私は壁になりたい

椎名ロビン

最初で最終回「ドラフトかかれば壁って逆指名できますか?」


「あのさ、この前出してもらった、進路希望調査票のことなんだけど――」


放課後の教室。差し込んだ西日に照らされて、二つの影が伸びている。

その内の一つ、船西今日子ふなにし きょうこは、手元の紙へと視線を落とした。

一体何度確認しただろうか。気のせいじゃないかと、何度読み返したろうか。

だがしかし、気の所為でもなければ白昼夢でもなく、書かれた文字は、間違いなく――


「第一志望、壁って何?」


声に出して聞いてみた。

これでもう引き返せない。

万が一、先週末飲んだ酒がまだ残っており二日酔いどころか五日酔いくらいを患っているせいで見間違えていた場合、とんだ赤っ恥である。

いや、赤っ恥で済むのなら、それであってほしいのだが。

教師生活が両手の指で数えるくらいに突入したばかりの今日子にとって、ここに書かれた文字に間違いが無い方が困る。


「先生、私――――壁に、なりたいんです」


ふぅーーーーーーーーーーーーーーーー、と長めに息を吐く。

反射的に煙草を求めてポケットへと入りかけた右手を押さえつけ、天井を仰ぐ。

校庭で缶蹴りに勤しむサッカー部の無邪気な声が、どこか遠くのように思えた。


「そっか、壁かァ……」


聞き間違いではなかった。

目の前にいる愛すべき生徒は、進路の第一希望が壁なのだ。


「……このこと、ご両親は……」

「話しました……でも、そんな意味のわからない進路認められるかって……」


うんまあそうだね、ご両親が正しいよ。

そんな言葉をグッと飲み込む。

船西今日子は良い先生、良い先生なんだ、生徒の夢を頭から否定しない、オーケー。


「……沼部なら、ソフトボール部のある大学や企業なら選び放題だろうからなあ」


沼部莉嘉ぬまべ りかは、ソフトボール部のエースである。

部員がたった二人しかいない我が校のソフトボール部が、地区最強と名高い緑泉西工業高校りょくせんにしこうぎょうこうこうに僅差で勝利できたのは、彼女の類稀な才能のおかげである。

名門大学や企業からスカウトの声がかかっていることは、担任である今日子も勿論知っていた。


「進学や就職して、壁になるためにキャリアを詰むんじゃ駄目なのか?」


壁になるためのキャリアって何だよ。

今日子本人も正直自分が何を言っているか理解しきれていない。

だがしかし、今日子は莉嘉の担任である。

彼女の背中を押し、現実的な方法で夢を叶える手伝いをする義務がある。

いや、教師の責務を大幅に越えている気はするのだが、今日子は割と生徒の人生を勝手に背負ってしまうタイプの教師なのである。


「はい……親にもそう言われたんですけど……やっぱり、体力も気力も十分な今、壁になりたいんです」

「んーーーーーーーーーー……そっかあ……今すぐ壁かぁ……」


今日子は生徒想いの教師である。

常にどこかくたびれているし、態度も良くはないが、それでも心の奥底では生徒の幸せを願っている。

そんな今日子に、唐突に突きつけられた問題。

意味不明な夢に対し、背中を押すか、目を覚ませと頬を引っ叩くか、どちらが良いのか。

答えは出ない。ひょっとしたら、正しい答えなんてないのかもしれない。


「でもなぁ、壁になったらソフトボール、もう出来なくなる気がするけど、それはいいのか?」


夢を否定される辛さは、今日子もよく分かっている。

お前に教師が務まるかと、何度罵られたことか。

だから、現実を見ろ馬鹿なんてこと、口に出来るわけがなかった。


とはいえ、壁になるのを応援しようにも、そもそも意味が分からない。

心はまだまだ若手教師なのだ、正解の対処をしろというのは、あまりにも荷が重たすぎる。


なので、今日子は結論を出さないことにした。

とにかく今は理由をつけて即座に壁になる以外の選択肢を選ばせる。

そして、進学なり就職なりで自分の中の世界を広げてもらう。

そのうえで本当に壁になりたいのかは、相談相手が自分以外になるくらいまでじっくり考えてもらおう。


「この学校でも、ソフトボールが出来ていたかと言われたら別にそんなことはないですし……」

「うんまあそうだな、それはそう」


莉嘉に頼まれてソフトボール部の顧問をしていたため、そこに関しては誰よりよく分かっている。

助っ人部員を集めたのも、彼女たちを指導したのも、全て莉嘉だ。

他の部活動に道場破りをしにいったり、助っ人に来てもらう交換条件のため他の部活で雑用をしたり、とにかく苦難の日々だった。

それもまあ見方によっては美談だろうが、あれがソフトボールだったかと言われるとそんなことはない。

ちなみにもう一人の部員は選手兼マネージャーだったので、毎日おにぎりを握っていた。


「いやでも、ちゃんとした企業や大学に行けば、今度こそまともにソフトボールが出来るかもしれないぞ?」


少なくとも、選手をスカウトしてるような所ならば、練習も試合もきちんとしているだろう。

ルールをあまり理解してない助っ人が、ヒットを打ってから三塁に走り出しアウトになるようなことはないはずだ。

打ったあとは右側の線に沿って走ると教えてなお右と左が分からないなんてクソ馬鹿野郎や、お箸を持つ方と教えたら左利きの馬鹿が三塁に走り出したじゃねーかなんて展開もないと思われる。

もう一人の部員は試合中ずっとベンチでおにぎりを握っていたし、これまで莉嘉のソフトボールは孤独な戦いだったはずだ。

ちなみに全国に行きそびれたのも、莉嘉以外唯一の野球部の人間が握ったおにぎりで集団食中毒になったからである。

そんなザマが三年続いたのだ、まともな脳みそで試合をしてくれるチームメイトと巡り会えることは、莉嘉にとってはこのうえない喜びなのではないだろうか。


「えっと、正直、ソフトボールももういいかなって。私、ソフトボールは高校から始めたので、今から普通のソフトボール部でやっていく自信もないですし……」

「え、そうなのか……部にするため一生懸命だったから、てっきり好きでずっとやっていたのかとばかり」


莉嘉のピッチングは、素人目に見ても頭抜けていた。

あのコントロールも変化球も、全ては単なるセンスだったということなのか。

そんな間違いなく才能溢れた未来の名選手をみすみす壁なんかにしていいものだろうか。いいわけなくない?????

っていうか、壁にしていい人類なんて存在しなくない??????????


「それにソフトボールも壁になるために始めたようなものですから」

「お前何言ってんの?」


あの日ソフトボール部の設立を懇願に来た熱意溢れる莉嘉の眼差しが、今日子の脳裏をよぎる。

熱意に負けて、まだ部活を受け持ててなかった自分が勇気を出して初の顧問に挑戦したのだ。

だというのに、そんな意味不明な理由で始めたなんてこと知りたくなかった。

せめてモテたくてとか暇だからとか、そういう理解の出来るロジックを出してほしかった。

あまりの事態についつい言葉は漏れてしまったが、涙や弱音は漏らさなかったことをどうか褒めてあげてほしい。


「最初は壁になるには壁と入籍するのが一番かなと思ったんです。それで、野球やソフトボールでは、ピッチャーとキャッチャーを夫婦と呼ぶことを知って。しかも壁を相手にボールを投げて練習するのは結構普通のことらしくて、じゃあソフトボールの選手って皆壁とバッテリーを組んだ夫婦なんじゃないかって思って」

「ん~~ふ~~~~んんーーーーーーーーーーーーなるほどぉ」


相手は可愛い生徒可愛い生徒可愛い生徒可愛い生徒。


心の中で無限に唱える。

唇を噛み締め、湧き上がる疑問とツッコミと言葉を単なる鼻息に変えろ。


可愛い生徒可愛い生徒まだあと数ヶ月は可愛い生徒頑張れ頑張れ私は先生目の前の馬鹿は可愛い生徒!!!!


オーケー、暴言は飲み込めた。

どっと疲れたし、もう今日は帰って酒飲んで寝たい。


「いや、うん、オーケー。ソフトボールは高校まで、オーケー。まあお前の人生だ、それでいいさ」


とりあえず理解できた部分だけを復唱する。

まあ本当に惜しい才能だと思うし、ソフトボール界の損失くらい言いたいが、本人のやりたいことでないのなら仕方あるまい。

才能を理由に、やりたくないことを強いたくはない。

それは紛れもない今日子の本音だ。


「……ありがとうございます」


とはいえ、超感動シーンみたいな顔で感謝されると、少々居心地は悪いのだが。


「先生に相談して、よかった……周りは皆、勿体ないって言うばっかりだったから……」

「ああ、うん……まあ……お前の人生だものなあ……」


腕組みをして、心を落ち着ける。

この三年間朝早くから練習に付き合ってやったのは何だったのかの気持ちはある。

だが、まあ、いいじゃないか、可愛い生徒の思い出になったのだから。うん、いいんだよ、うん……


「まあ、応援はするが……正直に言って、先生には壁になるためのノウハウがない」


頭を何とか進路指導へと切り替える。

我が校切ってのスポーツマンが提出したこの狂気の進路希望調査票は、現在職員室で最もホットな話題なのだ。

ある程度の着地点を見つけ、今後どういう風に扱っていくのか決定しておかないと不味いだろう。

特に企業や行政など外部組織と連携して何かを進めておかないといけない場合は、あまりのんびりもしていられない。

いや、壁になるため外部と連携するって正直意味が分からないけれど、一応ね。


「そもそもさ、壁って言うけど、壁なら何でもいいのか?」


言ってて意味わかんねえな、と思うが、そんな疑問をグッと飲み込む。

生徒が進路希望先を壁と言ってきている以上、もうそれはどうしても動かせないのだ。

なら、他の職業のときと同じように扱うしかないだろう。


「それとも、もっと具体的にどんな壁だとかあるのか?」


我が校は進学率が恐ろしく低く、生徒の99%は就職する。

故に進路希望調査票にはふわっとした業種や職種が書かれることが多い。

その都度教師は生徒と面談を行い、具体的な企業の志望があるのか等、ヒアリングを進めているのだ。

例えそれが壁であろうと、それが学校じゃない以上、踏むべき手順は同じはずである。


「え……っと、一応あるにはあるんですけど……」


そう言うと、莉嘉が僅かに俯いた。視線は泳ぎ、体が強張っている。

恐らく机の下で、膝に置いた掌を固く握りしめているのではないだろうか。


「……あるなら言ってみなよ。笑ったり、馬鹿にしたりしないからさ」


これでも何人もの生徒と向き合い続けてきたのだ。

口にするのも憚られる高い目標を持っていて、それを教師にも否定されるのを恐れている目。

いや、壁の時点で口にするのを憚ってはほしかったのだが、それはこの際置いておくとする。


「その……」

「ん?」


無理に聞き出そうとはしない。

まだ言う勇気が出ないのなら、それもいいだろう。

そうなったら、口にできるのを待ってやるのが教師の役目だ。

教頭には小言を言われるだろうが、そうなったらそれも仕方あるまい。

『具体的な高い目標はあるが、それを口に出す勇気はまだない』というのも、立派な面談の結果だ。

外部との連携が必要だと後で分かっても、それはもう仕方がないと割り切れる。


「私、船西先生のお家の、リビングの壁になりたいんですっ……!」

「なんて????????????」


何を言われても笑わないし馬鹿にしないぞと構えていたが、それどころではなかった。

脳みそが言葉の意味を正しく処理してくれない感覚。

多分今鏡を見れば、船西今日子史上でも指折りの間抜けヅラを拝むことができるだろう。


「そのォ、実は私オタクってやつでして、今日子たん――あ、すみません、つい癖で。ええと、船西先生のこと激推ししてたんですよ。入学式でどこか気怠げな所を見てまずズキューンと来ちゃったんですけど、その後どこかガサツで粗暴なのに距離感が近くて生徒に結構慕われてる所とかマジもう好みにピンポイントでズドンズドンピンズドっていうか」

「待て待て待て待て急に倍速再生みたいに早口で喋るな」


「壊れたビデオデッキか?」と言いそうになり、これもやはりグッと飲み込む。

何とか理解できた言葉を脳内で必死に咀嚼しながら、掌で莉嘉の言葉を制し、重たい口をゆっくりと開いた。


「ええと、何、お前、私のこと好きなの……?」

「あ、はい、そうです。だから顧問も船西先生にお願いしました。あ、でも安心してください生徒と教師の禁断の愛ではないというか、そういう性的なアレコレがあるわけではないです。あとこの気持ちは恋愛感情とかではなく古めかしい言い方になりますが俗に言う萌え~というやつなんですよね。先生は私の推しでありきゃわたんペロペロ対象であって性的欲望をぶつける先でもなければ恋愛対象でもありません。私推しにガチ恋とか逆に地雷のタイプなので」

「助けてエキサイト翻訳!!!」


壊れたビデオデッキの方がウン倍マシだった。

壊れた人間ってマジで怖いと思い知らされた。


「えー、なに、あんま理解出来ないんだけど、とりあえず恋愛的に私を好きってことじゃなくていいんだよな?」


化粧が上手いわけでもなければ服装だって雑にしているが、それでもまだ二十代後半である。

生徒から告白されたことだって、一度や二度のことではない。

進路希望調査票に「先生のダンナ」とか「先生の犬」とか書かれたことだってある。


その度に、きちんと対応してきた。

莉嘉がその手の人間ならば、綺麗にフッてあげることで普通の進路に変更できるかもと思ったが、どうもそうではないらしい。


「はい。ええと、ざっくり言うと、私、カプ厨にして百合厨なんですよ」

「かぷちゅ……?」


早くも分からない単語が飛び出してきた。

今日子の記憶が正しければ、莉嘉の出身中学は私立鎮範寺中学校ちんぱんじちゅうがっこうだったはずである。

となるとこれは、中学校の略などではないのだろう。

一応後ほど調べておけるよう、手元のメモに平仮名で殴り書いておく。


「で、私的にカップルの間に挟まるのはNGなので、先生の家のリビングの壁になって、先生の生活を眺めていたいんですね」

「なにそれこわい」


進路相談開始時点は可愛い生徒だったのに、何だかもう未知の化け物に思えてきた。

目の前の少女は自分のことをどう見ているの、やだこわい。


「あ、勿論人間形態で観察してたら気持ち悪いと思うので、壁になろうかなって」

「わあ優しい……その優しさをどうして他の常識的なカテゴリーに分けてやれなかったんだ……」


何だかよく分からないが、とにかく目の前の生徒は、告白したいとか一発ヤらせろとかではなく、壁になって暮らしを見つめたいらしい。

ストーカーとなって逮捕されても困るので、出来れば穏便にこの面談を終わりたいが、しかし――


「あ、先生の性行為を見たいわけではないのでリビングが第一志望でしたが、まあ百合ップルはセックスしてくれる方が萌える派なので寝室の天井でもいいです。別にシコるわけではなく、関係性を見てニヤニヤするだけなので安心してください」

「そっかあ、それで第二志望は天井なのかあ」


もう分からん、もう何が穏便な着地点なのか何も分からん。

とりあえず意味不明で咀嚼できなかった単語を全部メモへと書き殴り、理解できたワードにのみ反応していくこととする。


「あのさ、性行為を眺めるみたいな変態ワードが飛び出したと思うんだけど、私今彼氏いねーんだよ。だからその願いには――」

「あ、やっぱりそうですよね超ベストじゃないですか私としては有藤さん――あ、分かりますかね隣のクラスの有籐聖ありとう ひじりさん。彼女とのカプが至高なんですよね。優等生の仮面をつけた有藤さんの心を溶かしてあげてですね」

「うんごめんメモも思考も追いつかないから一回ストップしようか?」


今までも意味不明な生徒は山程いたが、正直これほど理解を越えてきた生徒は初めてである。

ダグトリオになりたいと告げてきた三年前の生徒のことを思い出す。

今思えば、あいつは生物なだけ話が通じたんだなあ。


「とりあえず……まあ、壁になって、私のあれこれを見守るのが第一志望ってことなんだよな……」

「はい。もし先生に断られたとしても、他の推しカプが見つかるかも知れませんので、志望業種としては壁となります」

「うん、まあ……そっかあ」


頭が痛い。

とりあえず切り上げて、理解できなかったワードを調べてから仕切り直したい。

何かいい感じのことを言って適当に終わらせられないかと、改めて莉嘉を見てみる。


「……ソフトボールで鍛えた胸筋のおかげで、布切れ持てば忍者みたいに壁に擬態は出来るかもなあ」

「はい! それもあって、部活では胸筋をメインに鍛えていました!」

「そういえばお前、偏ったトレーニングしてたもんなぁ」


キラキラした目を向けられる。

今日子はこの目に弱いのだ。

生徒の希望に満ちた瞳を曇らせたくない、夢を叶える背中を押してあげたい、そう思ってしまうのだ。


「とりあえず……壁にしろ天井にしろ忍者っぽいし、忍者の里に進学するって手もあるが……」


いや、ないだろ。分かってるけど、仕方ないだろ。

切り上げたいんだ、こっちは。


「私としては、先生のお宅で壁のインターンが出来ればと思うんですけど……」

「いや無理かな……さすがに分かるもん……せめて忍者みたいに気付かれず同化出来るようになってからにして……」


溜息をついてから、気が付いた。

ハッとなって見ると、莉嘉の目がキラキラと輝いている。


「忍者のようになれたら、先生の家の壁になっていいんですね!?」

「………………うん」


教師は生徒に嘘をつけない。期待も裏切れない。

まあ最悪殺して壁に埋めればどちらの希望も叶うかと思いながら、半泣きで肯定するのであった。

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私は壁になりたい 椎名ロビン @417robin

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