三章

 プロポーズされてからすぐに、東京に行く準備を始めた。

 引っ越しは意外とやることが多いと思ったからだ。

 住所変更などをいろいろな手続きをしていると、ふと思った。

 私は生まれてからずっと関西の京都という土地で暮らしてきた。

 昔の私は、きっと京都を離れる日が来るなんて思ってもいなかっただろう。

 突然寂しさが、ざーっと波のようにこみ上げてきた。

 そこは、私の慣れ親しんだ人は誰もいないし、きっと空気や匂いも京都とは全然違う。

 私は武蔵野のことを何も知らない。彼が住んでいるということぐらいしか知らない。

 私は本当にそんなところで生きていけるのだろうか。

 ただ、怖かった。

 自分でもその感情に驚いた。

 私は今まで彼に対して何も不満などなかった。

 そして、今後も不満を持つことはないだろうと思っていた。

 それなのに、どうしようもできない気持ちに襲われた。

 彼といられたら、それだけで幸せだ。たとえそれが私の知らない土地だったとしても、怖くはない。そう、思っていたはずだ。

 彼と新しい人生を歩んでいくのだから。今までの私とはお別れしていくのだ。

 そう思って、自分を無理やり納得させた。

 それに電話越しの彼は、私が来ることをまだかなとずっと待ってくれているのがわかったから。

 私は必要最低限のもの以外持っていかないでおくことにした。

 たくさん持っていくとあれもこれも京都での生活を思いだしてしまうから。

 私の心のかすかな揺れなんて、なんともないのだから。

 彼と一緒に暮らすには、捨てなければいけないものもきっとあるから。




「どうかしたの?」


 ある日、テレビ電話中に突然彼にそう言われて、驚いた。

 

「えっ、ううん。なんでもない」


 私は彼に変な心配はさせたくないと思った。プロポーズも受けたのだし、彼と生活をともにすること自体には不満はなかった。

 ただ私が一人悩んでいるだけだ。ほんの些細なことなのだ。


「そう?最近元気がないよ」


「気のせいだよ。きっと引っ越し準備で疲れてるんだよ」

  

「本当に?」

 

 画面越しに彼は大きな目でじっと見つめてくる。

 そんな真っ直ぐな目で見つめられると嘘がつけなくなる。

 私はどうするべきか迷った。

 そして、話してみることにした。

 この寂しさをこれから先も一人でずっと抱えておくことは、私にはできないと思ったから。

 いつから私はこんなに弱くなったんだろう。


「蒼さんが悪いわけじゃないのよ。ただ、うーん、少しだけだよ、寂しいなあと思って…」


「寂しい?」

 

「そう、私ずっと京都で過ごしてきたから。京都を離れるのが少しだけ怖くて寂しい」


「ごめん。柚の気持ち全然考えられてなかった」

 

 そう言って、彼はその後私の話を長い間聞いてくれた。

 そして、急がなくていいこと、いつでも京都に二人で帰れることなど話してくれた。

 自分でもわかっていることが、誰かに言われると心に響くときもある。

 私はその時、彼の優しい言葉が、確かに私の心の奥に届いた。

 

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