僕達はずっと夜の校舎で -WACK and CHILDREN-
名南奈美
僕達はずっと夜の校舎で -WACK and CHILDREN-
「いやあ、いったいこの戦いはいつ終わるんでしょうね」と紗奈香先輩に訊いてみると「これは終わんないよー、だって諸悪の根源みたいな存在がいるわけじゃないもん。ゲームと違って」と返される。
僕は結末学園を護るために、紗奈香先輩のバディとしてもう五年くらい戦っている。怪物達を相手に、夜の校舎で、眠る暇もなく。眠らなくてもいい体質にされているから別にいいんだけど。
「じゃあ僕達、マジでずっと高校生なんですかね」
「うん。ずっと、草薙くんは高校一年生、あたしは高校二年生のままで通い続けるんだよ」
「……最初は『永遠に高校一年生』って言われてワクワクしたものですけど、いざこう長い時間が経ってみると、キツいですねえ」
「大丈夫大丈夫、そのうちキツいって感じなくなる。十年やってるあたしを信じて」
紗奈香先輩はそう言って微笑む。僕もつられて笑う。
「草薙、聞いたよ。すげえじゃん化学で八十八点って。今回の平均めっちゃ低いのに」
お昼ごはんを食べていると、クラスメイトの志摩くんが言う。
「ありがとう。勉強、頑張ったから」
と僕は言う。
「そっか。じゃあやっと自由だな。放課後どっか行かねえ?」
「行きたいけど……ごめん、先輩と約束してて」
「そっかあ。……先輩って園澤先輩だよな?」
「うん」
「だよなー! 羨ましいわほんと、どういう繋がりで付き合ったんだよ?」
「入学式の日に曲がり角でぶつかってね。パンツはグレーだった」
「マジ?」
「うん。グレーのトランクス。お母さんが、高校生なんだからブリーフやめろ、って買ってきた」
「お前のパンツの話かよ」
「あはは。残念ながら僕達の出会いは秘密。パーティドラッグの取引で出会ったなんて知られたらお縄だからね。おっといけない」
「おっといけないじゃねえよ。お前はいつもはぐらかすんだから。いつか教えろよ」
「同窓会で教えるよ」
昼休みの終わるチャイムが鳴る。午後の授業は『眠らせ師』と呼ばれている田中先生の世界史で、開始二十分でちらほらと寝ている人がいる。僕もつまらなかったが眠くはなかったので、図書館で借りてきた聖書を机の下で読む。少なくとも自分の知らない情報がそこにあるだけでも授業よりはマシだ。僕に読書趣味をくれた紗奈香先輩には感謝してもしきれない。
放課後、昇降口で紗奈香先輩と落ち合う。一緒に帰り、マクドナルドでスムージーの新作を楽しんで、漫画喫茶に入る。
「あれ、草薙くん。それ先週くらいに読み終わってなかったっけ?」
「全二百巻なので、最後の巻まで読んで少し経てば、一巻の内容とか忘れちゃうんで」
「へえ。すごいねえ」
紗奈香先輩は青春スポーツ漫画を読んでいる。紗奈香先輩自身、昔は陸上部にいたらしいから、スポーツものは身近に感じられるのかもしれない。小説もすすめてくれる作品はスポーツ要素のあるものが多い。
漫画喫茶を出て、牛丼屋で夕食を食べ終わる頃にはすっかり夜になっている。
「じゃあ、行こうか」
「はい。やっていきましょう」
僕達は学校に行き、鍵で門を開けて、校舎に入る。
悪いものはいつだって、馬鹿で欲張りで、根拠のない自信を持つ者を狙う。だから私立公立問わず、全国の高校の生徒はつねに悪いものに狙われている。悪いものは夜になると生まれて校舎に侵入し、一晩かけて育ち、朝になって登校してきた生徒を惑わし狂わし、悪いことをさせて喜ぶ。
そんな悪いもののことを僕達は、そして僕達をこの高校の護り人に決定した……なんかアルファベット三文字くらいで略されている偉い人達は、『WACK』と呼んでいる。
「律儀に毎晩湧くなあ、ほんと」
紗奈香先輩は嘆息し、女の子の形をした『WACK』に近寄る。ここは音楽室で、僕は準備室から持ってきたリコーダーを先輩に渡す。先輩はリコーダーを『WACK』の脳天に叩きつける。
『WACK』の頭部が凹み、声も上げずに消える。これで一体、退治。
「音楽室、もう誰もいないね?」
「はい。前みたいに、楽器の形をした『WACK』もいません」
「確認ありがとう。じゃあ次の部屋に行こう」
同じ部屋に『WACK』がいるかどうか、目の前の物体が『WACK』かどうか、については先輩にはわからない。僕にはわかる。なぜなら僕は先輩のバディとして働く前提で改造されているからだ。
夜の校舎の廊下は静かで、暗くて、途方もない。紗奈香先輩は懐中電灯で照らしながら、足音を鳴らして歩いている。生まれたての『WACK』はまだ幼くて警戒心がないからそれで逃げたりはしないし、少し成長した『WACK』ならば逆に近寄ってくるため、捜す手間が省けるのだ。
教室をひとつひとつ巡っていると、二年二組の教室に、『WACK』がいた。カーテンの裏に白猫が潜んでいて、それが『WACK』だった。紗奈香先輩はその『WACK』を持ち上げて床に叩きつけ、腹部を踏みしめた。『WACK』は消えた。
紗奈香先輩の視界ではただの白猫にしか見えなかっただろうけれど、粛々と退治していくその手際は、流石は十年選手といったところか。
体育館に行くと、天井に挟まっているボールのひとつが『WACK』だった。紗奈香先輩がぐっと屈んでからジャンプする。先輩は天井スレスレまで跳び、レシーブを叩き込むように『WACK』を体育館の床まで弾いた。しかし『WACK』はそれくらいでは消えず、バウンドして体育館の入り口から外に行ってしまった。
「ごめんなさい、閉めておくべきでした!」
「気にしないで、いいから追って!」
追いかけて追いかけて、ついに壁際に追いつめる。持ち上げる。所詮はボールだから、自分で動くということはできないようだった。
ボール『WACK』を抱えて紗奈香先輩の元に戻ると、
「草薙くん、ごめん、助けて!」
と叫ばれた。紗奈香先輩は鳥籠の『WACK』に閉じ込められてしまったようだ――どうしよう? 僕は紗奈香先輩ほどの筋力がないから、徒手空拳では堅い『WACK』には勝てない。
……いや、徒手空拳、ではないか。
「紗奈香先輩、怪我したらすみません!」
と、前もって謝りながら――僕はボール『WACK』を足元に置き、鳥籠『WACK』に向けて全力で蹴り飛ばした。
がぁん、と大きな音を立てて鳥籠『WACK』は先輩ごと吹っ飛び、床に落下した。その衝撃で壊れたのだろう、消滅した。ボール『WACK』もそうした衝撃が蓄積したからだろうか、すっと消えた。
「大丈夫ですか、先輩」
尻もちをついている紗奈香先輩に僕は手を差し伸べる。
「うん、ありがとう。大丈夫。すごいね、草薙くん」
「一年生の体育、前期はほぼサッカーなんですよ。もう五年も一年生やってるんで、上手くなっちゃいました」
「いいなあ。二年生はサッカーないんだよね、バレーならあるんだけど」
「そういえば先輩って、その身体能力で体育に混ざれるんですか?」
「んー、文字通り浮いてる。ほんと、お上も雑に人の能力を上げすぎなんだよ。全然会えないから苦情も入れられないし」
「そうですね。まあ、苦情を入れられる立場かと言えば、ですけど」
そもそもの経緯を思い出してみれば、食費などに加えて隙間時間を潰すためのお金を支給されているだけでも、ありがたい話なのかもしれない。
僕達とアルファベット三文字組織以外の人間は『WACK』の存在を知らない。なぜならそれは同時に僕達の存在を知らしめることになるからだ――同じ学年をずっと続ける可哀想な子供の存在を。国家が秘密裏にそのような歪んだシステムを続けていたと知られれば世界的に大問題になる――と、世界中の国家が思っている。三文字組織も『WACK』も世界中にいるし、あるのだ。
秘密だから歪んだシステムでもいいというより、歪んだシステムにしてしまったから秘密にしなければならないというのは、なんだか生々しい話だ――そしてやはり、秘密だから別の歪みも生まれる。
秘密のお仕事。だから、公募なんてまず出せない――そして、流出のおそれがあるため不特定多数の公務員を選出するというのもできない。知人や親族にポロッと話してしまうかもしれない。また、大事な仕事だから、責任感のある者がやらないといけない。
だから『WACK』を退治するのは天涯孤独の者でなければならない。そして、『WACK』退治に従事しなければならない理由がある者であるべきだ。
ということで、僕や紗奈香先輩のように、両親が多額の借金を遺して蒸発し、相続放棄をしようとしても怖い闇のおじさんに脅されて無理だった場合、『WACK』退治の仕事を紹介される。国からの給料の大半が返済に吸い込まれてしまうけれど、毎晩働いていることもあって高給なため、さらに保険料などが引かれても数万くらいはこちらの手元に生活費として残る。
素寒貧のホームレスになって中卒で肉体労働をしまくるか、内臓とかいっぱい売ってボロボロになるか、永遠に高校生だけど高校には通えて生活費も支給されて生きていくか、どれがいい? と言われてみっつめを選んだのが僕と紗奈香先輩なのだ。
……もしかしたら他の選択肢にしても人に恵まれて楽しく生きられたかもしれないけれど、とにかくそういうときに提示される選択肢は本命以外は比較的ダメな風に言われるものなのだから、まあ、どうしようもない。
永遠と言っても完済したら終わるんだろう、と僕は当たり前のように考えていたのだが、紗奈香先輩によるとそんなことはないらしい――先輩が退治を始めて最初の五年間、もう五十年も退治をしている人とバディを組んでいたらしく、そのバディさんも借金を返すための従事だったのだが、完済後はただ給料が全額もらえるようになるだけだった。辞めることはできなかった。辞めたら誰かに喋るかもしれないからだ。高い給料で豪遊をしたりもしていたそうだが、結局は、精神に限界が来て自害してしまったそうだ。
「そういえば、ね」紗奈香先輩は掃除用具のロッカーで『WACK』をぶん殴って消滅させながら言う。「歌醒高校のほうのバディ、片方自殺しちゃったんだって」
「はあ。何があったんですか」
「バディ同士で付き合ってたんだけど別れちゃった」
「それは……最悪ですね」
「うん、最悪だねえ。そうなったらもう、完璧に孤独だもん」
「……ずっと仲良くしてくださいね、紗奈香先輩」
「何言ってんの。ずっと仲良くしようねってわざわざ何度も言ってるグループほどダメになりやすいんだよ。いつの間にか一緒に楽しいことしたいとかじゃなくて仲良くし続けることそのものが目標になってしまいがちだし、そうなった時点で我慢が生まれるんだから」
「そういうものですか」
「そういうものだよ。そうじゃない場合もあるけどね、他の色んなことと同じように」
「紗奈香先輩は、クラスメイトとどういう距離感ですか」
「うーん? 別に。去年も答えた気がする。変わんないよ。嫌われない程度に仲良くしてる。あ、草薙くんの提案通り、君と付き合ってる設定を押し通したら色々と楽になったよ。ありがとうね」
「いえいえ。僕としても同じように楽なので」
いじめられないようにするのは大切だけれど、放課後の遊びに付き合っているうちに抜け出すタイミングを見失って『WACK』退治に遅れてしまう、という失態は避けたい。だから体よく断る理由が必要だった。
「さて。全部回ったし、もう夜も明けそうだし、帰ろうか。日誌はあたしの当番だったよね」
「ああ、はい。よろしくお願いします。今日もおつかれさまでした」
「うん。おつかれさまでした」
校舎を出る。明けかけた空の色が労ってくれている気がする。歩いて数十分の距離にある銭湯で汗を流し、食事を摂る。
食休みをしたら校舎に戻る。早朝の薄暗い校舎の昇降口で上履きに履き替えていると、二年生の靴箱のほうで音がする。紗奈香先輩だ。ハイタッチをして、それぞれの教室に戻る。読書に耽りながら、学生が登校してくるのを待つ。そういう夜と朝を、僕は五年、先輩は十年も繰り返している。
それから数日経った終業式の日、僕と紗奈香先輩は仮病で休み、三文字組織のビルまで遠路はるばる赴く。『WACK』課で僕達を担当している酒井さんを呼び、日誌を渡す。
「うん、問題ないね。ご苦労。これから夏休みだけど羽目を外しすぎないように」
「ありがとうございます。よりいっそう気を引き締めて参りますので、今後ともよろしくお願い致します」
「そうだね。毎年言っていることだけど、夏休みは学生達も浮かれているから、『WACK』につけ入られやすい。逃がしたりしたら大変だからね」
「はい、承知しております」
「ならいいけど。ああそうだ、毎年の検診、今年はちょっと遅れることになったからね。えっと」
酒井さんは棚からプリントを二枚取り出して僕達に渡す。定期検診延期のお報せ。
「書いてあるけど、開始日がいつもより二十日ほど遅れる。これは最近チェック項目が増えることになって、葉場洲徒労さんも呼ぶことになったからだよ」
「葉場洲さん、いらっしゃるんですか」紗奈香先輩が言う。
「うん。……まあ、あんまりひとりひとりにかけられる時間は少ないと思うよ? 忙しいし」酒井さんが先輩の思考を見透かしたように言う。「だけど、少なくとも検診で修正しないといけない部分が見つかったらやってくれるはずだから」
「そうですか」
「とりあえず……連絡としてはこれくらいかな。じゃあ、また日誌待ってるよ」
「はい。では、失礼します」先輩はお辞儀をする。
僕もそれに倣う。「失礼します」
朝に降っていた雨が止んでからっと晴れて、むあむあとした空気が僕達にじゃれついてくる。鬱陶しい。夏って嫌だなあ。夜もどんどん過ごしにくくなっていくもんなあ……。僕達は睡眠は要らないけれど脱水や餓えで倒れたり死んだりはするから、気をつけないと。
帰る途中、バスを待っているときに先輩は言う。
「葉場洲さんに会えたところで、力量の調整とかは無理かなあ」
「僕達みたいに『WACK』を退治している人は、高校の数だけ……いや、高校の数の二倍もいるわけですからね。数日かけてやるとはいえ、そう時間はかけられないでしょうね」
「それもそうか。それに、体育の授業で浮くとか長い目で見ればどうでもいいからね。どうせ歌場さんのおかげでみんな来年には忘れちゃうんだし」
「まあ、別にそれでいじめられては……ないんですよね?」
「ないない。怖がられたりはしてるけど、ストレスになるようなのはない」
「じゃあ、呑み込むしかなさそうですね」
「そうなんだけどねー……。にしてもなんなんだろうね、新しい検査項目って」
「さあ? 想像もつきませんね。未曾有のウイルスが流行ってるわけでもないですから」
七十年ほど前、世界中で不思議なことが起こった。ざっと百人くらい、不可思議な超能力を天から授かった赤ちゃんが生まれてきたのだ。超能力とか異能力とかスーパーマジックとか神様の宝物とか使命とか色々な名前で呼ばれたそれは、テレパシーとかパイロキネシスとかそういうのじゃなくて、もっと誰も知らないような能力ばかりだった。
奇跡を起こす神として崇められたり、政権転覆を容易にできそうだからと監視や監禁をされたり扱いは色々だったが、なかには常人では解決不可能な問題をどうにかするためのスタッフとして国家にスカウトされた者もいた。
それが『改悪主義者』こと葉場洲徒労と『違和感違い』こと歌場翼だった。
葉場洲さんは簡単に言うと他人を改造することができる。眠らなくてもいい身体、人間離れした身体能力、『WACK』を感知する神経、と都合よく作り替えることができる異能力者だ。
そして歌場さんは他人の記憶と認識を操作することができる――新年度になると同時に「みんなが『WACK』退治に従事している人間との思い出を忘れ」「設定された学年の生徒として扱う」ように、歌場さんは操作している。
たとえば僕なんかは、少し前まで同級生だった人から「後輩」として扱われたり、一年間お世話をしてくれた先輩から「ああ、見ない顔だと思ったら一年生? 名前は? 部活とか興味ある?」と言われたりする。寂しいけれど、どれだけ粗相をしても来年には忘却されるという気楽さもある。
紗奈香先輩は二年生だから、後輩として敬語を使ってくれていた子が一年後に急に同級生としてタメ口になるのが面白いと言っていた。
そこで面白いと思えないとやっていけないのかもしれない。
ちなみに、僕も先輩も本来ならとっくに成人している年齢で、流石に高校一年生や高校二年生と言うには大人っぽい顔をしているはずなのだけれど、それについて周囲からリアクションされたことはない。
そこも認識操作がされていると考えていいのだろうけれど、おかげでお酒が買えないのはやや窮屈だなあと思う。別にいいけど。
さておき、夏休みがくる。僕達は日中ずっと図書室で本を読んで過ごす。夜になると『WACK』退治だ。普段とは出現する範囲が少し違う。『WACK』は無作為に出現するのではなく人間の残り香がある場所に出現する習性があり、その日誰も立ち寄らなかった場所には現れない。たとえば結末学園には水泳部がないため、夏期休暇中の校内プールは閉ざされており、『WACK』は出ないと考えていい――のだが。
「クラスの男子がさ、話してたんだよね」紗奈香先輩は言う。「夏休み中、金網を越えてプールに勝手に入っちゃおうって」
「ええー、そんなこと考える人いるんですか」
「高校のすぐ近くに住んでるから、高校のプールに行ったほうが早くてお金もかからないとか、なんとか。三人くらいで話してた」
「で、結局、忍び込んだんですかね?」
「いや、わからない。ごめんね、さっき思い出した話だから……日中に監視しておけばよかったなあ」
「むしろ、いま忍び込んでいたりして」
「それはないんじゃない? 校門けっこう堅いし、あたしらみたいに鍵がないとキツいよ。やるなら部活を装って校内に入れる日中でしょ」
「ああー……」
真っ正面から鍵を開けて、僕達はプールサイドに足を踏み入れる。晴れた日の夜で、満月が美しい。プールの水は空とお揃いの真っ暗だ。ここに『WACK』はいるだろうか?
いる。
「水中にいます」
「水中かあ。大きさ、わかる?」
「ええっと……」神経を研ぎ澄ます。目を瞑る。存在を感じる。「手のひらサイズです。水でよくわからないんですが、薄っぺらいものではありませんね」
「そっか。ありがとう。じゃあ、入るね」
紗奈香先輩はてきぱきとパンツ一枚の姿になり、準備体操もせず潜水する――パンツは濡れて大丈夫なんですかと思ったが、いつもスカートの下に体操着のハーフパンツを穿いている人だから、大したことではないのかもしれない。
僕の前で上半身と下着を晒すことも、仕事のための作業なのだから、大したことではないのだろう――僕が勝手に、不必要にドキドキしてしまっているだけだ。
落ち着け。仕事に性別を持ち込むな。
「草薙くん。これかな?」
と。
紗奈香先輩は肩から上を水面から出し、何かを握る手を掲げた。飛び込み台に座って待機している僕から見えるように。それはブイのような形をしていていた。
「はい、それです!」
「おっけー!」
紗奈香先輩はブイの『WACK』を両手で挟み、ふん、と力んだ。すぐに潰れて消えた。
「先輩、おつかれさまです! 着替え、プールサイドに置いてあるんで」
僕は突き落とされる。
「うん、え?」
先輩が戸惑う声を最後に、僕の聴覚は水中の雑音で占められる。突然のことで、酸素を肺に溜められなかった。早く浮上しないとまずい、のに、何者かに上から身体を押さえつけられている。『WACK』? ああ、だとしたら僕の注意力が散漫になっていたのだろう。
反射的に息を吸おうとしてしまって水を飲む。これやばいやばいやばい。ごぼんごぼん。もがいていると、水中なのに先輩と目が合う。救助のために潜ってくれたのだ。僕の上にある何かに手を伸ばして、どけようとしているが、手こずっている様子だった。僕のためにがんばってくれているありがたいせんぱい
プールサイドで目を覚ます。先輩が僕の顔を覗き込んでいる。胸の骨が痛い。ごぼ、と腹の奥から喉までせりあがっていく何かを感じる。先輩に仰向けから俯せにしてもらい、僕はプールサイドの排水溝に水を吐き出す。先輩は言う。
「草薙くん、ヘリを呼んだから来たら乗って。後はあたしが退治するから」
「せん、ぱい。でも」
「あのね、あたしが心臓マッサージを全力でやったから、骨折っちゃったんだ。だから病院に行って」
そう言われるとめちゃくちゃ呼吸が苦しくなってきた。
三文字組織のマークがついたヘリに押し込まれて、僕は組織と繋がりのある病院に連れていかれる。ヘリの助手席の人に言われる。
「あなたのバディ、園澤さんはとても優秀だ。通報から人工呼吸と心臓マッサージまで手際よくこなしたんだから。組織内の評価も上がるだろう」
その人としては僕のバディを褒め称えたかっただけなのかもしれないが、僕としては胸が痛くなってしまう情報だった。
人工呼吸? 紗奈香先輩が僕に?
骨の痛みと胸の痛みでごちゃごちゃになったまま、僕は病院に運び込まれた。
「三日後、葉場洲徒労さんという方がいらっしゃることになりました。それまでは病院で安静にしていてください。労災指定病院ですから入院費は心配いりません。葉場洲さんがいらしたら、異能力で治してくださるそうです」
ベッドの上で横たわる僕に、医師が言う。
どうやらは『改悪主義者』は身体の故障を修復することもできるらしい……バトル漫画の強いキャラみたいだなあ、と思いながら頷く。
消灯された病室で、僕はぼうっと天井を見つめて過ごす。どうやら、寝なくてもいい身体は入院したときに不便らしい。
翌日の昼下がり、紗奈香先輩がお見舞いに来てくれる。プールサイドに置いてきた僕の荷物を携えて。よかった、これで時間潰しの道具が手に入る。
「容態はどう?」
「まだ、痛いです」
「そっか。無理しないようにね。……でも眠れなくてつまんないよねえ」
「はい」
「あたしも入院したことあるからわかるよ」
「そうなんです、か」
「ああごめん、無理に返事しないで。葉場洲さんが治してくれるまで、こっちはヘルプの人と頑張るから」
「ヘルプ……すか」
「うん、ヘルプっすよ。綺麗な女の子。ガールズトークでもしながら頑張るよ、ってあたしはもう今年で二十七歳だけど」
「先輩も」僕は言う。「若くて、綺麗ですよ」
「……そーう? ありがと。じゃ、お大事にね。連絡があったらスマホにメッセージ入れておくから、身体動かせるようになったら見といて」
「はい」
「またね」
先輩が病室からいなくなる。僕は仰向けのまま荷物から聖書を取り出して読む。また夜が来る。読書灯をつけて読み続ける。翌朝には読み終わってしまう。紗奈香先輩が来て、例のプールに侵入した男子達はこっぴどく注意され、日中は厳重に監視されるようになったから、もうプールサイドは見なくてよくなったと教えてくれる。
「草薙くん、退院したら、ぱーっと遊ばない? もちろん、夜には仕事だけど」
「いいですね。どこに行きますか」
「来週になるけど、駅前の公園でお祭りがあるんだって。行こうよ」
「ああ、毎年行っているところですね。喜んで行きましょう」
その日の夜、読む本がないことをすっかり忘れていたため、またぼうっと天井を眺める。そうしているうちに、気づけば紗奈香先輩のことを考えている。
月光に照らされた、肉の少ないすらっとした背中のことを思い出す。
先輩が僕に人工呼吸をしてくれたことについて考える。
声と顔と香りについて想い、仕事の手際のよさや優しさについて考察する。
早く、また一緒に、『WACK』退治をしたいなと思う。
翌日、葉場洲徒労さんがやってくる。自分自身を不老不死に改造している、との噂も頷けるほど若々しく見える。さっと胸に触れられると、僕の骨折は治る。よかったよかった、と思っていると葉場洲さんは言う。
「ここでは治せないが、草薙さん、あなたには治すべき歪みがあるようだ。定期検診には絶対に来るように」
「承知しました。必ず参ります」
退院する。銭湯で身体を洗い、カロリーの高いものを食べ、学校の図書室に向かう。紗奈香先輩と出会う。
「調子はどう?」
「平気です。もうすっかり」
「そっか、よかった」
「先輩、ありがとうございました。ご迷惑おかけしてすみません」
「ううん、事故って起こるときは起こるからしょうがないよ」
「いいえ、あのときは注意力が散漫になっていたから背後を取られてしまったのだと思うので。気を引き締めて参ります」
「どうして?」
「え?」
「草薙くん、どうして、注意力が散漫だったの? 何か悩みごとでもあるの? あるならそれを解決しないと終わらないと思うんだけど」
「あ、ああ……いえ」
言うか? 紗奈香さんの裸にドキドキしてましたって? いや、それじゃセクハラだ。向こうはただ仕事上必要だったから脱いだだけなのだ。
それを言ったことで僕をバディとして信頼してくれなくなったり、仕事をする上で紗奈香さんの行動の選択肢が狭まってしまったら最悪だ。
「その、月が美しすぎたんです」
「……六歳上の先輩をそれで騙せると思ってる?」
「ごめんなさい」
「まあいいや。言いたくないなら」紗奈香先輩は微笑む。「でも、仕事に関係あることなら、必ず教えてほしい。弱音でもいいから」
「……わかりました。ありがとうございます」
僕は新しい本を借りる。本はどんどん新しいものが出るし、どんどん図書室に入れてもらえるので、飽きなくていい。娯楽品は代わり映えしない日々に刺激をくれる。
昨日まで先輩と組んでいた女性は三文字組織支給のスマートフォンでサブスクリプションに加入して音楽を聴いているらしい。そういうのってありなんですか、と訊いたら、申請さえすれば大丈夫らしい――サブスクリプションの利用料は給料から引いてもらう形で払うのだとか。
「その子ね、ってあたしとそんなに年齢違わないんだけど、すっごく幅広い女性アイドルや声優や歌手の曲を聴いてて、あたしが中学のとき好きだったシンガーソングライターも知ってて、けっこうそういう話で盛り上がったんだ」
「へえ、楽しそうですね。僕もお会いしてみたいです」
「ああー……それは無理かな。男性恐怖症らしいから」
「え、そうなんですか」
「うん」
紗奈香先輩はそれ以上言わない。僕はなんとなく察する。ヘルプ。デフォルトがバディでの業務である僕達は、誰ともバディを組まず控えとして籍を置く、ということはそれ相応の理由がないと許されない。客観的に仕方ないと思われるような解散原因や、医師による診断書などの、重い理由が。
たとえば、バディが自害してしまった、歌醒高校の担当者のように。
「でも、ヘルプということは色々と大変だったんじゃないですか」
「そこは要領いい子だったし、それに夏休み中だったからあんまり。例のプールの件もなかったしね」
「ならよかったです」
「とはいえ、普段通っていて学校に慣れていたり、日中に校舎をうろうろできるバディのほうがやっぱりありがたいよ」
それはまあ、そうだろう――そうした慣れや便利さ、それから校内の状況などを知っておくことで的確な退治ができるように、僕達は学籍を持っているのだから。
夕飯時になり、図書室を出る。窓の外を見ると、ざあざあと雨が降っている。さっきまで晴れていたのに。
「そう言えば予報では降るって言ってたもんね」
「え、そうなんですか? 知りませんでした」
「傘、持ってないの?」
「はい。夕食、僕は止んでから適当に食べることにしますね」
「ずっと雨のはずだよ、今日。食べ損ねちゃうよ」
「でも勢いが強いですし、風邪を引いてまた先輩にご迷惑をかけるというのは……」
「あたしの傘に入りな。長傘だから大丈夫」
グラウンドで活動をしていた生徒達がどかどかと校舎に入っていく。こんな時間まで運動部は大変だなあ、と思いながら昇降口を出る。
僕のほうが背が高いので、先輩から傘を受けとり、おずおずと開く。
「わあ、上品で素敵ですね。こんな傘、持ってたんですか」
「つい先週買ったんだよ。いつもビニール傘だけど、飽きたから。いいでしょ」
「いいですね」
校門の前で僕のクラスメイトに声をかけられる。「お、草薙と園澤先輩。なぁに相合い傘とかしちゃってんの」
「あはは、あたし達ラブラブだもんねえ」と傘のなかで先輩がさらに僕との身体的距離を縮めてくる。一瞬ドキドキとしてしまうけれど、付き合ってるって設定で通していることを思い出す。「ねー?」
「ねー! これからデートなんだよー」
「アツいねー! 風邪引くなよ、ってバカップルは引かねえか! じゃあなー!」
傘を持っていない彼はそう言うと、体操着をフードのようにかぶって、走り去っていった。少し間を置いて、ふたりで苦笑した。
「めっちゃ冷やかされたんだけど、何いまの」
「ほんとすみません、僕の知り合いが」
「いやあ、あたしのクラスメイトにもあのくらいのテンションの子はいるから気にしないで。ほら去年のお祭りのときとか」
「ああ、そうですね」あのときは女子三人組に絡まれたんだっけ。去年は交際設定がなかったから戸惑ったけれど、今年は堂々としていれば大丈夫だろうか。「お祭りと言えば、当日、ちゃんと晴れるといいですね」
「うん、そうだね。楽しみにしてるから」
駅前まで歩く。ファミリーレストランで夕食を摂り、夜までドリンクバーで過ごす。暗くなってから学校に戻る。『WACK』を捜し、見つけ、退治する。夜が明けて、お互い身体を洗ったり朝ごはんを食べたりして、また会う。
サイクルをこなしていくうちに祭りの日になる。無事に晴れる。公園で待ち合わせをして、五分前に現れた紗奈香先輩は、……なんとなくいつもと違う気がする。
「どうしたの、黙りこくって」
「いや……気のせいだったらすみません、先輩いつもと雰囲気が違うなあって」
「気づいた? 久しぶりに普段よりメイクしてみたんだよ。普段は軽ーくなんだけど、今日は色々とやってみた」
「え、どうしてですか」
「お祭りの日は普段よりテンション上げたくて」
「でも去年はしてなかったじゃないですか」
「その年の気分ってものがあるんだよ。あれ、もしかして変?」
「いや……その」いつもよりさらに魅力的です、じゃなくて。もっと仕事仲間っぽく。「大丈夫です、いいと思います」
「本当に?」
「本当です。マジ最高です。卍です」
「ふふ、卍って死語だよ」
「えーっ!? いつの間に!!?」
僕、クラスで浮かないようにときどき使っていたのに!
「あっはっはそんなに驚かなくても! でもありがとう、最高ならよかった!」
と大笑いする紗奈香先輩の笑顔で、ああいつもの先輩だ、と僕は思う。
「じゃあ、行こうか。はい」
先輩はまだ笑いながら、僕に手を差し伸べる。
「はい、って?」
「ここに来るまで、十人くらい、同じ学年の人とすれ違ったんだよね。で、あたし達って春から付き合ってる、って思われて広められてるから」
「……ああ、お祭りデートで手も繋がないのは不自然、と?」
「そういうこと。まあ、嫌なら手を繋がないタイプのカップルって設定で行くけど」
「うぅん……嫌ではないですし、そう設定を増やすのは面倒ですから、繋ぎましょうか」
さて先輩は論理的に判断して繋ぐことにした、と思ってくれているだろうか? そして紗奈香先輩と手を繋いでいる僕は平然とした顔をできているだろうか?
手汗が出たらどうしよう。それだけのことで、僕の欲求が伝わってしまったらどうしよう。
僕が紗奈香先輩にときめいてしまっているなんて。
知られてしまったら、どうしよう。
どうなるんだろう、そしたら、バディとしての距離感は、これからの。
まだまだ、まだまだまだまだ、まだまだまだまだまだまだまだまだ、僕と先輩は一緒に『WACK』を退治する日々を送らないといけない。親の借金があるし、『WACK』は絶えない。
この関係が崩れたら、僕はそれでも、先輩はそれでも、粛々と退治を続けられるだろうか。
わからない。
僕は耐えられないかもしれない。
気が狂ってしまうかもしれない。
そうして。
あるいは先輩のほうが。
「ねえ、草薙くん」
紗奈香先輩が言った。
「はい、なんでしょう」
僕は返事をした。
「ぼーっとしてたけど、考えごと?」
「ああ、いや……すみません」
「もしかして、月が美しすぎたの?」
「……はい。月が、綺麗ですね」
「そうだねえ。まだ昼だから、あたしにはわかんないけど」
出店をだいたい回って、普段は食べないものも食べたりして、盆踊りの様子を眺めて、日が暮れて、学校に行く。『WACK』を退治する。解散時に先輩が言う。
「次の日曜が検診で、いつも通り早い時間からやるみたいだから、覚えておいてね」
「はい」
「あとは……特にないか。日誌は草薙くんだったよね、提出よろしくね」
「わかりました」
「草薙くんからは何かある?」
「いえ、何も」
「そう。じゃあ、おつかれさまでした」
「おつかれさまでした」
検診の日、葉場洲徒労さんは僕の状態を調べ、「それじゃあ前も言ったけど、あなたには治さないといけない歪みがあるから、治すよ。すぐ終わるからね」と言う。
するとすぐに、うまく言葉にできないけれど、僕の脳内で何かが起こったような、すっきりとしたような感じがする。
「うん、これで大丈夫」
「あの、すみません」僕はわざわざ挙手をして訊く。「歪みって、どういうものだったのでしょう」
「バディに恋愛感情を抱いてしまっていたから取り除いたんだよ」
「え、そうなんですか?」
「脳髄もまた、『改悪主義者』の射程範囲内だからね。恋愛感情は『WACK』退治をする上で邪魔になる歪みだ。これまで何度か、バディ同士の恋愛が最終的に職務放棄であったり、仲違いであったり、それから、死人を生んでしまう事例があって、前から問題視されていた。そして今回の検診から、そうした精神状態の有無もチェック項目に入れて、ある場合は切除することに決まったんだ」
「なるほど……」
「私としては仕事が増えてしまって大変ではあるけれども、それによって生き永らえる命が増えるのならば、喜んで奉仕させていただく所存だよ。さて、次の人が待ってるから、そろそろ椅子から腰を上げてくれるかな」
「ああ、はい。ありがとうございました」
検診結果が印刷された紙を受け取り、建物の入口で待っていると、紗奈香先輩がやってくる。
「お待たせ」
「おつかれさまです。どうでした、結果」
「んー、バディへの恋愛感情って項目に引っ掛かって、切除してもらったくらい」
「ああ、それ僕もやりました」
「本当? お揃いだねー」
「そうですねー」
「まあ、これからも仲良く仕事していこうね」
「はい、頑張っていきましょう」
僕達の戦いはそれからも続く。『WACK』はずっと夜の校舎に出てくる。同じような日々を送って同じような年を経る。面白い本が毎年出る。いつ借金終わるんでしょうね、終わったら新刊いっぱい買うのに、と先輩と話して笑い合う。
失敗をして落ち込んだり、僕が怪我をして心配させたり、先輩が怪我をして心配したりすることもあるけれど、なんだかんだ楽しく働いて生きていく。
僕達はどれだけ歳を取っても仲の良いバディで、高校二年生と高校一年生で、先輩と後輩だ。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそずっと一緒に、支え合って、戦える。
(了)
僕達はずっと夜の校舎で -WACK and CHILDREN- 名南奈美 @myjm_myjm
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