【3】


 辺りが少しずつ薄暗くなりつつあったせいか、正面玄関には煌々と蛍光灯が灯っていた。夏至に向けて日が長くなる一方であるが、しかしずっと昼間が続くことも、夜が続くこともない。さしずめ、昼と夜の境目である今の時間は、逢魔時と呼ばれるのではないだろうか。


 蛍光灯の音――という表現になるのだろうか。この時期の割にひんやりと冷たいコンクリート固めの正面玄関には、耳鳴りに似た音が響いていた。


「正面玄関に入ると、すぐにエレベーターホールですか……。となると、このエレベーターが人喰いエレベーターということになるのですね?」


 正面玄関とエレベーターホールはイコールだと言っても過言ではない。左手には、それぞれの部屋にあてがわれているであろう郵便ボックスがずらりと並び、その脇には痩せ細った観葉植物が申しわけなさそうに置かれている。入居者がほとんどいないというのは事実なのだろう。郵便ボックスには、きっとダイレクトメールや広告だったりするのであろう。全く同じものが突っ込まれているようだった。逆に何も入っていない郵便ボックスこそ、入居者が使っているものなのであろう。どうやら、管理が随分と杜撰ずさんのようだ。郵便ボックス群の脇に伸びる廊下は、きっと1階の各部屋へと繋がっているのだろう。


「えぇ、ただ――あの事件以来稼働させていないそうですよ。事件の直後には、面白がって現場を訪れる輩が多かったみたいですし……」


 千早の問いに溜め息混じりで返す班目。ラクレスは動画の中ではっきりと、おばけマンションのある地名を口にしてしまっていた。つまり、例の動画を見て、わざわざおばけマンションの場所を探し当て、妻有郷までやってくる物好きがいるということなのであろう。


「人が死んでいるのに、どうしてそんなことができるんだろうねぇ?」


 愛がぽつりと漏らすと、一里之が「どうせ他人事だからだよ」と呟いた。残念ながら、彼の言う通りなのであろう。


「とにかく、エレベーターが止まっている以上、階段を使うしかありません。みなさんはまだお若いでしょうから、全く問題ないでしょう?」


 エレベーターホールの左手にある階段のほうへと視線を移す班目。大海の部屋まで階段を使うしかないようだ。


「いや、若いとか関係ねぇし。しかも、正義の部屋って最上階だぜ? めちゃくちゃだるいんだけど」


 文句たらたらの一里之であるが、例えエレベーターが動こうとも、千早は階段を使ってみるつもりでいた。この階段は、カネモトの遺体が発見された後、博士が一気に駆けのぼった階段である。構造的に、恐らくエレベーターと階段の位置関係は同じになるのだろうが、構造をしっかりと把握する意味でも、自分の足でのぼってみたかったのである。


「まぁ、文句を言わずにさっさと行け、若人わこうどよ」


 愛が冗談じみた感じで背中を叩くと、たまたま急所に入ってしまったのか、一里之がむせた。


「とにかく、参りましょう。大海君も自宅で待ってくれているでしょうし」


 大海に話を聞きたいし、実際に現場をしっかりと見ておきたい。ここが、いわくの生まれた場所なのだから――。そんなことを考えつつ階段のほうに向かおうとすると、愛に腕を引っ張られた。


「どうぞ、男性陣はお先に」


 そう言って班目と一里之に先を譲る愛。何の気なしに階段をのぼろうとした千早は、どうしてわざわざ一里之達を先に行かせるのか、本気で理解できなかった。それを察したのか、愛が大きく溜め息を漏らす。


「あのね、私達はスカートなの。そんな私達が先に階段をのぼれば――下から絶景が拝めると。なんというか、千早ちゃんって、そういうとこ鈍いって言うか、ガードが甘いよね」


 初めて会った時に比べて、随分と愛との距離が近くなったような気がする。愛が積極的にフレンドリーな態度を取ってくれるからなのだろうが、言葉の使い方や、お互いの立ち位置などが、店主とお客という垣根を越えつつあった。何より不意に【千早ちゃん】と呼ばれたことに戸惑った。


「すいません。ここのいわくのことで頭がいっぱいで、そんなところまで頭が回りませんでした」


 正直に答えると、愛は仕方がないといった様子でもう一度溜め息。


「あのね、千早ちゃんは自分が思ってるより可愛いから。純平の話だとガードの固さで有名らしいけど、そういう隙はね――安易に見せないの。隙を見せるのは好きな人の前だけにしときなよ」


 ひとつ歳上の先輩からのアドバイスは、ありがたく受け入れるべきである。しかし生意気ながら、そこに生じた疑問を口にしてしまう。


「もし、その対象となる方がいない場合はどうすれば? 私――その、恋愛とかあんまり得意ではないというか、興味がないというか」


 班目と一里之はさっさと行ってしまい、愛と千早のやり取りだけがエレベーターホールに響く。


「えっ? いないの? 好きな人」


 こくりと頷くと「でも、男の人と手を繋いだりとかはしたいでしょ?」と、千早にとっては答えられるギリギリのキラーパスが飛んでくる。恥ずかしながら頷いた。


「そ、それはまぁ。しかし、具体的に誰と……という話になると、対象となる方がいなくて」


 頬が紅潮し、熱を持つのが自分でも分かった。正直なところ、この手の話はとても苦手である。クラスメイトの女子の話題は8割方がそんな話ばかりで、よくも朝から放課後まで盛り上がれるものだと感心すらする。そろそろ解放して欲しいと思っていたところで、ちょうど良く上の階から助け舟が出された。


「おーい、2人とも何してんだよ?」


 一里之の言葉に顔を見合わせると「ま、まぁ。その話はまた今度にして、とりあえず行こっか」との愛の言葉で、ようやく階段へと向かうことになった。


 階段は途中で踊り場を含む構造となっており、2階に上がると1階と同じような風景が飛び込んでくる。エレベーターホールに、きっと2階の各部屋へと向かうための廊下。階段はそのまま3階へと伸びているということは、おそらく最上階まで同じ構造が続くのであろう。


 階段をのぼり、踊り場で折れ曲り、また階段をのぼってを繰り返す。思った通り、どの階も同じような構造のようだ。この時点で、千早の頭はすでに、査定のためのサンプル収集を始めていた。


 階段からはエレベーターホールが見渡せる状態。それはつまり、エレベーターホールから階段の様子を伺えたことになるだろう。それぞれが待機していたのは、おそらくエレベーターの前であろうから、仮に階段を使用した人間がいれば、誰かが気づいたはず。最上階にはマソンヌ、7階にはキー坊、そして5階にはジュンヤが待機して、1階に博士がいた。つまり、5階のジュンヤが最上階に向かおうとしても、7階のキー坊と最上階のマソンヌに気づかれてしまう。7階のキー坊が最上階に向かっても、マソンヌに気づかれてしまうだろう。よって、唯一エレベーターが停まった最上階で、誰にも気づかれずに犯行に及べたのは――あらかじめ最上階で待機していたマソンヌしかいない。


「あー、これだけの階数を階段でのぼるのって久々かもしれない。足が痛くなってきた」


 愛がぽつりと漏らすと、上のほうから「普段から運動不足なんだよ。お前は」と、一里之の声が返ってくる。千早はそのやり取りさえ、サンプルとして収集。建物の構造上、そこまで防音というのはしっかりとしていないらしい。だから、少しくらい階数を離れていても声が届いてしまう。階段の周囲がコンクリートだから、妙に声が響くような気さえする。つまり、カネモトが殺害される際に騒いだりしたら、誰かしらがそれに気づいたはずだ。しかしながら、動画を見る限りでは、それらしき様子も見られなかった。これはどう考えても不自然である。


 結局、最上階まで構造は一切変わらず。強いて挙げるのであれば、上の階へと続く階段が壁に変わったくらいであり、全体的な構造に関しては、どの階も同じで大差はなかった。


 最上階のエレベーターホールで待ってくれていた一里之達と合流し、大海の部屋へと向かう。ここまでで分かったことは、やはりカネモトを殺害するチャンスがあったのは、唯一エレベーターが停まった最上階にいたマソンヌのみということ。ただ、その際にマソンヌがカネモトを殺害したのであれば、物音のひとつも立てたはずだ。少なくとも7階にいたキー坊には物音は届いただろう。けれども、博士とのやり取りを見る限り、どうやらキー坊は何も聞いていないようなのだ。

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