語り継がれるお話 2

赤川ココ

第1話

 それは、突然起こった変化だった。

 ただ、漠然と過ぎる生活が、突如騒々しい空気に変わり、周囲の大人たちが混乱して動き回り、それに幼い者たちは翻弄されている。

 十八になった瑪瑙めのうは、他の年下の子供たちを背に、混乱した大人たちに、踏み殺されないよう気を配りながら、彼らが落ち着くのを、待っているしかない。

 瑪瑙のすぐそばには、青ざめた一つ年下の娘、多恵たえが立ち尽くしている。

 小柄なその体を守るように立ち、大柄な瑪瑙は、何が起きているのかを見極めようとしていた。

 混乱は、同志討ちまでさせるほどなのか、血の匂いが漂い始めている。

「まずいな。誰かが、狂ったようだ」

 背後の声に軽く頷くが、振り向くまではしない。

 その声が、ただ言っただけの声音に、聞こえたせいだ。

 誰の声かも、分かっているから、相手にもしたくなかった。

「そうなったら、多恵も、守り切れなくなるな、瑪瑙」

「黙れ」

「ここにいる子供たちも、餌食になってしまうぞ。守れるのは、お前だけだっていうのに、そんな小娘一人の為に、行きつく先を、誤ってもいいのか?」

 胸をえぐる言葉に、歯ぎしりする男の腕にすがり、多恵は顔を伏せている。

 そんな娘を見下ろし、瑪瑙もすがる腕を、優しく攫んだ。

 名前もなかった自分に、邪な目から守る名をつけてくれ、その名に沿う者となることを望んだ。

 それを悔やむことにだけは、したくない。

 だが、それを望んでいては、多恵を守れないのは、事実だった。

 瑪瑙が、この山に連れてこられたのは、十年前だ。

 今は後ろに隠れている男が、とある村から、連れ去ってきた子供だった。

 母親は、自分のせいで村八分の的となっていたから、今は忘れているかもしれないが、あの時は狂ったように、探してくれていたらしい。

 だから、早く山を出るために、大きく強くなりたいがために、大人と背後の男の命を忠実に守って、遠くの村から、人をかどわかしては、大人たちに与え続けていた。

 山から出られなくなり、騙されていたことに気付いた頃、多恵が、自分の代わりになった子供に、連れてこられた。

 自分のような鬼の類ではなく、それを倒せる力を秘めた、清楚な娘だった。

 この娘を喰らえば、ここの誰よりも強くなれ、山からも楽に抜け出せると耳打ちされ、投げやりな気持ちで、多恵と顔を合わせたのだが、小さい体で真っすぐ自分を見つめる目が、身をすくませた。

 今まで、感じた事のない胸の疼きが、自由の為に娘の命を奪う事を、躊躇わせていた。

 徐々に打ち解けてきた二人は、この山を無事に出られる日を夢見ていた。

 多恵だけならば、この山を楽に出ることが、できたはずだった。

 それをせず、自分の傍にいることを選んでくれたというのに、それがまた、娘の命を危うくさせている。

「……大丈夫。私は、大丈夫だから」

 腕にすがりながら、多恵は呟くように言い続けているが、その声は震えている。

 血の匂いが充満する中、大きな影が、前に立ちふさがった。

 大人の一人が、子供たちが隠れる岩陰に、気付いたのだ。

「こんなところに、隠れていたのかっ」

 息を切らし、血走る目を子供たちに走らせると、瑪瑙の傍に立つ、多恵を見据えた。

 身を縮める娘を見つめる目は、狂気をはらんでいるようには、見えない。

 寧ろ、恐怖が体中を覆っている。

「そうだ、こいつだ、こいつを喰らえば、あんな奴……」

 恐怖で、目の焦点がおかしい大男が、軽々と娘を地面から引きはがし、同じくらいの体格の瑪瑙が飛び掛かるのを、あっさりと振り払った。

「やめてくれっっ」

 悲鳴を上げる娘が、自分のなすすべもなく、男の餌食となる、そんな絵を見たくなくて、思わず顔を伏せ、それでも思わず洩れた声に、無感情な声が答えた。

「……もう少し、足掻いて見たらどうだ? やめて欲しいのなら、動けるなら」

 次いで、地面に、何か重いものが落ちる音の後、伏せた瑪瑙の傍に、すがって来る誰かがいた。

 恐る恐る顔を上げた男に、多恵が、泣きそうな顔で頷く。

 感情に任せて、抱きしめた後、そのまま顔を、声の方へと向けた。

 大男が、娘を捕えていた姿勢のまま、立ち尽くしていた。

 大きく開けた、口の中の鋭い歯が、何人もの人間を、生きたまま餌としていた事を、物語っている。

 その口に、腕が咥えられていた。

 娘の腕ではないその腕は、意図をもって、口の中にあった。

 大男の顔は上向きに反り、顎が外れそうな勢いで、その反らさせる力に抗っている。

 咥えられた腕は、後ろから生えている。

 その腕の手首を、同じような手が伸びて攫んで、小柄な体の重みで、大男の体を反らせているようだ。

「よいしょっと」

 無感情な声が、小さく掛け声をかけると、次いで耳障りな音が、呆然とする子供たちの耳に届いた。

 それまで、抗っていた大男が、悲鳴を上げて、後ろに倒れこんだ。

 苦痛で、叫び続ける男の傍で、ようやく、声の主の姿が見える。

 小柄な、若者だった。

 多恵よりも、小さいかもしれない。

 娘と見まごうほど、綺麗な顔立ちと、透き通るような肌が、子供たちの息すらも呑ませた。

 侍の旅装束姿の若者は、傘を少し持ち上げて、叫び続ける大男を見下ろすと、無感情に足を上げた。

 振り下ろすその足下には、泣き叫ぶ男の、首がある。

 嫌な音が、再び響いた。

 さっきの音と同じ音で、それが骨を折る音だと分かったが、それに何かを思う余裕は無い。

 若者が、振り返ったのだ。

 よく見ると、着ている物には、所々血がついている。

 本人が、怪我をしているようには見えないから、これは返り血だ。

「……本当に、小さいのも、いるんだな」

 眠そうながら、声は無感情に響く。

 多恵を抱きしめて、庇う瑪瑙には目を向けず、若者はその後ろの子供たちの方へと、足を向けた。

 身を竦めて、若者を見上げる子供は、七人だ。

「……」

 目を見開く、瑪瑙の目線の先で、若者も目を細めた。

 周囲に目をめぐらし、小さく溜息をつく。

「……まだ、動くのか。面倒臭いな」

 呟いてから、若者は瑪瑙を見た。

 その瞳が、妙に黒々として見え、どきりとする男に、無感情に言った。

「そこの子供たちと、山を下りて、坊さんの所に行け」

 意外な言葉に、目を見開く男に、若者は、言い訳じみた言葉を続けた。

「私よりも若い子供は、どんな奴でも助けろって、約束させられたんだ。それ以前に、あんたやその娘は、私の獲物じゃ、なさそうだ」

 言いながらも、何かを探して、目を周囲に巡らせている。

「あんたらの他は、もういないから、邪魔する奴は、いないはずだ」

「しかし、もう一人……」

「今、探してる。見つけ次第、片は付けるから」

「……」

「最後は、情けなかったけど、よくここまで、辛抱したな」

 自分よりも幼いはずの若者が、瑪瑙と多恵に、微笑んだ。

 それから踵を返し、走り出そうとするが、それはかなわなかった。

 今まで、身を竦めていた子供たちが、五人動いたのだ。

 一斉に、若者の体にしがみつき、動きを封じてしまう。

「……」

 目を細めて、ある方向に目を向け、しがみつく子供たちを、見下ろす。

 息を吐いて、再び見下ろしたその目が、大男の時と同じなのを見て、多恵が思わず声をかけた。

「いけませんっ。無闇な殺生はっ」

「無闇じゃないだろ。これだけ、あのキツネが離れているのに、変わりがないと言う事は、術の類での動きじゃない。野放しにできない所にまで、成長しているってことだ」

「それでも、まだ子供ですっ。あのモノは、いずれまた、違う時に出会うことも、あるはずでございます。今は、この子たちに免じて…」

「……三日もかけたのに、諸悪を見逃せって、言うのかっ?」

 多恵にではなく、自分に向けての嘆きに聞こえる返しに、瑪瑙は呆然と呟いた。

「三日前から、山の奴らを、こういう風に?」

 眠そうな訳は、これらしい。

 しかも、他の気配はない所を見ると、この若者がたった一人で、やっていたようだ。

「有難うございました」

 多恵が立ち上がって、子供たちを若者から引きはがした後、地面に正座して三つ指をついた。

 時々、育ちの良さを見せるその振る舞いにも、若者は、何も感じないようだった。

「……兎に角、山を下りよう」

 若干げっそりとした顔で、若者は声をかけ、その場の全員は、無事に山を下りることとなった。


 古谷ふるやの御坊、と呼ばれた僧は、しきりに、首を振って感心している。

「お前さんは、知り合いにも、幅があるのだなあ」

 しみじみと言われ、りつは曖昧に頷きつつも、内心は呆れていた。

 古谷の御坊、と呼ばれていたこの男と、顔を合わせたのは、二十年は前だったと思う。

 当時は、二十代の前半ながらも、強力な法力僧として、上方の妖怪たちに恐れられており、本人も、周囲の声に驕りを見せていただろう、と思うほどには、若かった。

 今は、長い間山の主たちを封じ込める事に力を使い、四十代とは思えないほどに、げっそりとやつれてしまっていた。

 それが、術比べを迫られた律の、苦し紛れな言い分を聞いたせいだと思うと、少し後ろめたいのだった。

 この地の、この山に巣食ってしまった、質の悪い妖しの群れを、見事に退治したらお相手する、そう言った律の約束を真に受けて、男はこの地に向かい、それっきりになっていた。

 そんな、苦し紛れな約束をしたのは、律が力の加減に自信を無くすほどに、この僧が、人間ながらに強い、と感じた為だった。

 だから、戻ってこないのは、山のモノたちに、手こずっているわけではないと考え、島国の南に位置する、この地へと足を運んで来ると、男は、村の山に近い場所にいた。

 ただいたのではなく、ずっと休むことなく術を唱え続けて、二十年間、殆ど動かない生活をしていたのだった。

 村の者から話を聞き、僧に会いに行くと、男はやつれた顔で、嬉しそうに笑った。

 どうやら、思った以上に、怪しの者が多く巣食っていて、一人ではどうにもならず、周囲の法力僧に声をかけて、山の中に封じ込めるだけで、精一杯だったらしい。

「後は、この山から出ないようにしてさえいれば、いずれは、力も弱まるだろうと、思っていたのだが…」

 苦笑して、山頂を仰ぎ、男は言った。

「どういう訳か、弱まるどころか、数が増えているようだ」

「……あなたの方は、このままだと、寿命も早く尽きる」

「だろうな。そして、私の骸を餌にした後、こ奴らは、村で暴れだすだろう。私の負けだな。お前さんとの術比べ、楽しみだったんだが…」

 残念そうに言う僧侶に、律は切り出した。

「元々は、私がやるべきだったことです。この件は、私が、引き継ぎましょう」

「そうたやすくいくとも、思えんが。こ奴らと、長く対峙しているから分かるが…お前さん、人を喰らったことがないな? 殺めたことも?」

「ええ」

「どうやって、こ奴らを滅するのだ? 私のように、どこかに閉じ込め続けるしか、術はないのではないのか?」

「おっしゃるとおりだ」

 律も、山の頂を見上げながら、頷いた。

「だが、それも、綻びがあるようですね。考えたくない事ですが、もしかすると、キツネが、絡んでいるかもしれません」

「お前さん以外の、キツネ、か?」

「私以外にも、キツネは多くいます。人間と、馴染んで生きる者も、人間を、餌としか見ない者も」

「…………」

「結界は、強いモノを、たやすく封じ込めることができます」

 特に、古谷が他の僧と共に張ったものは、より強力なもののはずだ。

「強いモノの為のそれは、裏を返せば、その力に達していない者を、素通りさせてしまうことも、あります」

「……とんでもない、綻びであったのだな」

「ただ、封じられたモノたちが、それに気づくとも思えない。気づいたとしても、どうしようもないはずだ」

 他に、自由に動ける、おつむりの出来のいい誰かが、手引きしない限りは、力を維持することは、出来ない。

 ましてや、仲間を増やすことなど、出来るはずはないのだ。

「悪い知らせですが、私は、この中のモノたちを、生け捕りにすることは、出来ません。数が多すぎます」

「だろうなあ」

「かと言って、放って置くのも、後味が悪い」

「そうなのだ。だから、ついつい、私も、居ついてしまったのだ」

 その意に感謝してくれた村人が、住まいを作ってくれ、衣食の心配は、全くないのだと笑う男に、律は言った。

「奥の手を、使います」

「奥の手? お前さん、そんなものが、まだあったのか。二十年前と、変わらぬ姿で現れただけでなく、まだ?」

「こんなもの、奥の手とは言いません。実は、心当たりがあります。こういう者たちを、一人残らず、顔色も変えずに、滅することができる者に」

 言いながら思い浮かべた顔は、その心当たりの顔ではない。

「その人を、呼んでみます。来るまでは、暫く辛抱ください」

 一度、僧と別れて、呼び出そうとした人物は、すぐに答えたのだが、その返事は、予想外のものだった。

「私はすでに、あそこを離れた。そういう事は、今、頭をやっている者に、頼め」

 すぐに、律の前に現れた男がそう断り、呆れ果てる相手に、大真面目に言った。

「その子とは、オキを間に挟めば、すぐに連絡がつくはずだ。良かったな」

「………」

 そのオキに、こんな事情を知られたくないと、男に直に話を振ったのだが、その気持ちを察している男は、真面目な顔で言った。

「久しぶりに会ってみるのも、いいだろう。私もあそこを去ってから、顔を合わせてはいないが、私よりもお前と会う方が、あいつも嬉しかろう」

 男の茶化した言葉を、受けたわけではないが、律はそのオキを介して、男が元々牛耳ていた集団の、頭領を呼び寄せることができた。

 しかし。

 長崎の出島の方から、小舟に乗ってやってきた、その頭領を見て、目を疑った。

 小舟の櫂を操る、長身の優しい顔立ちの男が岸に舟をつけて、岸辺から手を差し伸べて引き上げた人物は、その男より、頭三つ分は小さい人物だった。

 小さいだけでなく、若い。

 男と同じ侍の旅装束姿だが、小柄な上に色白で、綺麗な顔立ちの容姿は、男装した幼い娘にしか見えない。

 容姿だけなら、何も疑うことはないのだが、律の目を見張らせたのは、その匂いだった。

 いくら子供とはいえ、男の子供ならば性別がはっきりと分かるのに、この人物の匂いは、多くの人間の中に紛れたら、すぐに分からなくなる程に、薄かった。

 傘を被ったまま、頭を下げた二人の足下から、黒猫が歩み寄り律を見上げた。

 思わず顔を緩ませる相手に、小柄な人物が声をかける。

「初めてお目にかかります。あなたの話は、オキからもよく耳にしています」

 驚いた律に頷いてから、優しい顔立ちの男が切り出した。

「急ぎの話だと聞きました。早速、お話を伺えますか?」

「あ、ああ。お疲れだろうが、そうしてもらえれば、助かる」

 我に返って、先に立って歩き出し、古谷がいる小屋の中へと招き入れると、これまでの経緯を話した。

 村人も聞き耳を立てる中、話を聞き終えた小柄な若者は、静かに頷いた。

「キツネが、背後で、操っているかもしれない、と?」

「言い切ることは出来ないが、その位、頭が切れる者が、連中に入れ知恵しているとも、考えられると思う」

「なるほど。では、私は、山に巣食う者たちと一緒に、その背後にいる者も、滅すればいいんですね?」

「……出来れば、だが」

 容姿の幼さで、それを頼んでいいものかと、躊躇っていた律に、若者は頷いた。

「出来ると思います。私もこの体なので、少し、日にちがかかるでしょうが」

「本当か?」

「ただ、一つだけ。この山に張られている結界。破られないように、見ていてもらえませんか? 結構大きな山なので、外に逃げられては、追うことも難しい」

「分かった」

 頷いた律の前で、若者はすぐに立ち上がった。

「じゃあ、行ってくる」

 そばの男に、無感情に声をかけて歩き出すのを見て、律も慌てて後を追った。

 優し気な男もその後を追い、若者が古谷の傍に近づくころに、追いついた。

 そこで振り返った若者が、再び律に声をかけた。

「どの位の数が、ここにいるのか、分かりませんか?」

「そうだな……年端のいかない子供を、含めると……」

 数を予想して告げると、若者は再び頷いたが、そばに寄った男が、顔を曇らせた。

「セイ、子供は出来るだけ、傷つけてやるな」

「……子供って、あんたがどの位までを、子供と見てるのか、分からないと出来ない」

「お前より年下なら、子供だと思ってもいい」

「大雑把だな」

 言いながら若者は、古谷に小さく断りを入れ、結界に手を伸ばした。

 思わず出かかった、引き留める言葉は、途中で止まった。

 そっと結界を、つついていたと思ったら、自分が入れるくらいの穴をめくり、するりと、その中に体を滑り込ませた。

 あんぐりとする古谷と律の前で、若者は元通りに結界を繕い、山の中へと、姿を消してしまった。

 そして、三日後の昨夜、若者は血まみれの着物で、眠そうに姿を現した。

 その背後に子供七人と、十代後半の男女を引き連れて。

「困ったものだな。未だに眠っている方を、拝みに来る者が、絶えない」

 神か仏の化身と、崇めているようで、襖の奥で眠っているその若者を、一目見ようとする村人の姿は、昨夜から途切れない。

 僧侶が寝起きしていた座敷で、武士装束を解いて、傘を脱いだ若者は、山の中の事を短く話して、眠りについたのだが、その姿を見て古谷は目を見張った。

 色が薄いのは、肌の色だけではなかった。

 真っすぐ、腰まで伸びたその髪も薄い黄金色で、行燈の火の光を吸い取るように、輝いていた。

「南蛮の者は、あの色合いだと耳にしたことがある。しかし……」

 上方の方や、それこそ、南蛮の国との貿易を許されている、長崎の方ならば、まだましだろうが、この地では見慣れぬ色合いで、これでは、下手に寝姿も拝ませるわけには、いかない。

 だから、襖を閉めてその姿を隠し、その傍で旧知の狐と共に、しんみりとしているのだが、その狐は、先の言葉で苦笑したままだ。

「驚いたのは、こちらも同じです。まさか本当に、殆んどの者を滅してこようとは、思いもしませんでした」

「出来る御仁だと、そう申していたのは、お前ではなかったか?」

「実は、その方には、断られてしまいました」

 そう答えた律は、正直に話せるところまで、僧侶に話した。

「その方が推した人物が、あの方だったのか」

「はい。まさか、あそこまで若いとは、思いませんでしたし、ここまでしてくれるとも、思っておりませんでした」

 それなのに、若者は帰ってきて、すぐに謝った。

 諸悪の狐を、見逃してしまったと、少し、落ち込んでいるようでもあった。

 その理由は、一緒に山を下りてきた娘が話してくれたが、その狐一人の力では、村に悪さは出来ない、そう断じてもよさそうで、そいつの事は、次に出会った時に考えることにする。

「娘の方は、お主に頼んでもいいだろうか? 他の子供たちの処遇は、昔なじみの者に声をかけて、引き取ってもらえるようにする」

「いいえ。あの娘は、私たちといてはならぬ者です。他の子供たちの方を、私が引き受けましょう」

 今は、この僧侶より、自分の方が顔は広い。

 そう言う律に、古谷は眉を寄せた。

「あのような小娘を、私がどう育てられるというのだ? せいぜい、悪い虫から身を守る術を、教えるくらいしか出来ぬぞ」

「それだけ教えられれば、上等です。その間に、娘の方も己の道を、見つける事でしょう」

 自分のいる所は、それこそ鬼や妖しの者が住む、人間には危ない所だ。

 そんなところに、徳の高い娘を、連れて戻ることは出来ない。

 僧侶はそう言われても、まだ得心のいかない顔だったが、やがて頷いてから、改めて律を見た。

「ところで、そなたの用は、本当にこれか?」

「根本は違いますが、これをどうにかせねば、言い遣った用件を話すのは、危ないと判断致しました」

 老いても鋭い僧侶に苦笑し、律は本当の用向きを、口にした。

「あなたに、お知らせしたいことがありました。あなたの、お師匠の事です」

「……亡くなられたか」

「はい」

 僧侶は溜息を吐き、呟いた。

「二十年も経てば、流石の師匠も、お年を召されてしまっていただろうからな」

「……言葉の使い方が、おかしくはありませんか?」

 咎めつつも、これは仕方ないと、律は思ってしまう。

 二十代で、力に溺れかかっていたこの僧を、平気で叱り飛ばしていた師匠は、元々江戸に政が移る前の、戦乱の世を生き抜いた武将だった。

 裏で暗躍していた、律の知り合いを見つけ出し、その企みをとどまらせた人物でもある。

「実はな、お前さんが来る数日前に、師匠に永く仕えていた者が、訪ねてきたのだ。その時は、危篤だ、と言う話だったのだが……」

 僧侶は、少し前の使者の様子を、思い出していた。

 元服前の若い男だったが、二十年前と変わらぬその姿に、師匠も変わっていないと、思い込みそうになっていた矢先の、知らせだった。

 帰れそうにないと告げると、若者は頷いて去って行った。

「それを聞いた、あの方のお弟子の一人が、私を訪ねてきました」

 その弟子の僧侶も、かなりの年配だったが、師匠の死で一層やつれていた。

「ああ、それは済まぬ。事の次第を、あの者に話してしまったのだ。散々からかわれたので、兄弟子にも、伝わる気はしていた」

 苦笑する僧侶に、律は顔を顰めつつ返す。

「どういう、話し方をしたのですか」

 師匠よりは年下だったが、ある有名な、武将の側近だったというその僧は、老いてはいるものの、整った顔に人の悪い笑顔を浮かべて、律にやんわりと、お願いをしてきた。

「まるで私が、貴方を色香で騙して、ここに縛りつけたかのような、言い方でした」

「ああ……本当に、申し訳ない」

 勘の鋭いあの若者や兄弟子が、自分の恋心を察していると、分かっているだけに、僧侶は悪者にされてしまっている狐に、謝る事しかできない。

「貴方ほど色がない狐は、他にはいないのだが……」

 それは分かっているはずの兄弟子は、その律を通して、自分をからかっている。

 回りくどいが、あの人らしい。

 小さく笑いながら律を見やると、その膝に乗っていた黒猫と、目が合った。

「?」

 睨まれた気がした。

「……兎に角、お知らせする事が出来て、良かった」

 微笑んで言いながら、律は膝の上の猫の頭に手を置く。

 優しく撫でて、宥めているように見える。

 それを見守りながら、古谷は何故か、失恋を自覚してしまった。


 その僧侶に会ったのは、人間たちが西と東に分かれ、天下分け目と、後世に伝わる戦が始まる直前だった。

「僧侶としてお会いしたのは、その時が初めてだったんですが、見覚えのある顔でした」

 律は、目覚めた若者を、盛大に称える準備のために、立ち上がった古谷を見送ってから、言い訳のように語り出した。

 相手は、膝の上に寝そべる黒猫だ。

 この国では珍しい、毛の長いその猫の背を撫でながら、狐はゆっくりと大昔の話を始めた。

「……あの坊主は、そんなに年寄りじゃないようだが?」

 人間には、聞こえないであろうその言葉に、律は言葉を詰まらせてから、答える。

「……あの人の、師匠の僧侶の方が、曲者だったんです」

 とある武将を主君とした、真面目な武将。

 その武将は、主君に謀反を起こし、すぐに盟友だった武将に、討たれた筈の者だった。

「ご存知の通り、蘇芳すおうは人間の肩書を、喉から手が出るほどに欲しがっていました」

 蘇芳とは、昔なじみの狐の事だ。

 律とは血縁関係にないが、律の師匠に当たる男が添った狐と、蘇芳が姉妹で、その縁でつかず離れずの間柄になっていた。

 その時蘇芳は、人間の姓を欲していた。

 しかも、出来れば優雅な暮らしのできる身分の、人間の姓を。

「大陸より渡って来た狐の失敗を見て、帝程の位は避けたいと、考えていたようで、他の貴族の姓を狙っていました」

 そんな時、天下を統一しそうな武将が、現れたのだ。

「その武将は、貴族や帝の地位を、霞ませそうな威光を放っていて、大昔から君臨していた帝に、とって代わりそうな勢いの方でした」

 その勢いに脅威を抱いた蘇芳は、その武将の、大して目立たぬ配下を篭絡して、武将を討たせた。

 そして、多少の狂いはあったものの、その策略は成功したのだ。

 だが、その武将はこの世を去る前に、多くの後継者を残していた。

 特に、京の都に近い場所に、城を構えた武将と、東の土地に移り住んで、力を持ち始めた武将は、無念の死を迎えた、武将の意を受け継ぎ、それぞれ地盤を固めていた。

「西の城の武将が亡くなった後、蘇芳は、その武将の側近だった者に近づいて篭絡し、東の武将にぶつけて共倒れを目論み、西の勢力は少し弱まっていたんですが、まだまだ脅威は残っていて、もう一押しと篭絡した武将に、西の若い城主を手懐けさせて、再び東にぶつけたんです」

 それが、戦乱の世の、最後の戦となった。

 蘇芳が引いても、西と東の衝突は、避けられない所にまで来ていたとき、その僧侶は訪ねてきたのだ。

 諸悪の根源を、ようやく突き止めたと言う僧侶に、遅いと笑う蘇芳。

 そんな狐に、分かっていると頷いて、ゆっくりと被っていた傘を脱いで顔を上げた。

 そして、すぐ傍で見守っていた律に、微笑んで見せた。

「貴方とは初めてですが、そちらの方とは、懇意にしておりましたな。まさか、狐であったとは」

 言われて気づいた。

 まだ領土争いが盛んだった頃、武将にしては貴族とも親しく、律も懇意にしていた男だ。

 しかし。

 その武将は、すでにこの世を去っていたはずだ。

 蘇芳の狡猾な機転で、その罪を被る形で。

「ああ、驚いておられるようだ。無念を晴らすまでは、後を追う事を許さぬと、殿より固く言い使っておりましたので、こうして、生きながらえておりました」

 僧になり主君の望んだ世を、同じ志の者達が受け継いでいくのを見守りながら、仇を操っていたであろう者を突き止める事に、執念を燃やしていた。

 そしてその時、願いは成就したのだった。

「蘇芳は、私がこちらに来る少し前に、自由に動くことができるようになりました」

 それまで、僧と相対したあの場で、身動きが取れなくなっていた。

「……あいつを、封印したのか、只の人が?」

「ええ」

 複雑な印を結ぶのを見た律は、それを止めるべく動いたが、相手は元武将だ。

 戦では目立たぬが、それなりに腕が立ったと思われる。

 木刀で打ち込んだ狐に、軽く驚きつつも、僧侶は両手で錫杖を握り、それを受けた。

 そして、律が離れた蘇芳の周囲を巻き込んで、何かの術が施されたのだ。

 僧侶は、蘇芳のみに的を絞っていたようで、どうやらこちらが動くのは、想定内だったようだ。

 ただ、狐が確かな剣筋で、襲い掛かって来るとは思っていなかったと、驚いていた。

「あの人を、只の人と言ってもいいかは、正直迷います。あの術は、私すらも一緒に、封印されていたのではと危ぶまれるものでしたから」

「そんな術を、幼き頃から、修行していたわけでもない者が、扱えるか?」

「……」

 その疑いは、最もだ。

 律も、疑っている。

 僧侶が自分を相手にしている間に、蘇芳が封印されてしまったのは、あの僧侶が、ただの囮だったと自ら言っているようなものだったのだ。

 姿も見せなかった何者かが、完全に、蘇芳の動きを封じてしまった。

 しかし、その何者かよりも、僧侶の方が何故か気になった。

 言っては何だが、自分も蘇芳も、それなりに力のある狐だ。

 それなのに、悪意を持って近づく者、しかも人間の存在に、すぐ近くに迫るまで気づかなかった。

 術を行ったのが別の者だとしたら、その気配に、封印の術が施されても、気づけなかったことになる。

 その人物こそが、曲者なのだろうが……。

「それが我々と同じ、人でないものとしても、法力僧であるにしても、あの人は、そんな強力な助け舟を見つけられたと言う事です。あの手の者たちの説得は、楽なものではありません。どのような取引をして、ただの仇討に、手を貸す段取りをつけられたのやら、分からずじまいです」

 蘇芳が、動くことができるようになったのは、その僧侶が死んだ頃だ。

 ここに出発する前に、その狐に怒鳴り込まれて、それを知った。

「蘇芳は、遺体を喰らう等と、いきり立っていましたが、あの僧に託されていたものを渡したら、すぐに機嫌が戻りましたよ」

 同胞としての義理で、命乞いした律に、僧侶は、蘇芳の意図を尋ねた。

 正直に話すと、当然ながら呆れてしまった。

「あそこまで大掛かりな事をするから、よほど大きな望みを持っているのかと思えば、そんな事だったか」

「申し訳ありません。所詮は畜生ですので」

「何を申しておるのやら。己でそう卑下するものではない。周囲がそう思っておっても、な。話は分かった。あなたに免じて、その者を、成敗するのはやめておこう」

 微笑んでそう告げたが、それは身を切り裂かれるような、決断だったろうと思う。

 ようやく見つけた仇を、目の前でみすみす見逃すのだから、断腸の思いであったに、違いない。

 しかし、僧侶はそのまま、踵を返して立ち去って行った。

 戦が終わり、数年たったある日、僧侶はひょっこりと、律の住処に現れた。

 ひっそりと暮らしていた律の元を訪れた僧は、先に会った頃と変わらぬ出で立ちで、一巻きの巻物を手土産に持ってきた。

「……それが、ある貴族の、家系図だったんです」

 聞いてみると、この貴族はすでに故人で、後継者もいない。

 しかも、好色家だったらしくどこに隠し子がいても仕方のない、つまり突然後継者が出ても、それほど疑われない貴族だったらしい。

「落ちぶれてはいますが、その気になれば、いかようにも使える家柄です」

 僧侶は言い、それを残して立ち去った。

 蘇芳にそれを告げて,手渡して来たので、今頃その家をどう繁栄させるか、頭を悩ませているはずだ。

「……そうですね、私はあの方に、少しだけ心を寄せていたかもしれません」

 僧侶となってからは、たった二度会ったきりだが、忘れがたい人だった。

 だから、古谷の御坊の申し出に、困ってしまったのだ。

「……あの戦の時ならば、オレたちも、あの辺りにいたんだがな」

 昔、ある男が、幼馴染の男の気晴らしにと始めた、目に余る集団や、一族を根絶やす行動。

 それは、血縁者のみの集団だったが、今ではそれに限らぬ大所帯だ。

 だから、ああいう大きな戦は、気晴らしに最適なのだ。

 残念そうにそれを告げるオキに、律は首を振った。

「心を寄せてはいましたが、あなたの考えている寄せ方とは違います。ですから、気にしないでください」

 何と言うか、その周囲にある風が、とても心地よい感じだったというだけだ。

 ただそれだけの事だと言う狐に、黒猫は面白くなさそうに、相槌を打った。

「ところで……」

 話が途切れ、律は別の話を持ち出した。

「あの子、何者ですか?」

 答えた声は、変わらない。

「見ての通りの、子供だ」

「そうですか?」

 仕返しとばかりの言い方に、オキは顔を上げた。

「お前には、どう見えるんだ? まさか、年頃の娘に見えるなどとは、言わんだろうな?」

 その言い回しで、誰かがそう思い込んでいたらしいと、察せられるが、律は首を振った。

「まだ幼いので、年頃とは思いませんが……」

 そこで一度口を閉じ、慎重に言葉を選んだ。

「娘でないと言うのが、信じられない子供なんですが」

「……」

 オキは低く唸り、膝の上に座り直した。

「オレは、鼻が利く方ではないから、それほど気にならんのだが、狼野郎の子倅は、たまに戸惑っているな」

 周囲に漏らしている言葉を拾うと、あの若者からは、殆んど匂いがしないらしい。

「だが、分かっただろう? セイは、お前が知る人の子供なんだ。その血筋だからだろう」

 昔、同じように、匂いが薄い男がいた。

 大柄な美丈夫だった、その男の子供ならば、同じように匂いが薄いのも、頷ける話だ。

 しかし。

 律は小さく首を振り、控えめに考えを口にした。

「あの旦那は、それでも男だと、断じることが出来ました。大人だったから、というのもありますが、僅かに、男の匂いを感じられたものです」

 話に上った男は、出会った頃から、大人だった。

「だから、子供の頃は、セイのように匂いが殆どない子、だったのかもしれない。あの人が子供だった頃は、想像もできないが」

 そうであれば、セイも成長したら、そうなるかもしれないから、不思議な事ではない。

 言い切ったオキに、律は得心いかないが、頷いた。

 どうであれ、オキは色事の相手として、微塵も見ていないと分かる言い方だったからだ。

 一緒にここに来ている、エンという男と同じく、年下の兄弟のように、感じているようだ。

 それなら、律も気にすることはない。

 日が傾いて来た山を眺めながら、知人たちの、今を問う。

「ランやジュリたちは、変わりないですか?」

「ああ。島で待っている。偶々オレたちは、お前の呼びかけに答えられたが、本当は暫く、この国には立ち入らないつもりだった」

 何故かと言うと、ランの身の危険を、危ぶんでいるからだと言う。

 ランとは、セイの先代の、律が最初に渡りをつけた男、カスミの娘で、男勝りな女だ。

 狐としての色を隠すために、男の姿をしている律と違って、どうやら本当は、男として生まれたかったらしい。

「命を、狙われているんですか?」

 父親とは違い、仲間からも慕われているランが、深い恨みを買うとは思わないが、身の危険を危ぶむとは、穏やかではない話だ。

 眉を寄せての問いかけに、オキは首を振った。

「カスミの旦那が、離れる時に言い残したらしい。日本は今、ランにとっての鬼門だとな。本人に言い残すところが、あの旦那らしいが」

 真面目過ぎる男らしい話だが、それを、気軽に仲間に話した方も吞気すぎる。

 そんな話をした後なのに、ある策略を練って、日本へと向かう事に決めたのがラン本人だ、と言うのも、彼女らしい話だった。

「策略? ランの考えは、そこまで重大な話に、なるのですか?」

 首を傾げる狐の言い分は、最もだった。

 ランは、頭領の器ではない。

 剣の腕はそれなりにたち、頭も悪くないし、仲間からも信頼されているが、それは裏を返すと、非情な決断が出来ない、という事だ。

「ラン本人の身が危うい位じゃあ、この策略を止める理由には、ならなかったようだな」

 律の疑問に軽く答えつつ、オキは呟いた。

「もし今、この試みの最中に、命を落としているとしたら、ラン自身の願いも、叶わないことになる。本当に願っているのなら、必死に、生にしがみ付いているだろうさ」

 そのつもりだからこそ、律の願いを受けた時、セイに自分をつけて、送り出したのだろう。

 オキは、ランの複雑な思いを想像し、こっそりと笑う。

 本当は、ラン本人も、ここに出向きたかっただろうに。

 それは流石に、周囲に了承されなかったからこそ、エンをつけて送り出した。

 オキと律が、「二人きり」で過ごす時を邪魔する事を、エンには期待していたのだろうが、生憎とそれは無理な相談だ。

 エンは、セイが起きてから付ききりで、今も村を散策している、若者の傍にいるはずだ。

「ま、上手く話が進めば、生死にかかわる話でもない。というより、どう転んでも、そういう話にはならんから、心配するな」

 ただ、律に話せば、ランの正気を疑いそうな話なのだが、それは言わないで置く。

 手強い恋敵だが、蹴落とそうと思う程、焦る相手でもないからだ。

「そうですか。では……伝言、願えますか?」

 そんな猫の気持ちを、どう捉えているのかは分からないが、律は頷いてそう切り出した。

 顔を上げたオキに、狐は優しい笑顔で言った。

「今度会う時に、どれほど成長したのか、楽しみにしています。それまで、腕を鈍らせないで下さい」

 オキは目を丸くし、それからすぐに我に返って頷いたが、何とも複雑な気持ちになった。

 ランは、律を色恋の相手として見ており、オキもそれを知るからこそ、二人の動向を気にしていた。

 だが、素直なこの狐の今の言葉は、ただの弟子仲間としてしか見ていない、そんな言い方だった。

 オキは大昔より、様々な国に仲間を散らばらせている、いわゆる化け猫の一族の集落で生まれ、その村ごと滅ぼされるまで、その村で生活していた。

 成獣となった後、己が認める主の元で仕え、その死を見届けた後その死骸を喰らい、その姿を貰い受ける。

 そこまで来て、ようやく一人前と認められ、村を作ることが許された。

 その一族の中で、オキは末っ子で、まだまだ未熟な獣だったが、父親の力のおかげで人の姿を取って、生活できていた。

 同じ種の連中は、他の種族の者と敵対するが、この一族は違った。

 オキが生まれて間もなく、死にかけて親に捨てられた幼い狐を拾い、介抱して育て上げたのだ。

 それが、律だった。

 色白で、青い目の狐。

 季節の変わり目でも体調を崩す、そんなか弱い娘、だった。

 体を崩すたびに心配し、夜も寝ずに看病するオキと、そんな子供に、心を寄せる娘。

 家族はそんな二人を微笑ましく見守り、オキが一人前になったら、それまで律が健在ならと、許嫁同志と認められていた。

 あの後、律の親の知り合いと名乗る狐の頼みで襲撃した、カスミを筆頭とした集団に、村を殲滅されることがなければ、それは夢ではなかったはずだった。

 親の恩恵で人の姿を取れていたオキは、今は只の猫としてランを主として生き、今度は律が思い人を助けるために、強さを求めた。

 そして、今や妖怪の中でも、力のある狐の一匹となっている。

 これに見合う男と言うのを目指すのは、壁が高すぎる。

 猫の仕草で甘えつつ寝そべりながら、オキは未だに悔やんでいた。

 自分と律の命を助け、虚弱だった狐を、労わりながらもここまで鍛え上げた、カスミの片腕だった男を、むざむざ形見分けさせてしまった事を。

 あの時、「呪い持ち」という理由で止められてしまったが、その呪いごと食い尽くすことは出来なかったのかと、オキは未だに思っている。

「……オキ」

 黙って黒猫の頭を撫でていた狐が、軽くその頭を叩いて、声をかけた。

 その目は、縁側から見える風景に、向いたままだ。

「師匠は、私にとって、親であり恩人です。あなたのご両親と同じく。そんな方々の姿では、恐れ多くてどういう気持ちも、萎んでしまいます」

 だから悔やむな、という口にしない言葉に、オキは小さく頷きを返し、頭に置かれている掌に、頭を摺り寄せた。

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