第8話 エリック

 これ程長く話すのは、本当に久しぶりだった。

 

 あれは、ある暑い日の午後だった。

 私は外へ出ると、いつも空を見上げる。頭上には雲一つない抜けるような青空が広がり、自分がフィリピンにいる事を、改めて実感させる日だった。

 もし暑さで倒れたら、それはそれで楽になれると考えながら、私は意味もなく、焼けたアスファルトの上を歩き続けていた。

 余りの暑さに、朦朧もうろうとし始めていた時だ。

 モール脇の道を大型のトラックが、結構なスピードを出して近付いてきた。街中で大型車が暴走しているのだから、私は何となく警戒した。

 次の瞬間、小さな子供が、ふらりと車道へ歩き出した。もうトラックは目の前だ。電流が身体を駆け抜けた。ほんの一瞬の事だ。

 気付けば、私の身体は動いていた。車道に飛び出し、ラグビーのタックルのように子供へ飛び掛かった。

 子供をキャッチした時、トラックとの距離は三十センチだ。駄目かもしれないと思った。

 子供を胸の中へ引き寄せて、勢いに任せて路上を転がった。それと同時に、すぐ脇を大型トラックがすり抜けた。その時の子が、エリックの子供だったのだ。


「だったらあなたは、エリックの恩人ってことじゃない。あなたからエリックに、ジェシカのことを確認できないの?」

「話はそれほど単純じゃない。この件が元で、俺とエリックは、大喧嘩をする事になる」

 私はその続きをグレースへ聞かせた。


 私はこの時、左膝に大怪我を負った。おそらく、トラックのどこかへ当たったのだろう。子供を救った時には気付かなかったが、膝の骨が割れるという重症だった。

 子供の無事を確認した母親は、私の膝の出血に気付いて慌てた。身なりの良い、まだ若くて色白な、美しい女だ。

 直ぐに無理やり病院へ連れていかれ、片足は石膏で、かちかちに固められた。

 そうなると簡単に歩けない。

 母親はタクシーで、私の家まで送ると言い出した。

 しかし、私の住む小屋は貧民街にある。身なりの良い若い女が入るには、危険なエリアだ。タクシーでさえエリア内に入るのを拒否する場所なのだ。

 自宅はどこかと訊かれても、私は答えることができなかった。

 そんな自分が惨めだった。そんな気持ちになるのは、本当に久しぶりだった事を覚えている。

 彼女はおそらく、私の様子に、全てを見抜いたのだろう。身なりを見れば、ホームレスかそれに近い生活をしていることなど、簡単に察しが付くはずなのだ。

 彼女は、私が良ければ、自分の家に来ないかと言った。息子の命の恩人だから、怪我が治るまで面倒を見させて欲しいと願い出た。

 私が断っても、彼女は引かなかった。

 そこで、私の気まぐれが働いてしまった。フィリピンに来てからというもの、どうせ全てが成り行き任せなのだ。私はそこで、彼女のお節介に乗ってしまった。 

 到着した彼女の家は、マンダウエの住宅街に建つ、コンクリート造りの小さな一軒家だった。防犯ゲートの付いた、塀に囲まれた家だ。

 彼女は狭い家だと言ったが、リビングとダイニングの他に、部屋を二つ持つ、充分立派な家だった。

 室内は、真っ白な壁に囲まれて明るく、掃除も行き届いている。

 テーブル上に一輪挿しが置かれ、それが生活のゆとりを感じさせた。

 母親は自己紹介で、名前をレイチェル、子供は四歳で、ロメルと言った。

 レイチェルはシングルマザーで、その家に、子供と二人で暮らしていると教えられた。

 普段使っていない八畳程度の一室があてがわれ、私はフィリピンで初めて、まともな自室というものを持つ事になった。

 こうして、フィリピンの母子家庭に合流するという、不思議な生活が始まったのだ。

 その生活は、きちんと一日三食にありつける、まともなものだった。

 フィリピンを訪れた当初、まともでない事に驚いていたが、暫くすると、今度はまともな事が不思議になる。

 つまり、毎日シャワーを浴びる事ができて、身につける衣類はいつでも清潔な、とても不思議な生活という事だ。

 食事は全て、レイチェル自身が用意してくれた。

 どん底を経験した私には、三食の温かい手作り料理が、本当に有り難かった。

 食事だけではない。レイチェルは甲斐甲斐かいがいしく、私の世話をしてくれた。

 ギブスがはまり、左足を曲げられない事は、意外に不便だったのだ。だから私は、色々なことでレイチェルの手を借りた。

 彼女は、私の着替えも少しずつ買い揃えてくれた。食費もそうだが、そうした出費を、彼女は惜しまなかった。

 私は彼女に、余分な出費や普段の生活費がどこから出ているのか、プライベートなことは一切訊かなかった。

 彼女も、私に媚びる態度は、一切取らなかった。何事にもこちらが無口でいると、彼女もそれに合わせるようにあまり話さない。

 しかし彼女の場合、愛想がなかったわけではない。美しい笑顔を見せて、私の世話には懸命だった。だから私は、いつも彼女へ感謝していた。

 私の膝は、縦骨折という単純骨折で、手術は不要だった。しかし石膏で固めた場合、治るまで時間がかかる。

 ギブスが、あと半月もしたら取れるという頃だ。突然レイチェルの家に、がらの悪い連中が数人現れた。

 ドアを激しく叩く音に怒声が聞こえた。

 私が部屋から顔を出すと、玄関でレイチェルが、彼らの前に立ちはだかっていた。

 下っ端三人は汚らしい格好をしていたが、先頭に立つ人間は、仕立ての良いスーツを着込んでいる。

 私が初めてエリックを見たのは、この時だ。

 お互い現地語で言い争っていたが、突然ボスの張り手がレイチェルの顔に炸裂して、彼女が吹っ飛んだ。

 床に倒れるレイチェルの脇を、下端したっぱ三人がどかどかと通り過ぎ、彼女の寝室にいたロメルを部屋から連れ出す。

 レイチェルはリーダー格の男をエリックと呼び、何かを訴えるようにすがった。しかし男は、彼女の懇願を無視し、部屋から出た俺をじっと見つめた。

 彼はフィリピン人にしては背の高い、髪をオールバックで固めた、目付きの鋭い男だった。

 やけに冷めきった目付きに、彼が本職である事を私は悟った。殺人を経験している人間の、態度と目付きだったのだ。

 レイチェルは私に、部屋に戻れと叫んだ。いつも優しく控え目な彼女が、初めて見せる激しさだ。

 私はレイチェルの叫びを無視し、片足を引きずりながら、男へ近付いた。

 レイチェルは慌てて自分を押し止めようとしたが、私はそれを静かに払いのけ、構わず男の前へ出た。

 片足で勝算があったわけではない。しかし、どうにかなるかもしれないと思っていた。四つの手足の内、まだ三つも使える。

 エリックは落ち着き払い、目の前の私を、湿った視線で見返した。

 彼は静かだった。こういう時は、静かな奴ほど怖い。

 エリックは、『お前が噂の色男か』と言った。

 一体何の話か、私にはさっぱり分からなかった。

 エリックが唇の片端を僅かに上げ、もう一度ふてぶてしく言った。

『レイチェルが、日本人の男を家に引き入れたと、噂になっている』

 レイチェルは直ちに否定した。

 私がロメルの命を救った恩人で、その時怪我をしたため、面倒を見ていると言った。それ以外のやましい事は、何もないと訴えた。

 エリックは私に視線を固定したまま、『本当か?』と訊いた。

 私は正直に、本当だと答えた。

 彼は私の言葉の真偽を確かめるように、こちらを薄気味悪い目でじっと観察した。

 奴らがどう出るか分からなかった私は、周りに武器になる物はないかを、無意識に探っていた。そういった空気を感じ取ったからだ。

 三下との距離を考えると、今自分が使っているベルトが有効かもしれない。そのあとは、ズボンのポケットに忍ばせた小型ナイフでしのいで、相手が持っているだろう拳銃を奪う、というような事だ。

 最悪の戦闘シーンを想定していると、エリックがようやく口を開いた。

『それなら俺も、ロメルの父親として礼を言わなければならない』

 鈍い私も、ようやく状況が飲み込めた。別居の妻か愛人か知らないが、自分の女が男をたらしこんでいると噂が立てば、黙って見過ごすわけにはいかないだろう。こうした稼業の人たちなら尚更だ。

 私は誤解を招く事をした軽率さを、素直に侘びた。そういうことなら、直ぐにここを出るとも言った。

 レイチェルはまだ無理だと言い、必死の形相で、怪我が治るまで面倒を見させてくれと、エリックに頼み込んだが、結局エリックは、その頼みを冷たく断じた。

 しかし彼は、自分が私の面倒を見ると言い出したのだ。

 私がエリックの元へ身を寄せたら、ロメルは今まで通り、レイチェルに預けるという事だった。

 レイチェルは返事をすることができず、私がそれで頼むと言った。

 その場を丸く収めるには、彼の要求を受け入れるのが最善だと、私は考えたのだ。

 エリックは不敵な笑みを浮かべ、手下へ私をお連れしろと顎をしゃくった。何ともふてぶてしい態度だった。

 これが、私とエリックの出会いだ。


 グレースが言った。

「それは最悪の出会いだよ。いくら何もないって言っても、ほとんどの男は怒る」

「そうだ。だから俺は、エリックの言う通りその家を出たんだ。彼に黙ってついていった」


 車に乗ると、頭に黒い布袋を被せられた。家の場所は秘密だから、悪く思わないでくれと言われた。

 着いたのは、映画に出てくるイタリアンマフィアの、ドンの家のような豪邸だ。

 家の前に噴水があり、綺麗な芝生の庭が広がっている。建物の中は、部屋が何個あるのか分からないくらい広大だ。

 私はそこで、二階の一つの部屋へ通されたが、部屋に鍵を掛けられた。

 何もない、がらんどうの部屋だった。小さな窓はあるが、鉄格子がはまっている。

 予想通り、これは殺されるかもしれないと思った。


「予想通りって、それが分かっていたのについていったの?」

 グレースは、ミステリー小説の粗筋でも聞くように、その話を面白がっている。

 しかし、そこからが、彼の本性に関する場面となるのだ。

 私がわざわざこの体験談を語るのは、これから相手をするかもしれない奴らの非情さを彼女に理解してもらい、何事も慎重に行動して欲しいからだった。

「そうだ。俺は元々、いつ死んでも構わないと思っていたからな」


 その日は夜まで、何事もなかった。水や食料の配給もなく放って置かれた。

 夜になって、ようやくエリックが現れた。屈強な男二人を伴っている。

 二人のお供は、アメリカ人だった。おそらく軍隊上がりだ。セブにも米軍基地があり、駐在しているうちに繋がりができ、そのまま居着いてしまうのだろう。

 私は二人の男に押さえつけられて、地下の部屋へ入れられた。暗くて薄汚い部屋だ。

 そこで手錠をはめられ、太い金属チェーンで天井から吊るされた。手錠が手首に食い込み、痛みは相当強い。

 その状態で、エリックの尋問が始まった。

 彼の聞きたい事は、勿論、私とレイチェルとの関係だ。

 私は、死ぬなら楽に逝った方がいいから、嘘でも彼女と寝たと言えば簡単だが、それだとレイチェルに迷惑がかかる。

 最初は木刀みたいな物で、滅多打ちにされた。そして、両手の爪を一枚ずつ剥がされた。身体に電流も流される。それでも私は、最後まで嘘を言わず、何もなかったと言い通した。

 その日はエリックの方が疲れて、私は拷問から開放された。

 ただし奴らは、私を天井に吊り下げたままいなくなったから、その後が大変だった。

 肋骨アバラも何本かやられ、身体はぼろぼろだった。


 私の話が進むに連れ、グレースはいつの間にか、今にも泣き出しそうな顔になっていた。

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