7-3 不憫な医者と人格破綻者

     ◆


 冷や汗か脂汗を拭いながら、ダンクリンガーが俺の額に手を置いた。

 彼が目を閉じた途端、全身を何かが這い回る気配があり、神経がピリピリと刺激される。電流を流されているようなものだが、痺れるほどではない。

 これは、魔力か?

 しかし極端に微弱で、その割に全体にムラがない気がした。

 相当な使い手なのかもしれなかった。

 目を開けたダンクリンガーが女性の方を振り返る。

「赤羽夫人、非常に説明しにくいのですが」

「何? もしかして何かの難病? あなたでも治せないほどの?」

「いや、まぁ、難病でもなんでもなくて、ただの疲労です」

 ぽかんとした顔になり、女性が首を傾げる。

「それにしては、まるで百歳を超えた老人の如き、弱りようだけど?」

「魔力が相当量、失われていますね。今、体にある魔力はギリギリ、生命を維持できる程度です」

 ふぅん、と女性がダンクリンガーに応じて、少し黙ってから、ポンと手を打った。

「ダンクリンガー、あんたの魔力を分けてあげなさい」

「えぇっ?」

 驚きが強かったようで、彼が身を引く動作をした。

「それ、本気で言ってます? 赤羽夫人。僕が人間じゃないって、知っているでしょ」

 ダンクリンガーの言葉に驚くのは俺だけだ。人間じゃない? じゃあ、なんなんだ?

 俺が混乱するのをよそに、ダンクリンガーが平然と言い募る。

「僕はこう見えてもドラゴンの末端ですよ。しかも人間が言うところの「抵抗派」のドラゴンです。あまり派手にやると、仲間からもそれはもう冷たい視線を向けられて、生きていけません」

「別にいいじゃん、今は人間の中で生きているし」

 そんなぁ、と情けない言葉を口にするダンクリンガーは、俺から見ればまったくの人間、人間そのものだった。

 今の俺には体に本来、備わっているだけの魔術師の能力しかないが、ダンクリンガーからドラゴンだと確信を持てるほどの魔力は放たれていない。巧妙に隠蔽しているんだろうが、少しもほつれのない、完璧な偽装だ。

 人の姿のドラゴンは、女性に抵抗を試みたようだが、「酒を出すから、酒を」とよく分からない押し付けに抗しきれず、また俺の前に戻ってきた。

「具合が悪くなったら言ってくださいね。さすがに人間を事故ででも殺してしまったら、僕の立つ瀬がない」

 事故で殺さないでくれ……。

 ダンクリンガーが目を閉じて、そっと俺の額に手を置き直す。

 先ほどと同じような痺れが全身に行き渡る。今度は痺れが強くなり、最初は指が、次に腕が震え始めた。肺が不規則に収縮し、胃も痙攣している。心臓にも影響があるのか、視界が暗くなり、色が戻り、しかしまた暗くなる。

 さっと額から手のひらが離れた途端、俺はずっしりと先ほど以上の疲れが全身にあるのを感じた。

 やれやれ、などと言いつつ、立ち上がったダンクリンガーの横で、女性がこちらを見ている。

「動ける? 動けない?」

 どうにか体を動かそうとするが、先ほどまでは固まって石のようだった全身が、今度は緩みきったようになり、弛緩して力が入らない。

 喋ろうとしても、フガフガと音が出るだけで、言葉にならなかった。

「魔力が定着するまで時間がかかるんですよ、赤羽夫人、問題なく治療は終わっています」

「じゃあ、本当に回復するか、一杯やって待ちましょうか」

 心底から嫌そうな顔をしたが、式神に椅子を勧められ、ダンクリンガーはやはり抵抗しきれずに腰を下ろした。式神がどこからか杯を用意し、青年の前に置いた途端、容器から溢れんばかりに、女性が液体を注ぐ。

「さあ、飲め、若者、そして精神が崩壊しろ」

 いや、精神を破壊するなよ。

 酒盛りが始まり、俺はまだ弛緩したまま、よだれを垂らしながらその様子を眺めていた。

 俺自身の体の状態も気になるが、女性がダンクリンガーに脱衣を強要し始めた。あっという間に背広の上着が脱がされ、ワイシャツも脱がされる。おいおい。ひどいコントだ。

 見る見る間にガラスの巨大な容器から、液体が減っていく。

 と、ドアが急に開いて、全員がそちらを見る。見るが、女性は真っ赤な顔をしていて、ダンクリンガーのズボンを剥ぎ取ろうとしているところだった。ダンクリンガーは涙目で、それだけは勘弁、勘弁してぇ、と泣き言を言っていた。

 ドアを開けたところで立ちつくしているのは、魔術師学校の制服を着た少女、赤羽火花その人である。

「お母さん! なにしてんのよ!」

 ずかずかと入ってくる少女と、女性はやっぱり似ている。

 解放されたダンクリンガーは部屋の隅まで逃げて、素早くズボンを元に戻し、ワイシャツを着直している。

「やあ、私の娘さん、お久しぶり。宴もたけなわ、なんて言わないわよ、まだまだこれから、盛り上がるところよ」

「私は酒盛りは好きじゃないし、未成年よ! それに家に男を連れ込むとお爺様が怒りのあまり、脳の血管が切れてお亡くなりになる、って前から言っているでしょ!」

「あんな爺さん、死んだ方がみんなのためよ?」

「少しは義理の父親を大事にしてよ、お母さん」

 さすがに呆れている赤羽火花に、女性は堂々と言い返す。

「義理の親は所詮、義理よ」

「冷血、としか言いようがないけど、本人の前でそういうことを口走ると、大戦争になるからやめてね」

「戦争、大いに結構! 大戦争、大いに、大いに、大いに結構!」

「だからやめてって!」

 やっと服装を整えたダンクリンガーが部屋を出て行こうとするのに、二人が気づいた。

「ダンクリンガー、まだ結果がわからないぞ!」

「申し訳ありません、ダンクリンガーさん、本当に母が身勝手を」

 二人が正反対のことを言ったので、さすがのドラゴンも困惑して、動きを止めた。赤羽火花と女性は睨み合いを始め、また同時にダンクリンガーを見た。

「逃げんじゃないわよ、このドラゴンのヤブ医者! 酒代くらいは置いていけ!」

「さっさと逃げてください、ダンクリンガーさん! ここは私がまとめますから!」

 結局、ダンクリンガーは背広から取り出した財布を女性に投げつけ、さっさとドアを開けて逃げていった。女性が財布を掴み止めて、それでも追い縋ろうとしたが、それは赤羽火花が組みついて押し留める。

 しかし女性はすぐに諦めて、唇を尖らせながら、財布の中身を確認し始めた。

 どうにか酒盛りは終わり、落ち着いたらしい。

 俺のすぐそばへ赤羽火花がやってくる。

「大丈夫? 変なことされなかった?」

「ああ、大丈夫」

 急に明瞭な声が出て、俺自身が驚いた。気づくと、全身の弛緩も消えていて、力が入る。

 ぐっと体を起こすと、自然と起き上がれた。

「お母さんの方が正しかったわね、娘よ」

 そう言って胸を張りながら、片手には他人の財布、片手には杯を持った女性が、演技過剰に威張って見せた。当の娘である赤羽火花は、「そーですね」と雑に答えていた。

 とにかく、俺の体は回復したらしい。

「あ、自己紹介したっけ?」

 やっと女性がそのことに気づいたらしい。だけど名乗られる前に、俺は情報では女性の名前は知っていた。

「私は、赤羽朱花。この子の母親よ」

 情報通りの名前だが、こんな人格破綻者とは、聞いていなかった……。



(続く)

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