第20話 フランスの返信
私はレンタカーを返却してから、タクシーでジェイソンのやっている喫茶店へ行った。
ドアを開けると、コーヒーの香りに包まれる。
店内には三組の客がいた。パソコンと向き合う学生風、お互い自分の携帯をいじっているカップル、一人で本を読む老人。
怪しい人間がいない事を確認し顔をカウンターへ向けると、手の動きを止めてじっとこちらを見る、ジェイソンの妻と目が合った。
「久しぶり。元気そうだな」
私が声を掛けても、彼女は幽霊でも見たかのように、声を押し殺している。
私はカウンター前の椅子に腰を降ろした。
彼女はそんな私を、ただ目で追っている。
「ジェイソンをごたごたに引き込んで、怒っているのか?」
彼女は私の問いに答えず言った。
「十年ぶりね。あなたも元気そう」
少女のような可憐さは失せていたが、彼女の美しさは相変わらずだ。むしろ女性としての魅力が、彼女のまとう陰により、一層増している気がする。
「もう会うことはないと思っていたが、また戻ってきてしまった。しかも、とんだ厄介事を抱えてな。済まないと思っている」
思わず自虐的な言葉を漏らしてしまう。
しかし彼女は、今抱えている問題の事など、全く意に介していないように答えた。
「その事は気にしないで。ジェイソンが良ければ、私はどうだっていいの。私は一度、死んだ身よ。何があっても気にならないわ」
私の卑屈な言葉より、遥かに切実な含みが込められている。私は胃が縮む思いがした。
この十年、一体彼女は、どんな気持ちでここに暮らしてきたのだろう。立ち直っても良い時間は、充分経過している。いや、彼女にとって、それは時間の問題ではないのかもしれない。
「濃いコーヒーを一つ、お願いできないか?」
彼女は頷いて、無言でコーヒーカップを取りカウンターの内側へ置いた。
コーヒー豆が電動ミルに入り、スイッチが押される。強いコーヒーの匂いが、カウンターまで漂った。
この店では、サイフォンを使わないようだ。
彼女はドリッパーに、ケトルでゆっくりお湯を垂らし始める。蒸らしの時間もきっちり取っていた。随分正当なコーヒーの淹れ方に、こだわりが見える。
時間がゆったりと流れていた。そこに身を委ねていると、先程までの出来事が、まるで幻のように思えてくる。
フィリピンには珍しい、落ち着いた品のある店だった。利益を顧みず、金を注いでいるのだろう。結果的に、それが店を長続きさせているようだ。
店に顔を出したジェイソンが、私を見て一瞬驚きを顔に浮かべたが、直ぐにそれを引っ込め私の隣へ座る。彼らの住居が店の二階にある事は、以前から聞かされていた。
「無事に辿り着いて何よりだ」
「二人はどうしている?」
「リビングのソファーにもたれて寝ている。緊張で、疲れたんだろうな」
出来上がったコーヒーが、私の前に差し出された。上品な香りが、鼻孔を刺激する。
「この場所だけは巻き込みたくなかったんだがな。本当に済まない。できるだけ早く移動する」
「気にするな。いざとなればこの店を捨てて、みんな一緒に逃げればいいさ」
私は視界の隅でカウンターの内側を盗み見たが、彼女は何事もないように、下を向いて洗い物をしている。この会話は、彼女の耳にも届いているはずだ。
彼女の頬に見える傷は、十年経ってもまだ痛々しい。
かつて私が、彼女の平穏な生活を壊してしまったのだ。それだけで、既に私は万死に値する。その上また同じ事が起これば、死ぬだけでは済まない気がした。
私は日本で、もし自分に何かがあれば、私の口座に入っている金の全てを彼女へ送るよう、弁護士に依頼している。委任状やその他の手続きは済ませてあった。
軍役で貯まった金は、探偵事務所を開いた後も充分残っていた。私はそれを別口座に移し、レイチェルの為に凍結している。せめてもの償いのつもりだった。
十年前、瀕死の重体だった彼女を病院に運び込み、必要な手当てを施してもらった。腕の骨や肋骨が折れ、その一つは左肺に刺さっていた。頬は深さ一センチ、長さ八センチも切り裂かれ、傷は口の中まで達するほどだった。
頭を打たず首筋にナイフを立てなかったのは、エリックに僅かに残っていた情であったと信じたいが、生きて苦しみを味あわせる為、敢えて致命傷を与えなかった可能性もある。
もし拷問に耐えられず、命を落としてしまったらそれでも構わないという、そんな軽さがあったように思えてならない。
レイチェルは三週間入院し、その後はジェイソンの家で彼女を
私がエリックへ仇討ちに出掛ける際、彼女は泣いて私を止めようとした。
私の素性を知らない彼女が、エリックを心配したのではなく、返り討ちに遭う私を心配していたのは明らかだった。
しかし私は、どうしてもエリック邸へ行かなければならなかった。それはエリックへ、レイチェルが死んだと告げなければならなかったからだ。
目的を果たした私は、エリックにとどめを刺さなかった。
エリックを殺したとしても、残った連中が覇権を争い、誰かがエリックの代わりになる。抗争が始まって迷惑するのは、周囲の一般市民だ。
下町や上流階級と交わらないジェイソンには、エリックとの接点が極めて少ない。エリックがレイチェルの死を信じていれば、彼らがレイチェルを発見する機会はそうそうないはずだった。
だからジェイソンは、店が充分軌道に乗っても、必要以上にビジネスを拡張する事はしなかった。二人は小ぢんまりと密やかに、セブの街で生きてきたのだ。
私はそのささやかな幸せさえ、彼女から取り上げようとしているのかもしれない。
そう考えると、今回の件はやるせなかった。
私は、ホテルでジェシカから聞いた話を、ジェイソンに説明した。ダークブルーの入手先、大学教授とフィリピン陸軍の関わりについてだ。
「実はな、フランスにメールを二つ出している。一つはブライアン宛てで、アメリカ軍かフランス軍の応援をお願いしている。餌はダークブルーだ。奴らが食い付いてくれば、ジェシカの話は本物かもしれない。フィリピン軍は、かなり本気のようだ。ホテルが割れたのは、俺の出したメールが原因のような気がする。だから返事を見る事ができずに困っている」
「それならどこか適当な場所で、携帯からインターネットへ繋げばいい。最終的に接続した携帯基地局はばれるが、調べ上げるまで時間が掛かる」
ジェイソンは、こういった事に詳しいから助かる。
「だったら済まんが、車を貸してくれ。セレスティアルガーデンの山側の藪に、武器や携帯を隠してあるから、回収してそのシムを使いたい。フランスの名前で取った奴だからな」
「そこまで俺が連れていく」
私は一旦、コーヒーで口を湿らせた。
「いや、万が一に備えて、お前はここに残ってくれ」
私は荷物回収の帰りに、海岸沿いでパソコンをインターネット接続し、メールの返信を確認するつもりでいた。その内容次第で、今後の方針を決定する。
誰にも頼る事ができない場合、どうにかマニラへ行けないかと考えていた。あの大都市に紛れてしまえば、敵の私たちに対する捜索は困難になる。
マニラでは的を絞るのが難しいだろう。そうかといって、あらゆる場所に目を光らせるのは、物理的に不可能だ。
しかもマニラには、各国の大使館がある。どこかの国が我々の持つ餌に食い付いてくれる可能性もあるわけだ。
しかし、空港や港のような島の出入り口はしっかり押さえられているはずだ。こうなると、島というのは厄介だった。
私の中でケビンの救出は、後回しになっている。ダークブルーが二つ揃うまで、彼らはケビンを生かしておきたいはずだ。リスクはあるものの、彼を生かしておいても問題がなければ、彼らはそうするはずである。
逆に、今回の件をマスコミが嗅ぎ付け追求しようものなら、ジェシカの言う通りケビンは消されるだろう。証拠隠滅のためにだ。
私はジェイソンの古い車を借り、セレスティアルガーデン方面へ走った。
相変わらず兵隊は随所に立っているが、検問で止められることはない。向こうは動く車の中を、注意深く探っているだけだ。
これで若い女性が同乗していたら、あるいは止められるのかもしれない。
それほど緊張はなかった。一人なら、どうにかなる。どうにもならなければ、単に自分が捕らえられ、最悪は殺されるだけだ。自分だけのことであれば、それはそれで致し方ないと諦める事ができる。
そんな腹づもりが、私を平常にさせている。精神的負担は、お嬢様方のおもりより遥かに軽かった。
早朝に兵隊から呼び止められた場所は、全く閑散としていた。既にホテルへ潜伏していた事がばれているのだ。今更山狩りなど、意味がないと考えるのが普通だ。
お陰で私は、隠しておいたバッグを、苦労せずに回収することができた。
ナップザックの中身に異常はない。拳銃も携帯も、全て揃っている。
私は予定通り、港へ辿り着いてから、持参したパソコンを携帯のインターネット回線へ接続した。
私が出した二つのメールへ、どちらも返事が届いている。
メールをダウンロードし回線を切った私は、直ぐに場所を三キロ移動し、車の中でメールの内容を確認した。
諜報部員へのダークブルーに関する問い合わせについては、ルイが以下の内容を返信していた。
『お久しぶりです。突然のメールに、正直驚きました。しかもダークブルーの件。既に機密ではありませんが、情報を悪用される懸念があるため、これについては暗号文で答えます。新しい暗号ルールは、例の場所から取って下さい。あなたのかつてのIDを、既に再登録しています。パスワードはあなたの古いものを、そのまま復活させました。アプリケーションをダウンロード後、ルール2165に従って下さい』
その後は、ただの数字の羅列だ。
暗号は、意外と単純なルールに従っている。
各アルファベットと数字に01から36までの番号を割り当て、各文字毎に方程式と最大桁数が指定される。例えばCは文字番号が03で、与えられた方程式が2x文字番号+12とする。
この方程式の場合、最大数は2×36(数字の9)+12であるから、答えは84となり、最大桁数は二桁だ。
よってCという文字は2✕3+12=18で表されるが、方程式結果の最大桁数が二桁のため、実際には0218となる。
実際の方程式はもっと複雑で、しかもそれは、文字毎に異なる。
この方程式の組み合わせは、ルール1からルール20000の中で予め決められ、パソコンの中でルールナンバーを指定し文章を打ち込めば、ルールに従い計算された、数字の羅列が出力される仕組みだ。
暗号文を受け取った方は、ルールナンバーを入れて、数字の羅列を入力してやれば、パソコン上のアプリケーションがルールに従って数字の並びを逆算により文字に変換し、文字列を出力してくれる。
もしルールナンバーが分からない場合、二万のルールをパソコンで順番にやらせ、文章になっているかいないかをマニュアルで判別するしかない。超機密文章の場合、暗号で暗号文を作るということも行われる。
この暗号生成と解読を担うアプリケーションを動かすには、もちろん長いパスワードを入れ込む必要がある。また、アプリケーション内のルールは毎月変更されるため、古いものを持っていても役に立たなくなる。
単純なルールではあるが、暗号の生成、解読ルールを知らなければ、暗号を読み取る事はまず不可能だ。
ルイは、例の場所から新しいアプリケーションをダウンロードしろと言っている。
例の場所という場合、それは共有サーバーを指すのではなく、私のID下にあるサーバーを指す。つまり彼は、私個人のサーバーも復活させたようだ。
私は再び回線を繋ぎ、ラップトップに暗号用アプリケーションをダウンロードし、サーバー内のそれを消去した。
ダウンロードには、五分も掛かった。
そして回線を切り、再び三キロ移動する。
暗号文を解読すると、次のようになった。
『ダークブルー、一九三五年、アメリカ、アーカーソン州で隕石として発見され、当時、アーカーソン州立大学にて、多結晶ダイヤモンドと判定される。
しかし、この隕石に限り、現物はCIA管理となり、NASAでの検査を経て、アメリカ国防総省の管理下となった。
この石の管理がこうした変遷をたどった理由は明らかになっていないが、当初は結晶構造が特殊であったことに由来すると言われていた。
ダークブルーに関する具体的研究は、ペンタゴンの軍事科学頭脳集団であるARPA(現在のDARPAの前身)で行われた。
ARPAは様々な調査の結果、この隕石で、強力なレーザーを作り出す事ができると結論付けた。しかし、元々そのような素質が見出されたため、隕石がペンタゴンに送られたと考えるのが妥当である。
ARPAはこの隕石を基に、レーザー砲を作る事に成功したと言われている。
このレーザー砲には、二つのダークブルーが必要であった。
ダークブルーの結晶構造は地球上の宝石と異なるが、二つを合わせ境界に不完全な結晶構造が作られる事で、励起できる電子が発生するという理屈だ。
特殊ではあっても、安定した結晶構造のままでは、エネルギーを蓄えるための電子の移動が難しかったようだ。
一旦電子の移動が起きて、それが元の安定状態へ戻る際に発生するエネルギーがレーザー光となるが、それが二つのダークブルー内電子を励起し、連鎖反応として広がっていく。
ダークブルーの励起は、なぜか二つの石を合わせた境界の発するレーザーでなければならない。通常のトリガ、例えば強力な磁場を与えるようなやり方で、この石はびくともしないほど電子の軌道が安定している。
つまり、それだけ安定している結合を一旦崩す事ができれば、それが元へ戻る際に生み出されるエネルギーも大きくなるという事だ。
それに気付いた国防総省は、アーカーソン州で大々的な捜索活動を行い、とうとうもう一つのダークブルーを発見し、レーザー砲を完成させたようだ。
一方、当時核爆弾の実験に成功し、開発に莫大な費用を費やしたアメリカは、後へ引けない状況下、一部開発者の反対を押し切り、日本へニつの原子爆弾を使用した。
もしアメリカ政府が、世間に費用対効果を示す必要に迫られていなければ、アメリカは原子爆弾ではなく、ダークブルーを使ったレーザー砲を使いたかったようだ。
このレーザー砲は、従来の物に比べ格段に出力は大きかったが、当初は街一つを丸ごと破壊できる程度の物であった。
しかしARPAは、ダークブルーの持つ隠された秘密に気付く。
それは、二つの石の合わせ方で、レーザー砲の出力が格段に向上するというものだった。つまりこの二つ隕石の原子構造は、お互いが暗号のような役割を持ち、合わせる場所により本来の実力を発揮するという、鍵のような原子構造になっているようだ。
これこそが、ダークブルーは特殊結晶構造を持つと言われる真の理由である。
この合わせ方で、ダークブルーの持つ全ての原子に対する励起伝搬の様子が全く異なるという点が、繰り返す実験の中で、新しく分かった事である。
しかし一九四六年、研究室に厳重に保管してあったダークブルーが、忽然と消えるという事件が発生した。
突然のダークブルー紛失理由には、様々な憶測が語られているが、地球をも破壊できる威力を発揮する兵器に危惧を抱いた研究者たちが、それを封印する目的で盗み出したという説が有力だ。
それは原子爆弾を人類へ向けて使用した事に対する後悔の生んだ行動であったと言われ、最終的にダークブルーは、当時アメリカの統治下であったフィリピンへ、どさくさに紛れて密かに持ち出されたとされている。
丹念な調査の結果、ある研究者の甥の友人であり、USアーミーの大尉であったデニスローウィンが、フィリピンへ持ち出した事が分かった。
ただし、持ち出した本人は、既にフィリピンで死亡していた。
彼の死因は、原因不明の感染症。アメリカ当局の暗殺という説もある。
結局、当時ダークブルーの行方は分からなかった。
その後の捜索結果は、まだ機密扱いとなっているが、ダークブルーは未だフィリピンに残っているという説が、有力とされている』
これを読む限り、ダークブルーとは、ただの都市伝説ではなさそうだ。
そして、それがフィリピンへ持ち出されたとなると、ケビンやジェシカの持っている石は、本物のダークブルーである可能性が充分あるという事だ。
続いて私は、ブライアンのメールを開けた。
ブライアンのメッセージは、暗号ルール5317を除き、本文が全て暗号文になっている。
ブライアンまでが暗号文を使う事に、私は彼のメッセージが、重要な機密を含む事を悟った。
『ユーゴ、相変わらず活躍しているようだな』
ユーゴとは、私のフランス軍における名前だ。フランスパスポートも、この名前を使っている。
『フィリピン軍に追われている件、了解した。フランス政府と軍が、君たちのバックアップをしよう。
原子力潜水艦をそちらに回す。接岸はできないが、艦からボートを出す。
既に軍は、政府や諜報部と協議を始めた。ユーゴがルイと連絡を取った事も聞いている。今後彼の連絡内容は、こちらの動きとリンクしていると思ってもらい構わない。
ユーゴをバックアップする諜報部員を一人送る。腕利きだから、きっと役に立つはずだ。
フランスが君たちをバックアップする条件は、現在君たちの持っているダークブルーだ。それをこちらへ渡してもらいたい。
ただではない。政府から、それなりの金を支払う準備をしている。
全ての準備を整えるまで、二日もらいたい。明後日には迎えに行く。
尚、今後の連絡は、全て暗号文を使ってくれ。
合流できるまでの無事を祈る』
軍の上級将校らしい、簡潔でストレートな内容だ。
結局彼らは、フランスとして、ダークブルーという餌に食い付いてきた。
私はもう一度携帯の電源を入れ、パソコンを接続した。
暗号文で、落ち合う場所と日時を返信した。
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