第2話

 


 通された部屋の床の間の花器には、桔梗ききょうが生けてあった。会費や句会の規約等の概要を聞かされた後、山根は会員簿に署名した。仕事柄、予定通りに来られないことを告げると、女は快く承諾した。


「お名前を教えてください」


 山根が訊いた。


「広田キョウコです。キョウはアンズの杏です。雅号は〈山野撫子やまのなでしこ〉です。いかにも、って名前でしょ?ふふふ……あ」


 と、思い出したように、杏子は傍らにあった自分の句集を手にすると、


「よろしかったら、どうぞ」


 と、山根に差し出した。


「いただいていいんですか」


 遠慮がちに言った。


「ええ。どうぞ」


 杏子が微笑んだ。




 バツイチの山根は男鰥夫おとこやもめになんとか、の汚い部屋に帰ると、杏子の句集を開いた。




 手に掬ふ 乳房の如き 牡丹かな


 来ぬ人を 待てば散りたる 薔薇の花


 初雪や 人肌呑みて 頬を染む


 緋牡丹に 気付きし月や 妬きをりぬ


 名刹に 湯文字の如き 紅葉かな


 手のひらに 源氏蛍を 遊ばせし


 漁り火を 宿から眺む 白牡丹


 花冷えや ただ逢ひたくて 逢ひたくて


 雨垂や 窓辺に馨る フリージア


 乱れ髪 鏡の月が 見てをりぬ


 ――




 そこには、あだっぽい情景が克明に詠まれていた。山根も一句、詠むことにした。



 翌日の午後、手隙てすきになった山根は杏子に会いに行った。


「なかなか、色っぽい句ですね」


 山根が句集のことを言った。


「恥ずかしいわ」


 恥じらうように杏子が顔を伏せた。


「僕も一句、詠んでみました」


「あら、ぜひ、お聞きしたいわ」


 杏子が興味を示した。


「いいですか?」


 山根は軽く咳払いをすると能率手帳を出した。


「物証を 消してしまひし 台風過」


 と、詠んで直ぐに、杏子を視た。


「うーん……。いかにも刑事さんの句ね。少し堅いわ」


 杏子は涼しい顔で、そう言い放った。


「……はぁ」


 強盗事件に関わっているか否かを確認するために、故意にこの句を詠んでみた山根だったが、目論見もくろみは外れたようだ。


「そうね。例えば……」


 杏子は半紙と筆ペンを手にすると、何やら呟きながら、すらすらと書き始めた。


 その杏子の白いうなじのほつれ毛がやけになまめかしかった。


「いかがかしら」


 杏子が、書いたものを見せた。そこには、〈恋までも 奪ひ去りたる 台風禍〉と、あった。


「……なるほど、綺麗な句になりましたね」


「俳句は、外見だけではなく、内面も詠んでみるといいですよ」


 杏子が小学校の先生みたいな物の言い方をした。


「はぁ……」


 そこに、井川から連絡のポケベルが鳴った。



 句の書かれた半紙を杏子から貰うと、山根は現地に急いだ。


 最近、羽振りが良いという、森崎から金を借りている小柄な男を追及したが、競馬で儲けたことが判明した。



 山根が、杏子の書いた半紙を眺めていると、ハンドルを握っている井川が、


「……なんですか?」


 と、声を掛けた。


「うむ……。俳句の先生が書いた句だ」


「えっ、見せてくださいよ」


「危ないよ、ちゃんと運転しろ」


 井川は山根の言うことを聞かず、車を停めた。


「どれどれ」


 井川は山根からそれを奪うと、


「コイマデモ、ウバヒサリタル、タイフウ、……なんとか」


 と、詠んだので、山根が笑った。


「なんとかじゃなくて、カ、って読むんだよ。タイフウカ」


「へぇー。……でも、達筆ですね」


つくづくと、井川が言った。


「ああ、確かに」


 山根も同感だった。


「俺も、俳句を習おうかな」


「お前なら、やっても川柳どまりだな」


 山根が馬鹿にした。


「……どう、違うんですか?」


 井川が真面目な顔で尋ねた。


「ハッハッハ……。こりゃ、駄目だ」



 次の日の夕方、仕事を終えた山根は杏子の家を訪ねた。食事の支度でもしていたのか、割烹着かっぽうぎを付けていた。


「すいません、こんな時間に」


 山根が恐縮した。


「そう言う約束ですから、構いませんよ。どうぞ」


 杏子はいつもの会員用の部屋に山根を案内すると、花瓶に生けた百合を席題にし、半紙と筆ペンを置いて出て行った。


 開いた雪見障子の縁側から、涼しい風が廊下に吹き抜け、隅にある蚊取り線香の煙がその風に揺らいでいた。山根は、壁にぶら下がったハンガーに、麻の上着を掛けると、机の前に正座した。


 山根は俳句など、どうでもよかった。杏子に興味があって入会したまでだ。


 ……参ったな。


 ない頭をひねって、やっと、三句ほど詠んだ。

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