第4話 消せない汚点
結局私は、グレースの妹であるジェシカを探す事になった。わざわざフィリピンくんだりまで出向いてである。普通であれば、有り得ない話だ。
断っておくが、彼女の身体を提供するという誘惑に負けたのではない。身体での支払いは、しっかり辞退した。私には、そこまで彼女へ深入りするつもりは毛頭ない。
足が出た分と成功報酬は、月々の稼ぎから分割で払ってもらうというのが、私の出した手伝うための条件だ。
それに対するグレースの反応は、微妙だった。身体の提供が不要な事に安堵したのは確かだろうが、抱かせてやるというものを敢えて断る男がいるのかという、不思議な顔もしていた。
おそらくこれまで、何人もの男が大金を払うから抱かせろと彼女へ迫ったはずだから、ただでも断る男がいる事をグレースは理解できないのだろう。
私は一緒にベッドインしなくてもよい代わりに、なぜ自分に白羽の矢を立てたのか、その理由を教えろと迫った。
グレースは答えに躊躇したが、だったらホテルへ行こうと言うと、彼女はあっさり白状した。結局彼女は、私のようなおじさんと肌を合わせるのは嫌なのである。
「二階堂さんが教えてくれた」
珍しい名字に、私の頭には、直ぐにある人物の顔が浮かんだ。
「二階堂って、あのヤクザの親分か?」
彼女は「そうそう、これこれ」と言って、自分の頬を人差し指でなぞる。
それだけで、私には全ての謎が解けた気がした。彼は私の過去を知る、数少ない店の客だったからだ。
「つまり、俺が昔、ポリスだった事か?」
「そう。二階堂さん、あなたにたくさんいじめられたと言った」
外人パブといったあの手の店には、たまにその筋の客がいる。店で見かける筋者は大体が幹部か組長クラスで、店の中ではみんな猫を被ったように大人しい。加えて女性に骨抜きにされていれば、一般人と区別がつかないほど紳士になる。
「一体、なぜそんな話になったんだ?」
「それは、店の中で彼が初めてあなた見たとき、すごく怯えたから。顔が変だったよ。彼は、あなたがこの店によく来るのかって訊いた。だから、あの人も私の客だって教えたら、彼はひっぃって声を出した」
グレースは二階堂の様子を思い出したのか、彼の悲鳴を真似て楽しそうに笑った。
「不思議だったよ。どうしてそんなに怖がるのか。ヤクザのボスなら、怖いものなんてないでしょ? だから私訊いた」
二階堂は私が警視庁の刑事だった頃、私を自分の天敵だったと言ったらしい。
「たったそれだけで、妹の件を俺にお願いしようと思ったのか?」
「違う。あなたにお願いしたのは、彼に言われたから」
グレースは最近店を三日連続で休んだが、二階堂がそれを心配し、彼女へ休んだ理由を訊いたそうだ。普段の彼女は、滅多な事で休まない、皆勤賞の真面目な女だったからだ。
「私、その時彼に、妹の事を相談した。助けてくれないかってお願いしたよ。だってヤクザの親分だから」
「それで二階堂は何て言った?」
「無理だって。日本のクザがフィリピンに行って現地のマフィアと喧嘩したら、大変な事になるって」
なるほど、二階堂は適当な口実を設けて、体よくグレースのお願いを断ったというわけだ。私は自分も断るつもりでいた事を棚に上げ、姑息な奴だと彼に少々腹が立った。
「それで親分が、あなたにお願いすればいいって言った。あなたは今シークレットサービスやっているし、それにソルジャーだからって。しかも、スペシャルフォースでしょ?」
思わず舌打ちが出る。
シークレットサービスといえば聞こえはいいが、ただのしがない貧乏探偵だ。最近は、浮気調査ばかりやっている。
それに、確かに昔は軍隊にも所属していたが、引退してから十年以上の年月が流れている。私の刃はもはや錆びついていて、何の役にも立ちそうにない。だから奴の言った事は事実だが、鵜呑みにしてはならない事実であった。
それ以前に、そこまで人のプライベートに言及するのは仁義に反するだろう。ますます二階堂に腹が立ってくる。彼女のお願いを断るだけならまだしも、私を巻き込むなど一体どういう了見なのだ。
かつての私は桜田門の威光を笠に着て、二階堂を随分いじったのは事実だ。奴は未だ、それを根に持っているのだろうか。
二階堂の言う通り、私は日本の警察組織へ身を寄せる前、フランス外人部隊で働いていた。その後訓練成績が抜きん出ていた私は、フランス国籍をもらった上でスペシャルフォース、つまり特殊部隊に抜擢され、世界中の戦場を経験している。
元々空手と剣道が有段であった私の格闘技術は、スペシャルフォースの様々な訓練で更に磨きがかかった。加えてゲリラ戦法などお手のもので、ヤクザが私に闇討ちなどかけようものなら、十倍返しを食らわせる事も朝飯前だった。だから私は、奴らの事など鼻にもかけていなかったのだ。
勿論、様々な銃器や特殊兵器についても精通している。加えて実戦経験が豊富とくれば、私がいくら警察を退官しても、余程の命知らずでさえ私にお礼参りを企てる奴はいなかった。
私は世界中の紛争でいくつもの極秘任務を遂行したのち、フランスと日本の政府間協議で再び異例の抜擢を受け、日本国警察組織の一員となった。通常、海外軍隊経験者が日本で公職に就く事はない。
そんな経歴や特殊能力のせいで、私は慢心していたのかもしれない。
「二階堂は、俺が警察を辞めた理由も言ったのか?」
「そこまでは聞いてない。でもあなたは強いって。妹を助けるなら、あなたが一番いいって彼が言った」
なるほど、奴は私の一番触れられたくない部分を伏せたようだ。
私の記憶から決して消える事のない、忌々しい事件の事である。
警察へ就職後、普段の私はSATチームの教官を担当し、自身のスキルアップのために時々事件捜査にも参加していた。
その流れで十年前、私は凶悪殺人事件の吉野という犯人を、単独で追っていたのだ。
単独行動は服務規程違反であったが、私はそれを無視し、遂に東京郊外の住宅街に近い大通りで、犯人の吉野を追い詰めた。
すると切羽詰まった彼は、路上で母親に手を引かれて歩く五歳男児を衝動的に拉致し、近くのビルへ立てこもってしまったのだ。
私は吉野の見ている前で自分の拳銃を捨て、両手を上げた丸腰で、彼にゆっくり近付いた。
吉野は拳銃を持っていたが、銃の扱いは見るからに素人だった。
しかも持っていたのは、イングラムM10という米国製の機関短銃だった。小型軽量で安価な銃のため、世界中の犯罪組織で使われるようになったものだ。
これは銃本体が軽量のため連射中の反動を抑える事ができず、命中精度が極めて悪い事で知られている。
よって吉野は私に銃口を向けていたが、仮に引き金を引かれても、その銃弾は私に当たりそうもなかった。厄介なのは連射式である事だが、この銃は連射速度が速いため、当たる前に弾切れとなる事が多い。
実際に吉野は一瞬引き金を引いたが、案の定銃弾は、まるで明後日の方向へ飛んだ。
しかし私の余裕の態度が、仇となってしまった。
吉野は私の落ち着いた態度に、恐怖を感じたようだ。
吉野は突然叫んだかと思うと男児の頭に銃口を突き付け、彼の錯乱中に銃が暴発してしまった。
男児は即死だった。一瞬の出来事で、対処のしようがなかった。
子供を撃った吉野は、自分のしでかした過ちにうろたえた。その隙に私は彼に飛び掛かり、怒りに任せ彼を殴り続け、半殺しにしてしまったのである。
マスコミは、こぞって私を叩いた。私の海外軍隊経歴も、スペシャルフォースの事を含め世間に暴露された。
おそらく二階堂は、まだ当時の事件を覚えているだろう。
私は、世間に叩かれても仕方ないと思っていた。目の前で、罪のない幼い子供が命を絶たれたのだ。全ては自分の慢心が招いた惨事だ。私は自身の罪の意識によって、壊滅的に打ちのめされた。
そして当然のごとく、警察を辞めたのである。
私を現実へ引き戻すように、グレースが訊いた。
「どうして警察を辞めたの?」
私はつい、何事にも真っ直ぐなこの女にどう答えるべきか迷ってしまう。
彼女は私に投げた質実な視線を、全く逸らすつもりはないようだ。
結局私は、面倒な説明を省き、端的に答えた。
「五歳の子供を殺したからだ」
彼女のはっとした顔が、次の一瞬で曇った。
それ以上聞いてはならないと思ったのか、彼女はそれであっさり引き下がった。ついでに厄介なお願いも、引っ込めてくれたら良かったのだが。
私はこの事件をきっかけに、グレースの生まれ故郷であるフィリピンと、浅くない関わりを持つ事になったのだ。
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