身元調査や浮気調査に明け暮れた私に、それまで全く修羅場がなかったわけではない。しかしいずれも、命を削るほどの事件ではなかった。ただ、煩わしかっただけだ。

 煩わしさがなければ、人間は劣化する。適度な厄介事は、人間の思考能力や適応力を維持するために必要だ。それでも今回の件は、度を越している。

 私はこの件で、十年平和に埋もれていた間の、自分の劣化を認めていた。

 体力、技術、思考、思い切りの全てにおいて後退している。しかし、まだ取り戻せるかもしれない。取り返しのつかないところまでは至っていないと信じたい。

 私を駆り立てているものは、結局そんなものかもしれないと、ふと思う。

「佐倉、フランスとは、セブシティーで落ち合うのか?」

 ジェイソンは、私の指定場所を読んだようだ。

 彼の言いたい事は分かる。もっと人気ひとけの少ない、片田舎の方がいいのではないかと言いたいのだろう。

「最初はセブの南端にしようと思った。しかし、そこまで行くのに道が少な過ぎる。それに、車の往来が少ないだろう」

 交通量が少なければ、軍は全ての通行車両を徹底的に調べる。それが可能だ。しかも検問は目立たない。

「そうだな。歩いて山越えもできないし、おそらく検問に引っ掛かるということだ。そこを上手くすり抜けても、田舎じゃこっちが目立つ」

「セブシティー側には対潜艦も入って来ないだろう。フィリピンの内側へ通じる海峡は、監視の目がきつくなるかもしれないがな」

「しかし、潜水艦が入る水深があるんだろうか?」

「艦が身を隠す程度の水深は、どこにでもあるさ。十メートルもあれば十分だ。この辺は、浅くても二十メートル程度の場所は結構ある。おそらく、艦を適当な場所へ停めて、小型ボートでやってくるだろう。昼はフェリーが多いから、少し危険だがな。この界隈は、フェリー航路が網の目のようになっている」

 おそらくフランスは、インド洋からマラッカ海峡を潜ってくるだろう。通常のタンカーなら、その後南シナ海へ抜ける。それと同じルートを辿るとすれば、パラワン島の南側からスールー海へ出て、フィリピン内部へ入って来るはずだ。

 そうでなければ、ジャワ海を経てボルネオ島脇のマッカーサー海峡からネグロス島南側へ直接出るルートもあるが、ジャワ海全体の水深が最大でも五十メートルと浅く、長く航海するには若干危険かもしれない。

 同時にスールー海は、イスラム過激派の移動ルートとして監視対象になっているが、主にマッカーサー海峡からスールー海へ抜ける箇所に監視本拠地があるため、その意味でもこちらのルートは避けた方が無難と思われる。

「実際のルートは、専門家に任せておけばいいさ。それは奴らがどうにかするだろう」

 私はそう締めくくり、まだ何かを食べているジェシカに訊いた。

「ジェシカ、お前はパスポートを持っているか?」

 もちろん、期待した答えが返ってくるはずもなく、予想通り「ない」と言われる。

 私とジェイソンは、黙って顔を見合わせた。

 グレースとジェシカは、不安そうに私を見ている。

 フランス軍に拾い上げてもらった後、どうするかを決めなければならない。ケビンの事もだ。そして、ダークブルーの回収。

「二日後に、フランス軍と合流する。彼らが俺たちを助けてくれることになった。ただし、ダークブルーと引き換えだ。しかも金を払ってくれるらしい。つまり俺たちにとって、願ってもない条件となる。そこでダークブルーを回収したいんだが、どこにある?」

 途端にジェシカは押し黙った。グレースが、心配そうにジェシカをじっと見る。

 嫌な予感が駆け巡った時に、ジェシカが思い詰めたように言った。

「ダークブルーは、ここにあるわ」

 ここに?

 彼女は私の横へ来て、自分の髪を束ねているヘアバンドを取った。途端に背中に掛かる黒髪が、バサリと広がる。

 ヘアバンドに、ラメの混じったブラウンのプラスティックキューブが、飾りとして二個付いていた。見るからに安物の、露天商やモールのワゴンで売っているようなヘアバンドだ。

 ジェシカは一つのキューブを手に取り、両手で左右に広げるように力を加える。

 キューブが二つに割れた。中に、小さなブルーの石粒が入っている。よく目にするダイヤモンドのように、多面体に加工されているわけではない。形は、隠していたプラスティックケースと同じ、一片が五ミリ程度の、小さなキューブだ。

 強力なパワーを持っているという話から、私はそれが、もっと大きなものと勝手に想像していた。だから私は、実物の小ささに驚いた。気を抜けば、簡単に失くしてしまいそうだ。

 石の色は、確かに深みのある青だ。いや、石というより、質感はガラスに近い。ダイヤモンドの原石ではないかと期待してしまうのも無理はない。

「ケビンから預かったのはこれよ。これが本物かどうかは知らないわ」

「まさか、これをずっと髪に付けていたのか?」

「そうよ。私が捕まった時に、彼らは私の鞄の中身をチェックした。ボディーチェックや髪の毛の中もチェックされたけど、ヘアバンドは外して机の上に置かれただけよ」

 なるほど、見えない箇所は気にするが、見える物は疑わない。盲点をついている。発想と度胸は、ちょっとしたものだ。

「ダークブルーはこれまで通り、髪に付けておいてくれ」

 ジェシカは再び、ヘアバンドで髪をまとめる。

 次はケビンの事だ。フランス軍が来ても、一緒にケビンを救出するわけにはいかない。彼の救出に他国の軍が関わった事が知られれば、大きな国際問題に発展する。

 ブライアンが約束を守ってくれたら、合流は明後日だ。その前にケビンを救出するなら、今晩か明日の夜しかない。

 警備はエリック邸より厳重なはずだ。

 その上問題は、監禁されている場所だった。広大な基地の中で、闇雲にケビンを探し回るのは無理がある。

 司令室のある建物の一室か、それとも倉庫の片隅か。

 まるで見当がつかない。

「次にケビンの事なんだが、監禁場所が分からない限り、救い出すのは難しい」

 ジェシカが直ぐに反応した。

「でも彼は、フィリピンアーミーの基地にいるのよ」

 予想していた通り、その言葉は抗議のような口調で吐き出された。

「基地といっても広いんだよ。その上銃を持つ兵隊が、うようよいる。一つ一つの建物を、虱潰しに探すわけにはいかないんだ」

「だったら、ダークブルーは渡せない。私がフィリピンアーミーと取り引きする」

 私はグレースを見た。彼女も私を見ていた。

 グレースは、私が困っている事を理解するだろう。そしてジェシカが軍と交渉するということが、どれだけ無謀な事であるかも。

 これは二者択一なのだ。ジェシカの命を救うか、あるいは彼女の気の済むようにさせてケビンとジェシカを死なせるか。二人が仲良く助かる見込みはまずない。ダークブルーを奪われ、それで終わりだ。

 私はグレースの決断を待った。

 暫しの沈黙を、ようやくグレースが破る。

「いいわ、ジェシカ、あなたの好きなようにしなさい。ただし、あなたも死ぬ覚悟が必要よ。確かに状況が悪すぎる。佐倉さんを当てにできなくても、彼を恨まないで。あなた一人でやるのよ」

 予想外の言葉だった。私は、グレースの気丈さに驚いた。

 それはジェシカも同じだった。

「分かってくれてありがとう。私はこれから、街に出る。この場所の事は言わないから、心配しないで」

 どうにもこの姉妹には、振り回されっぱなしだ。私は頭を抱えたくなる。

 しかし、本人にそれだけの覚悟があるなら、こちらも少しはやりようがあるというものだ。

「それだけの覚悟があるなら、行かせてやる。ただし靴底に、GPSデバイスと隠しマイクを付けてもらうぞ。奴らには、簡単にダークブルーを渡すな。ケビンと会えるまで粘るんだ。俺はお前の場所を、携帯で確認している。いつもお前を見ているとは限らないが、声は聞いている。それを忘れるな。ケビンに会えたら、何でもいいからそれが分かるような言葉を出せ。それでこちらは、突入の機会を伺う。それでも助けられるかどうかは約束できない。行きあたりばったりなんだ。悪く思わないでくれ」

 グレースが、口を半開きにして私を見ている。私の言葉に、驚いているようだ。

 本来これは、無謀としか言いようがなかった。狙撃が可能かどうかも分からず、場所が地下である可能性もある。事を起こした後、敵に囲まれたら終わりだ。脱出方法もまるで立案できない。作戦など皆無で、まるで片道切符の特攻だ。

「ジェイソン、何かアイディアはあるか?」

「まるでない。幸運を祈るって感じだね。遠方から援護射撃だけはしてやる。もし見える場所だったらな」

「セブのアーミーベースはどこにある?」

「それが、色々分散しているから分かり難い。一番大きな施設は、ラポラポキャンプだな。ITパークの隣にある。警備は余り厳重じゃない。基地の隣に高層ビルを建ててしまうくらいだから、高が知れている。歩哨兵の立つゲートはあるが、他から忍び込むのは簡単そうだ」

 武器庫等があれば、ある程度警備は厳重になるものだが、どうやらフィリピン軍は、普通のキャンプと様子が少し違うようだ。

「センサーなんかはどうだ? レーザーが張ってあるのか?」

 アメリカのベースでは、芝生に普通に埋め込んでいる。日本では、原発の敷地にも人感センサーが埋め込まれているくらいだ。

「よく分からないが、そんな物はないように見える。敢えて油断させているようにも思えない。時間があれば、もう少し探ってみるんだが」

 私は、ジェイソンの情報を信じる事にした。情報というより、フィリピン人としての彼の勘だ。

 海外軍隊を経験した彼の見立ては、普通の人より信憑性が高いはずだった。

「グレース、これでいいな。何があっても後悔するなよ。お前自身が、最悪の事態を考慮して決めた事だ」

 彼女は口を真一文字に結び、しっかり頷く。

 早速私は、ジェシカの靴底にGPSチップと盗聴マイクを仕込んだ。場所が分かり会話が聞こえたら、こちらもどう動くべきか決めやすい。

 今回、グレースを連れて行くことはできない。危険な事もさることながら、足手まといになるのだ。今回は、戦闘になるかもしれない。

 拳銃二丁とアーミーナイフ二本をグレースに預ける。残りは銃を八丁含めて、全て私が持参する事にした。

 ジェイソンとの連絡は、今度は無線を使う事にする。既に携帯番号が、相手に知られているはずだ。大まかな場所であっても、それをトラッキングされたらかなわない。

 GPSトラッキング用の携帯用には、レイチェルの未使用シムを借りた。

 盗聴マイクの出力周波数は、私とジェイソンが使う無線周波数に合わせている。

 準備が整った時、時計の針は六時を指していた。陽は随分傾いている。

「これが上手くいけば、あとはフランスの潜水艦で逃げることができる。そう思えば、多少苦しくても耐えられるはずだ」

 そこにいるみんなが、無言で頷く。

 グレースがジェシカを抱きしめた。

 ジェシカは店のドアを開け、夜の気配が忍び寄る街へ、一人で消えた。

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