木が見たい小僧

洞田太郎

木が見たい小僧

小僧はぱちりと目を開けると、だらんと原っぱの上に放り出されている自らの身体から上半身だけをゆっくりと起こし、もう二度三度目をぱちくりさせ、ようやく景色に目を向けた。まず目に入ったのは変わった形の木。地面からぬっと生えた寸胴のような胴体の上にこんもりとした緑が茂っている。不格好で醜いが、それがかえって可愛くもあり、不思議な色気を感じる。しかもそれが数本どころではない。うねる大河のほとりにその木が延々と植えられている。それは確かに、誰か神経質な人が植えたとしか思えない精密さで、適度な間隔を保って大水の流れの両脇に植えられている。小僧はなんだか怖くなって、地面に手をつき立ち上がろうとした。そこで、今自分がいるところが小高い丘のような場所だと気が付いた。その小高い丘からは遠くの景色がよく見える。さっき小僧が畏れを抱いた木の一団は、おそらく歩きで一時間ほど先の場所であった。一体どれだけ大きい木なのだろう、と小僧は訝しんだ。もし近くで見たら腰を抜かすだろう、と思った。

小僧は丘を下り始めた。一時間ならすぐ着く距離だ。丘を降りると草原が広がっていて、小僧はここで一日中寝転がっていたいような気がしたが、さっき見た大樹の群れを思い出して先に進むことにした。草原はどこまでも続き、あれほど大きかった河は木々の裏に隠れて見えなくなった。遥か遠くに大樹たちが津波のようにそびえ立っている。その大波の麓へとまっすぐに小僧は歩いていく。その足取りはライオンのようにしなやかで、進むごとに額に滲む汗は、カルガモの羽に浮かぶ水滴のように軽やかに見えた。

もう大樹まで半分ほど来たかというところで、優しい目をしたリスと出会った。小僧は、いつも木の上を駆け回っているリスが、どうして地面を歩いているんだろうかと不思議に思った。リスが口を開いた。

「言いたいことがあるなら言ったらいいよ」

小僧は驚いて答えた。

「あんた、話せるの」

「ああ、喋れる。それより何か言いたそうな顔をしてたじゃないか。なんだい、言ってごらん」

「いや、ね、なんていうかな、その…」

「はっきりしなよ、もう行くよ」

「待って!…なんで地面を歩いてるのさ、あんた木の上の方が好きなんじゃないの」

「なんでもなにもない、本当はわたしだって木の上を行きたいさ、それが叶わないからしょうがなく歩いてんだ」

「なんで叶わないんだ」

「あんた目ん玉付いてんだろ、どこに木があるってんだよ、ここは一面の草っ原じゃないか」

「いや、だから、なんで木から離れてこんなところ歩いてるんだって聞いてるんだ」

「わたしは気づいたらこの原っぱにいたんだ、全部のリスがずっと木の上にいられると思うんじゃないよ。じゃあ聞くが人間の中にどうして家の外に住んでる人がいるんだい、どうして働かない人がいるんだい、どうして褒められない人や大事にされない人がいるんだい」

「それはしょうがないことじゃないか、誰だって事情がある。おれだって人から大事にされたことなんて数えるほどしかないけど、それはそういうものなんだ、おれにはどうしようもないことなんだ」

「そうさ、そういうことさ。わたしはしょうがなく地面を歩くリス、あんたはなぜか大事にされない小僧さん、ただそれだけのことさ」

「そういうものかな」

「そういうものさ」

リスと話すうちに、小僧はリスが地面を歩いていることは全く気にならなくなっていた。

「しかし、よく人間のことを知ってるね」

「あんたらがこっちに見向きもしないだけで、わたしらは結構見てんだよ、わたしほど見てるのも稀かもしれんがね。ところで小僧さん、あんた一体どこ行くんだい」

「おれはこれから木を見に行くんだ」

リスの表情がパッと明るくなる。

「へぇ、木かい、そりゃいいなぁ、わたしも連れてっておくれよ」

「構わないよ、こっからまだ結構歩くから、俺の肩に乗りなよ」

「お、ありがたい。お言葉に甘えるとしよう」

リスは地面を蹴って飛び上がり、四つ脚を開いて小僧の腰骨あたりに飛び付くと、木の幹を駆け上がる要領で小僧の背中をよじ登り、左の肩にちょこんと座り込んだ。

再び小僧は歩き出した。草原が延々と続く。爽やかな風が吹いて見渡す限りは緑の波。遠くに立つ寸胴の木は少し距離を縮め、広い広い空には雲一つなく、ただただ突き抜けるような青。小僧は本当に気分がいい。こんなに晴れやかな気持ちになったのは初めてな気がする。

「なんだ、小屋があるよ」

リスの見つめる方向を見ると、確かに小さな水車小屋が一軒、小川のほとりにぽつんとある。近づいてみると板塀が所々腐って剥がれ落ちており、入口も戸がなくなっている。

「ごめんください」

返事はない。

「誰かいますか」

小僧の声が響くばかり。中を覗いてみると、トタン屋根に穴が開いているのか、薄暗い中に幾筋かの自然光が差しており、そのうちの一つに照らされて木製の簡素なテーブルがぽつんとあった。失礼します、と誰もいない部屋に断りを入れながら中へ足を踏み込む。じゃり、じゃり、と足裏と砂の擦れる音がする。テーブルに近づいてみるとノートが一冊置いてあり、表に

「読みたければどうぞ」

と綺麗な字で書いてある。その字をじっ、と見つめていたが、やがて意を決して表紙の端に手をかける。失礼します、と心の中で断りを入れる。



「なぁ、小僧さん、教えてくれよ、なにが書いてあったんだよ」

リスが小僧の首にしがみついている。小僧は小屋の外の壁に座り込んで空を眺めている。

「木を見に行くんじゃなかったのかい、もう長い間こうやって座り込んでいるけどさ、ここにいたって何にもならないじゃないか、早く行こうよ」

「でもなぁ、なんだかなぁ」

「なんだいなんだいその腑抜けた返事は、あんたが来てくれないと、わたしは草の中じゃあどこへ向いて歩いて行きゃいいのかてんで検討がつかないんだ、木のところへさえ連れて行ってくれりゃ、そのあとはあんたは自由に好きなところに行けばいいんだ、もちろんここへ戻ったっていい、そうだろう?」

「さて、それが問題なんだよ、俺はあの木のところへ行く気がなくなっちゃった」

リスが驚いて聞き返す。

「なんで行きたくないのさ、あの本になんか書いてたのかい」

「そうなんだ、あんなもの見なければよかったなぁ、気味が悪いや」

「いったい何が書いてあったんだい」

小僧は俯いて数秒目を瞑ると、顔を上げて言った。

「あれは天神様のものだ」

「テンジンさまってのはなんだい」

「この世の全部のお父さんだよ」

「へえ、そんなやつがいるのか。で、なんでそいつのものだってわかるんだい」

「うん…、それがさ、おれがさっき丘の上で目覚めてから木を見つけて歩き出して、あんたと出会ってここに来るまで、全てのことが事細かにあの本の中に書いてあったんだ」

「なんだって?!」

「それで最後にこう書いてあった。『あなた方はあの木々のところへ行くのでしょう。お二人の行きたいところへは、どうぞどこへでもお行きなさい。しかし一つ忠告しておきます。そこであなた方は…』」

「なんだよその先は」

「いや、ここで終わりなんだ」

「おいおい、なんだよそれ、あんたおちょくられてるじゃないか」

「おちょくられてる?」

「そうだよ、だって考えてもみろ、わたしたちのことを見てるやつがそこまで色々書いたのは遊びとしてはいいさ、でもその先のことを匂わせておいて書かないなんて、わたしらの反応を見て今も楽しんでるんだろう?そんなの癪じゃないか」

「いや、なんかあんたは間違ってる。だってこれまで僕らを見ていた人なんていなかったじゃないか」

「そりゃ"人"はいなかったさ、でもやつらは見てただろ」

「やつらって?誰のことだよ?」

「視線を感じなかったのか?いつもわたしらのことを気にしていないようで気にして見ていたじゃないか、やつらが」

「だから、そのやつらって誰だよ」

「自然だよ」

「自然?」

ぽかんとして小僧は聞き返す。

「そうさ、さっき突っ切ってきた草っ原、あの草ひとつひとつがわたしらのことをずっと見てた。途中で吹いた爽やかな風、あたしらのことを撫でながら、じっ、とあんたの顔を見てた。あんたが歩いてきた道、その一歩一歩踏みしめた地面の土だってあんたのことを忘れない。その自然がずっとわたしらのことを見てたんだ、そしてこうやって今わたしらに悪戯してんのさ」

小僧はうまく理解できないでいた。草が、風が、土が小僧を見ていると思ったことなどこれまで一度もなかった。

「だからまあ、あたしたちは木を見に行こうじゃないか、あんたは木が見たいんだろ?」

小僧は座ったまま俯いて思案した後、リスを横目で見て小さく頷き、立ち上がった。尻の辺りについた砂をポンポンとはたき、ボロボロの袖を肘の上まで捲った。



それから一時間ほど後、二人は小屋を後にした。二人が出て行った後の小屋の中、テーブルのすぐ横の壁の一番高いところに、木の板が新しく一枚水平に据えられていた。そこには小僧が拵えた小さな小屋がちょこんと真ん中にあり、よく水で洗った草が一握り供えてあった。

テーブルの上ではノートの真白い紙が、ぱらぱら、ぱらぱら、と静かに風に舞っていた。

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木が見たい小僧 洞田太郎 @tomomasa77

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