第16話 山中の逃避行

 私は必要な武器をナップザックに入れ、集落の隅で一人、グレースを待った。

 ジェイソンが出発してから十分後のことだ。集落の南側を通る道を、数台の車が連なりセブシティの方へ走った。おそらく奴らは、ジェシカの脱出に気付いたのだろう。

「グレース、ジェイソン、奴らが気付いたようだ。数台の車がシティへ向かったぞ。二人共大丈夫か?」

『こっちは五分でホテルへ到着する。着いたら部屋でお前たちを待つ』

「そうしてくれ」

『私の周辺は異常なし』

「奴らが森に入ったかもしれない。人の気配がしたら、どこかへ隠れて動くな。俺もお前の方へ向かう」

 ジェイソンはおそらく大丈夫だろう。奴らに見つかる前に、無事ホテルへたどり着けるはずだ。

 私は携帯で、グレースの居場所を確認する。彼女はまだ、エリック邸と集落の中間地点だ。

 森へ入ると、足元がおぼつかないほどの暗闇に包まれる。私は焦る気持ちを抑えながら、慎重に足を踏み出した。暗視カメラもなければ、マーカー塗料を見るためのメガネもない。頼りはGPSのみだ。

 歩き出して間もなくのことだった。丁度集落から森へ渡った辺りで、車の停車する音がした。道路際で様子を探ると、どうやらエリックの部下が張り込みを始めたようだ。逃げたジェシカが、まだ森を抜けていない可能性を考え、そこで見張るようだ。

 それ以外の場所でも、他の連中が張り込んでいるかもしれない。あるいは何人かの人間は、既に森の中を捜索しているだろう。探す場所は森から街へ向かうルートであり、まさに今グレースが通っている周辺となるはずだ。

「グレース、気を付けろ。奴らが動き出している。道路に見張りがいる。森の中にも奴らが入り込んでいるかもしれない」

『今のところ、誰もいない。このまま進む』

 昨日通ったのは、道路から大きく離れない無難なルートだ。とすれば、そこは奴らにとっても一番通り易く、ジェシカを探すべき道ということになる。

「いや、一旦左に逸れて森の奥へ行くんだ。今のルートは危ない。奴らに追い付かれたら終わりだ」

『分かった。でも、道が分からなくなる』

「構わない。俺がお前の場所に行くから心配するな」

 GPSトラッカーの画面を見ると、グレースとの距離は五百メートル程度だ。平地なら、普通に歩いて十分かからない。

 そのとき、グレースのひそひそと話す声が届いた。

『佐倉さん、私の後ろに人がいる。一人じゃない』

 私も思わず声を潜めた。

「気付かれたのか?」

『多分問題ない』

「奴らとの距離は分かるか?」

『分からない。でも、声が聞こえる』

 山の中というのは、意外に音が吸収されて届かないものだ。それで人の気配を感じるということは、かなり近距離に相手がいるのかもしれない。

「返事はしなくていい。止まって木の陰に隠れろ。物音を出すな。状況はマイクを叩いて教えろ。一回はノーで二回はイエス、三回はSOSだ。いいか?」

 こつこつと、マイクを二回叩く音がした。こちらの言っている事は伝わったようだ。

「どうだ? 相手は見えるか?」

 こつと、一回だけ音が返る。まだ相手の姿は見えていないという事だ。私は再びGPSトラッカーを見て、歩く速度を速めた。グレースとの距離は、約三百五十メートル。森の中では木々が邪魔をして、五メートルも離れてしまえば相手の姿は見えない。

「どうだ、もう相手が見えるか?」

 こつこつと、二回の音。イエスの返事に、緊張が背中を駆ける。

「何人見える? 人数の分だけマイクを叩け」

 こつこつこつ。

「三人だな?」

 こつこつ。

「相手との距離を教えろ。一回は一メートルだ」

 ここで三回の音がした。三メートルは、もう至近距離だ。できればマイクを叩く音も出したくない。

 私とグレースの距離は、百五十メートルになったが、彼女が見つかってしまえば私は間に合わない。

 もはやノーチョイスという状況だ。私はポケットからリモコンを取り出し、迷わず起爆ボタンを押す。エリック邸の庭に放った四つのリモコンカー爆弾のうち、とりあえず二つを起爆した。やや遅れて、エリック邸の方角から爆音が響く。これで奴らの足が止まるだろう。

 ここでジェイソンが、エリック邸へ派手に銃弾を打ち込めば完璧だが、生憎彼はホテルへ向かっている。

 しかし、爆音の効果はてきめんだった。

『奴らがエリック邸に戻った』

 アジトを襲撃されたと思った連中が、慌ててエリック邸へ引き返したようだ。激しい爆音が響けば、まさか目の前に獲物が隠れているとは思わないだろう。

 私は証拠品を残したくないため、残りのニ台も起爆する。森の中へ、再び爆音がこだました。これで奴らは、ますます慌てるはずだ。

「グレース、まだ動くな。声も出すな。そこでじっとしていろ」

 こつこつと、イエスの合図が返る。私は約二分で、グレースに合流する予定だ。

 道路の方から、エリック邸へ向かう車の音が響いた。豪快にエンジンをふかしているところをみると、手薄になったエリック邸を守るため、手下が一斉に呼び戻されたのかもしれない。

 時間は十一時になろうとしていた。今日中に、ホテルへ戻る事ができるだろうか。

「あと一分でお前に合流する。俺を撃たないでくれよ」

 こつこつと、マイクを二度叩く音が入る。おそらく全員が屋敷へ引き返したと思われるが、念を入れて用心するに越したことはない。

『佐倉、こちらはホテルの部屋に到着した。彼女を残して、お前たちを迎えに行く』

 ジェイソンからの吉報だった。彼の声に切迫感はない。

「いや、お前もホテルで待っていてくれ。ジェシカを一人にするのはまずい。こっちはどうにかする」

『分かった。部屋で待機する。何かあったら連絡をくれ』

 私は既に、グレースの直近へたどり着いているはずだった。周囲の様子を探りながら、歩く速度を極端に落とす。木に身を寄せて辺りの気配を確かめたが、人の足音や声は全くなかった。

「グレース、まだ動くなよ。俺はもう、お前のすぐ近くにいる。俺が見えるか?」

 数秒置いて、こつと一回の返事があった。まだ見えていないらしい。私はポケットから、レーザーマーカーを取り出した。

「いいか、これからレーザーマーカーを点滅させる。赤い光だ。それが見えたら返事をしろ」

 前方のあらゆる場所へ、レーザーを当ててみる。万が一敵がいてレーザー光を見たとしても、彼らはグレースではなく私に近付こうとするだろう。

 少しずつ角度を変えると、こつこつと返事がきた。見えると言われた方向へ少し進み、また同じようにレーザー光を点滅させる。

『佐倉さん、あなたが見えた』

 グレースが、怯えるような小さな声で言った。

「俺から見て、どの方向だ?」

『真っ直ぐ歩いて』

 私は慎重に足を踏み出した。一歩、ニ歩と、周囲に注意を払いながら進む。十歩目で、木の陰から顔を出すグレースがようやく見えた。

 これまで、問題ないと言い続けた彼女は、木の陰から出て私の腕を取った。やはり一人では心細かったのだろう。夜間に森の中を一人で歩き、しかもエリックの一味が至近距離まで迫ったのだ。

「もう大丈夫だ。ジェシカも無事にホテルの部屋へ着いている。後は俺たちが無事に帰れば、一先ず今日のところは成功だ」

「ありがとう。あなたのお陰よ。やっぱりあなたに頼んで良かった」

 敵はどうやら、全員が屋敷へ引き返しているようだ。辺りに人の気配は全くない。しかし爆発がブラフだと知れたら、奴らはすぐに引き返してくるだろう。まだ油断できない。

 私は、グレースの背負う荷物を引き受けて言った。

「喜ぶのはまだ早い。これから自力でホテルへ戻る。余り時間はない。エリックの手下が再び捜索を始めるはずだ」

 森を包む闇は、まだまだ深い。私はグレースの先に立ち、集落の方へと進んだ。しかし、安易に集落へ出て、そこから街へ戻るつもりはない。集落の脇を通り、出来る限り森の中を歩く。そして必然性のない場所から街へ出る。そうすれば、私たちは敵の想定する場所から外れるはずだ。

 早速エリック邸の方角から街へ向かう車の音が、数台分聞こえた。奴らは、爆弾がおとりである事に気付いたのだ。集落周辺の道路は、奴らに固められるだろう。手下の何人かは、既に再び、森の中へ入り込んだかもしれない。

 私は頭の中で、セブの地図を描いた。街は南東側にある。

「ジェイソン、聞こえるか?」

『ああ、聞こえている』

「俺たちは、進路を西側へ変更する。街の方角はもはや危険だ。出来るだけ南西側に歩いて、どこかで日が昇るのを待った方がいいかもしれない。夜の移動は目立ち過ぎる。GPSで、グレースの場所は見えているか?」

『大丈夫だ、見えている』

「どこか落ち合うのに都合の良い場所はないか? 拾うのは明日の朝で構わない」

『ちょっと待て。確認してみる』

 ジェイソンは、パソコンを見ているようだ。私たちは立ち止まることなく、彼の返答を待った。

『ブヒサンダムがいいだろう。そこから約十キロだ』

 エリック邸がセブシティ中心から真北にあるとすれば、ブヒサンダムは同じ中心から真西に位置する。おそらく標高はそれほど高くない。山の裾野を横切るように進めば良いだけで、そこに行くまで起伏は大してないはずだ。距離も平地なら、徒歩で二時間半と遠くない。

 森の中や周囲を警戒している連中も、私たちがまさかブヒサンダムヘ抜けるとは思わないだろう。

「分かった。ピックは明朝の八時で頼む。今使っている携帯をジェシカに渡して、彼女は部屋に残してくれ。お前との連絡は、お前個人の携帯を使わせてもらうが、それでいいか?」

『それで構わない。明日の足の事は心配するな。それより気を付けろ』

「分かった。済まない」

 これで目的地と行動予定が決まった。慣れない山の中を闇雲に歩くのは、精神的疲労が倍増するから少し気持ちが楽になる。

 私は胸のポケットに入れた端末を取り出し、自分の位置とブヒサンダムの方角を、改めて確認した。

 ダムへ真っ直ぐ進んだ場合、途中に大小の集落がありそうだ。念の為にそれらを避けて、やや標高を上げた山側を迂回気味に通った方が良いだろう。

 時計を見ると、針は十一時半を指している。ダムまで二時間半かかるとして、目標を夜中の二時到着とする。それから朝の八時まで、野宿ではあるが暫く休憩できそうだ。幸いな事に、上空にはたくさんの星が煌めいている。暫く雨は振りそうにない。

 私は歩きながら、グレースへ言った。

「今日はこれから二時間半歩いて、そこで野宿する。明日の朝、ジェイソンが俺たちを拾ってくれるから、それまでもう一踏ん張りだ」

 エリック邸へ通じる道路を慎重に横切り、私たちは鉄塔がある側の樹海へ入った。

 道路は閑散としていた。街や近隣を探る部隊は、あらかた出払った後のようだ。おそらく、街の中に住居を構える大方のエリック配下は、今頃総出でセブシティを中心にジェシカを捜索しているだろう。

 奴らが真っ先に向かうのは、ジェシカの実家のはずだ。それをグレースに言えば彼女はまた心配するはずで、私はそのことを黙っていた。奴らもジェシカがそこへいない事が分かれば、手荒な真似はしないだろう。ただし、張り込みをするはずだ。つまり彼女たちの実家は今、一番近付いてはならない場所ということになる。

「ジェイソン、まだ聞いているか?」

 間髪入れずに返事が届いた。

『聞いている』

「ジェシカに、絶対に自宅へ連絡を入れないよう念を押してくれ。家族がホテルへ来るのもだめだ。エリックの手下が必ず家族を張っている」

『分かってる。さっき彼女が電話しようとしたのを止めたばかりだ。家族はまだ、何も知らない方がいい』

 その言葉で、私は胸を撫でおろす。

「助かるよ。彼女へ、家族への連絡がどれほど危険な事かを、もう一度説明しておいてくれ」

 私とグレースは、夜の森を黙々と歩いた。時々頭上に月が見え、フクロウの鳴き声が不気味に辺りへ響いた。虫の音は、いつでも周辺をにぎわしている。夜の森は、アマゾンもアフリカもフィリピンも雰囲気は大差ないが、フィリピンの森は格段に歩きやすかった。それは猛獣に出くわす危険が少ない事や、沼地がない事による。日が落ちると、途端に涼しくなるのも幸いした。

 モニター上のGPS結果は、私たちが確実にブヒサンダムへ近付いている事を示している。ダムまで後ニキロという地点だ。

 不意に人の気配を感じた。

 私はグレースの前に腕を出し、声を出すなと彼女にジェスチャーで示した。

 二人で木の陰にしゃがみ込み、辺りの気配を探る。

 気のせいではなかった。やや離れた場所から、揺れるライトの明かりが切れ切れに見え出した。ライトは一つではない。

 私はグレースに後退の指示を出し、二人で前方を注視しながら、じりじりと後退あとずさった。ある程度下がったところで、二人で地面に腹ばいになる。

 私はグレースから暗視スコープを受け取り、前方を横切ろうとする一団を観察した。

 驚いた事に、彼らは十人編成の軍隊だった。胸元に、フィリピンアーミーと書かれた迷彩服を着ている。各自片眼式暗視スコープを装着しているが、ヘルメットのライトは点灯していた。全員が、小型自動小銃を抱えている。単なる夜間歩行訓練かもしれないが、下手に刺激を与えれば発泡される可能性がある。

 彼らの夜間歩行の理由を知りたかった私は、傍らに落ちている木片を、部隊の前方へ投げてみた。それが木に当たり、やや目立つ音を出す。

 途端に部隊は足を止め、リーダーらしき人間がハンドシグナルで、前方警戒の合図を出した。各自ヘッドライトを消灯し、銃を構える。

 まるで実戦のような緊張感だ。勿論訓練だとしても、軍隊は真剣に取り組む。しかし彼らは、自分たちの先に本物の敵がいるような慌てぶりだ。その山で、熊や虎のような猛獣が出るという話しは聞いたことがない。

 とすれば、彼らの想定する敵は一体誰なのか。まさかそれは、自分たちなのか。もしそうだとすれば、ジェシカを救出した件で、彼らはマフィアと同じ穴のムジナという事になる。それは一体、何を意味するのだろうか。

 いずれにしても、迂闊に彼らに見つかれば危険だ。

 そして、この件に軍隊が絡んでいるとしたら、これはかなり厄介だ。彼らはマフィアと違い、戦闘のプロ集団だ。フィリピンアーミーがどれほどの実力を持っているのかは分からないが、装備や訓練の内容は、マフィアと比較にならないくらい高度なはずだ。

 私とグレースは彼らから離れた場所の木陰に這いつくばり、予想外の軍隊が遠ざかるのを、息を殺してやり過ごそうとした。

 しかし彼らは、途端に行動を慎重にした。彼らは前方へ意識を集中し、レーザートラップを仕掛け始めたのだ。一通りの作業を終了すると、軍隊はじわじわと後退する。

 やはりこれは、単なる夜間歩行訓練ではない。何らかの目的を持つ作戦行動だ。前方から敵が現れるのを想定し、敵の検出手段を講じた上で、それを待ち構えているのだ。そこをのこのこと横切れば、私たちは彼らの自動小銃で蜂の巣にされる。

 私はグレースへ、後退する事をジェスチャーで示した。

 腹ばいのまま、二人でゆっくり後退あとずる。

 匍匐前進ほふくぜんしんならぬ、匍匐後退だ。音を出さないように気を付け、あくまでもゆっくりと。

 そこへ、後方からも人の気配を感じた。どうやら別の小隊もいるようだ。つまり、軍隊を動員し、本格的な山狩りを実行しているということだ。先程の小隊が異変を察知し、近隣の小隊へ連絡を取ったのだろう。決定的に発見されてしまえば、山狩りに入っている全ての小隊が、続々と集結するということかもしれない。

 今度の小隊はヘッドライトを消灯しているため、こちらからは正確な位置を特定できない。私は暗視スコープで、注意深く辺りを探った。

 十メートル離れた左側に、白っぽい物がよぎる。相手が下側にいるため、こちらは身を隠しづらい。しかし地面に這いつくばっていれば、相手との間に多くの木々があるため、こちらが動かなければ簡単に見つからないはずだ。相手の暗視スコープが低性能であれば、分解能が悪くノイズも多いため、木々の隙間から一瞬見える這いつくばった人間を認識するのは難しい。

 案の定、相手はこちらに気付かず、先程の小隊へ合流するかのように通り過ぎた。

 この分では、森の中は兵隊だらけかもしれない。ブヒサンダムとセブシティを繋ぐ道路にも、軍隊による検問が敷かれているかもしれない。これは思ったよりも深刻だ。

 私は這いつくばったまま、隣で同じ姿勢でいるグレースに、声のトーンを落として言った。

「奴らはフィリピンアーミーだ。おそらくジェシカの捜索で駆り出されたんだ。あの警戒ぶりだと、奴らはジェシカの逃走にプロが絡んでいる事を勘付いている」

「どうしてアーミーが?」

「どうしてだろうな。それはお前の妹に直接訊くしかない。それよりも、俺たちは行き先を変える。ブヒサンダムへ行くのは諦めて、このまま真下へ降りるぞ。おそらく奴らは百メートルくらいの間隔で小隊を配置し、下から上へ向けて捜索しているんだ。つまり斜面を横切るように進むのは危険ということだ。犬を連れて来られたら終わりだったな」

 こうなると、夜中や早朝でさえ街中の移動はリスクが大きい。そこら中に奴らの目が光っているなら、目立つ行動は極力避けた方が良い。相手はこちらの顔を知らないはずだ。人が大勢出歩く時間帯、カップルを装い素知らぬ顔で歩いた方が安全だ。少なくとも、深夜の森の中で発見されてしまえば言い逃れは難しい。

 グレースの不安そうな目が、暗闇の中で薄っすらと光る。

「ジェイソン、聞こえていたと思うが、フィリピンアーミーが繰り出している」

『聞いていたよ。思ったよりややこしいな』

「ブヒサンダムでの合流は中止だ。俺たちは森の中で、完全に日が昇るのを待つ事にする。今のところ、自力でホテルへ向かうつもりだ。ジェシカの事を頼む。彼女が絶対に外へ出ないようにしてくれ」

『分かった。そちらも気を付けろ』

 私たちは周囲を警戒しながら、行く先を斜面の下側へと向けた。時間はたっぷりある。音を立てず、じっくりと南東へ進んだ。

 一時間も歩くと、時折少し広めの山道に当たった。それでも道に沿って歩く事はせず、私はそれを横切り、木々が生い茂る森の中の道を選んで進んだ。更に三十分で、森の端に差し掛かっている様子が見え始める。協会の屋根が見えたり、民家の灯りが見え出したのだ。

 標高がまだ高いせいで、街の灯りがやや下側に広がっているのが時々見える。しかしそれは、明らかな眼下に見えるという程ではなく、斜め下側の遠くに繋がっているという感じで、自分たちが随分海抜に近い場所まで降りてきた事が伺えた。

 余りに街へ近い場所まで移動してしまうと、ねぐらに適した場所が無くなってしまう。時計を見ると、針は夜中の二時半を指していた。

 随分と木々が減り、辺りは藪の様相を呈している。少し山側へ戻ると、大人の身体が三人分程度の直径を持つ大木が、細い木々に囲まれていた。

 私はそこで足を止め、グレースへ告げた。

「これ以上進めば、もう直ぐ舗装路のある街へ出る。この時間に街の中を歩くのは、目立って危険だ。今日はここで寝て、朝が来るのを待つ事にする」

 彼女は疲れているのか、無言で頷く。マスク帽をすっぽりとかぶっているせいで、彼女の詳しい表情は読み取れない。しかしグレースの緩慢な動作が、彼女の焦燥を表しているように思えた。

 軍隊に追われるという異常事態が命のやり取りをしている実感を呼び起こし、彼女は緊張で疲弊したのかもしれない。

 グレースは地面に腰を下ろし、大木に背中を預けた。

 私はバックから透明のテグスを取り出し、大木から半径五十メートルの円を描くように、地面から十センチの高さでそれを張り巡らす。そして終端を自分の小指に括り付けた。ただし張力が掛かれば、直ぐにほどけるようにしているし、途中でそれを括り付けた草木は、力が掛かれば意図も簡単に折れるような物ばかりだ。これで相手は、自分の足がテグスを引っ掛けた事に気付かない。私は小指に張力を感じ、寝ている間に誰かが近付いた事を気付く事ができる。もっとも私は、寝ずの番をするつもりでいたのだが。


 周囲は閑散としていた。辺りは風のささやきに、虫の音や鳥の鳴き声が響くだけだった。

 グレースは木の幹に寄りかかり、ぐっすり寝ている。空が白み始めていた。今のところ、心配していた軍隊の接近はない。このまま陽が高くなれば、人混みに紛れる事ができる。

 ひたすら時間が経つのを待った。

 何かがテグスを引っ掛けた。一時間経ったら、移動を開始しようと思っていた時だ。

 指からテグスを外し、グレースの肩を揺する。彼女が薄っすらと目を開けた。

「静かに。近くに何かがいる」

 私は拳銃のスライドを引き、銃弾を転送した状態でグレースに渡す。マスクを外していた彼女は、怯えた様子でそれを受け取った。

「念の為にマスクを着けろ。顔はさらさない方がいい」

 自分も拳銃を持ち、ゆっくりと立ち上がる。

 木陰から森の様子を伺ったが、相変わらず人影はない。しかし、確かに何かがテグスを引っ張った。それは、随分はっきりとした手応えだった。

 暫く様子を探っているところで、折り重なる木々の僅かな隙間に人影が見え、私の心臓が脈打った。人影が、迷彩服を纏っていたからだ。山の上へ行ったはずの小隊が、すぐそこへ戻ってきている。

 どうやら彼らは何かを嗅ぎつけて来たようだが、私たちの具体的な場所までは分かっていないようだ。

 私は、自分たちの携帯電話や暗視スコープ電源を落とした。そして、グレースの靴底に忍び込ませたGPSチップからも小型電池を抜く。彼らが、電子機器の出す電波検出装置を持っているかもしれないからだ。携帯やラジオのような既知の電波以外を山の中で検出すれば、電子機器を使っている誰かが山の中のどこかにいるということになる。

 検出具合は、アンテナや電波を増幅するアンプ性能に依存するが、相手の場所を明示的に探り出す為には専門の技師が必要だ。

 彼らはどこにいるか分からない敵を警戒するように、ハンドサインを使いながら私たちの左前方から右前方へと向かっている。私たちは態勢を低くし、その集団の行動を息を殺して見守った。

 しかし通常、怪しんでいるなら全方位を警戒するはずだ。つまり、違う小隊が私たちの方へと向かっているのかもしれない。

 暫く様子を見守っていると、私の悪い予感は的中した。最初の小隊が現れた場所辺りに、次の小隊が姿を見せたのだ。しかも今度は、進行方向がこちら側のようだった。

 私たちの背後は、五十メートルも進むと見晴らしの良い野原になっている。野原へ出てしまえば意図も簡単に見つかってしまうし、敵がライフルを持っていれば狙い撃ちも容易たやすい。

 この状況で、私たちには一体いくつの選択肢が残されているのだろう。地面に穴を掘って隠れるのは間に合わない。

 この場面では、横に逸れて隠れるのが一番無難な作戦だが、相手も横へ広がり歩いていた。木に登って発見されれば、もうなす術がない。真っ向勝負に出れば、散らばっている相手の仲間が続々と集まってくる。

 私のバッグの中には、二人の着替えが入っていた。街中で黒装束は目立つため、着替えを用意していたのだ。元々ダムでジェイソンと落ち合ったら、そこで着替える予定だった。

「グレース、急いで着替えるんだ」

 私はバッグの中から彼女のジーンズとTシャツを取り出し、グレースへ渡す。二人背中合わせになり、急いで着替えを済ませた。そしてバッグの中へ全ての武器や所持品を放り込み、そのバッグを藪の中へと隠した。

「じっくり後退あとずさるんだ。野原の縁まで行ったら、素知らぬ顔で散歩の振りをする」

 私の服装も、ジーンズに白のTシャツだ。森の中でも目立つ格好であるため、相手との距離を確認しながら、木陰から木陰へと移動を繰り返す。

 森の縁はもうすぐだ。それほど森へ深く入り込んでいなければ、決して怪しくはないはずだ。

 私たちはようやく野原の端にたどり着き、後は森に沿って二人で普通に歩いた。

 案の定、五分も経たないうちに、迷彩服の軍人二人が銃を構えて後ろから私たちを追ってきた。

 私たちは立ち止まり、彼らを待った。私たちに追いついた二人のうち、一人が私たちに質問を投げる。

「ここで何をしていますか?」

 ヘルメットの下には、軍人らしくない、一般的なフィリピンの若者の顔があった。言葉遣いも丁寧で、威圧感はまるでない。こちらが武器らしき物を一切持っていないのが明らかなせいだろう。実際には、ソックスに一本のナイフを隠している。もし見つかっても、治安の悪いフィリピンで護身用に持っていると言えばいい。

 もう一方の兵隊は、ポケットから一枚の写真を取り出し、それとグレースの顔を見比べた。

 グレースが答えた。

「暑くなる前に、二人で散歩しているのよ」

 今度は私が言った。

「もしかしてここは、軍の何かで立ち入り禁止エリアですか?」

 相手は顔を見合わせた。余計な事は少しでも言いたくないといった様子だ。

「いや、立ち入り禁止エリアではないですよ。こちらは行方不明になった女性を探しているだけです。念の為に、身分証明書を見せて下さい」

「あいにく何もないんですよ。必要な小銭だけを持って、パスポートや財布は全てホテルへ置いてきたんでね」

「ホテルは何処ですか?」

 私は界隈にあるホテルの名前を適当に答えた。

 二人はまた顔を見合わせたが、写真を持つ男が頭を横に二回振ってから頷く。

「分かりました。質問は以上です」

 私は、彼らが持っている写真を確認したかった。

「もし探している女性を見掛けたら、連絡しますよ。よかったら、それを見せてくれませんか?」

 男はやや躊躇したが、私たちを全く疑っていないようだ。彼は私たちの方へ写真を向ける。そこには笑顔をたたえた、ジェシカとケビンの二人が一緒に写っていた。

「男の方も探しているんですか?」

 男は答えに一瞬躊躇した。

「いや、彼らが一緒にいる可能性があるというだけです。もし女性を見掛けたら、アーミーの方へ連絡を下さい。警察ではなく、アーミーですから間違えないように。ではお気を付けて」

 彼らは踵を返し、小隊の方へと小走りに戻る。

 彼らから鬼気迫るものは感じられなかった。おそらく彼らは、単に命令に従っているだけなのだろう。ジェシカの脱出に第三者が絡んでいる事は知っていても、まさかそれを、早朝の散歩を楽しむカップルと結び付ける事はできなかったようだ。

「よく適当なホテルの名前を言えたわね」

 グレースも安心したようで、柔らかな笑みを顔に浮かべて訊いた。

「お前が寝ている間に調べておいたんだ。迂闊に二人で熟睡したら危険だからな」

「え? 寝てないの?」

「ほとんどな」

 彼女は申し訳なさそうに、ごめんなさいと謝る。

「気にしなくていい。それも俺の仕事だ。それに安くない。これくらいは当然だ」

 藪の中へ隠した武器や諸々は、本来であればすぐにでも回収したいが、これだけの兵隊が出回っているなら後日にした方が良さそうだ。

 私たちはイギリスで見る広い丘陵地のような野原を、涼しい向かい風を受けながら、堂々とのんびり突っ切る。民家のある場所に出てからは、トライシケルというローカルなバイクタクシーで、ようやくホテルへたどり着いた。

 街の中では、至る所で軍人を見掛けた。検問をしているわけではない。おそらく、国や州の依頼に基づいた公式の捜査ではないのだろう。あくまで軍の機密に関わる、非公式な活動という様相だった。

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