第2話 突然の電話

 かつてセブへ長期滞在した際、私は多くのフィリピン人と関わりながら、自分の神経が何かしらに刺激され続け、私の喜怒哀楽は一つの状態に留まらず、目まぐるしいほど入れ替わっていた。

 しかし、総じてフィリピン人の態度には温かみがあった。まるで陽だまりに身を沈めているかのような安らぎが、確かにそこへ存在していたのだ。

 日本に戻ると、妙にそれが懐かしくなった。それで私は、気の向いたフィリピンパブへ、度々足を踏み入れるようになった。

 私にとって、害も益もない与太話で盛り上げてくれるおおらかなフィリピン人は、生身で大海へ放り出された境遇の、ライフジャケットのようなものであった。それがなければひとたまりもなく、煩わしい日本社会の荒波に飲まれ、深い水底へ引きずり込まれてしまっただろう。

 広い海洋にぽつりと浮かぶ心細さは変わらないが、ライフジャケットの有無は差し当たっての生死を分ける、重要なアイテムというわけだ。それが私にとって、フィリピンパブで過ごす時間の意味であった。

 そうでありながら、自分では、なぜフィリピンなのだろうと思うこともある。

 それを不思議に感じた時、日本人のキャバクラやロシアン、コリアン、チャイニーズパブへも行ってみたが、いずれも続かなかった。そこではなぜか、気疲れが先行する。

 結局私は、フィリピン人と話しているときが一番癒やされる事を知った。しかしなぜ癒やされるのか、その理由は分からずじまいだ。


 五反田の行き付けフィリピンパブに、馴染みのグレースという女がいる。日本で暮らし始めて五年というニ八歳の彼女は、グラマラスで彫りの深いスペイン系の顔を持つ美女だった。彼女とは、客として三年の付き合いになる。

 アーモンド型のくっきりとした目と官能的な厚い唇が魅力の彼女は、どうやら店のナンバーワンのようだ。六本木辺りの高級店でも上位へ食い込むだろう容姿だから、それは当然といえば当然だ。

 そんなグレースの元へ通う男は、懸命に彼女を落とそうと金を使うらしい。しかし見た目の派手さに反して彼女は身持ちが硬いらしく、それが通い客の野望を益々燃え上がらせるという噂まで耳に入っている。

 確かにグレースは、過剰な接客をしなかった。常に背筋を伸ばした行儀の良い姿勢で座り、微妙とは何かをよく心得た距離を客との間に取った。

 エレガントなロングドレスの上からは豊満な胸の膨らみが見て取れ、くびれたウエストの下にはツンと上に持ち上がる形の良いヒップが、ドレスの曲線を綺麗に描いている。下心の全くない私でも、思わず視線を奪われてしまうほどの美しさを持つ女だった。

 併せてグレースの会話は、気が利いている。話題になるのは酒やカラオケや料理、フィリピンの様子、日本での暮らし向き、時には政治と何でもよかった。

 我を出さずにさり気なく自分の意見や感想を混ぜながら、上手に相手の話を引き出す。しかし見え透いた客の持ち上げはしないし、客を繋ぎ止めるための下種な話もしない。勿論同僚の噂話や悪口で、相手の関心を誘う事もない。それに彼女には、嫌な事を無理強いする客が指名しても、接客を断る気丈さまである。

 おそらくグレースは、売上げが大きかったのだろう。嫌いな客の接客を毅然と断る彼女に対し、困ったフロアスタッフが平身低頭彼女をなだめる光景に、私は少なからず出くわしている。

 そうなると、グレースはテコでも動かない。これは珍しく面白い女だと、自分は彼女に度々感心した。貧国からやって来て稼いでいるのだと、卑下する事はない。人間として、正当な主張はプライドを持ってすべきだと、自分は彼女を心の中で応援していた。

 夜の世界で働くなら、プライドを失えば容易に坂道を転げ落ちる。それまでそういった女を数多く見てきた。大抵そのケースでは、外人の彼女たちが泣きを見る。よって、グレースの日頃の考えや態度は正しいのだ。自分を大切にしたいなら、プライドだけは捨てるなと、言葉にして彼女へエールを送った事もある。

 五日前、そんなグレースから珍しく電話が入った。営業コールなどしない彼女の電話に、何かあったのだろうかと訝しく思いながら応答した。

 グレースの第一声は、いつも毅然とした彼女の様子とかけ離れ、遠慮と怯えがない混ぜになったようなか細さだった。

「佐倉さん?」

「そうだけど、珍しいな。何かあったのか?」

「仕事中にごめんなさい。今、少し話せる?」

 彼女らしい切り口だった。彼女は自分が接客中、他の客から電話があっても絶対に出ない。だからこそ、客が仕事中には自分からも電話をしないのだと、以前本人から聞かされた事がある。

 私が問題ない事を告げると、彼女はもう一度謝って続けた。

「とても大切な相談があるの。今日あなたの仕事が終わってから会いたい」

 見え透いた理由をくっつけた営業コールかと勘繰ったものの、彼女の誘いならば悪い気はしなかった。

「それは構わない。後で店に行けばいいのか?」

「ノー、お店は休む。外で会いたい。我儘言ってごめんなさい」

 それでその電話が、彼女の営業ではないことが分かった。しかしそうなら、今度はまた別の問題がある。

 本来私は、彼女たちとプライベートな付き合いを一切しない。ときにはそそられる事もあるが、そういった事はしないと心に決めている。自分に課したそのルールを破ってしまえば、禄な事にならないのだ。

 いくら夜の世界で華やいでいても、本国のフィリピンに家族を抱える彼女たちは、その肩にいくつもの問題を抱えている事が少なくない。

 つまり彼女たちとプライベートな関わりを持つ事は、彼女たちの双肩にかかる問題へ、足を踏み入れる事になる。泥沼に嵌れば、最後はお互い傷つけ合う事にもなりかねない。殆どが金の問題だから尚更だ。

 そんな事になるなら、彼女たちとの付き合いは、店の客とホステスという関係に留めておくべきだと肝に銘じている。

 しかしながら、他ならぬグレースの頼みであった。救援依頼を頻発する他の女性たちとグレースは、明らかに兼ね備える常識が違う。その彼女が、思い詰めた様子でお願いしているのだ。

 私は思案して、一先ず話を聞くだけなら構わないだろうと決めつけてしまった。あとの事は、相談の内容次第という事だ。

 私は彼女と品川駅で待ち合わせる事にして、気になる電話での会話を一旦終わらせた。

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