5-4 脱出

     ◆


 ハルハロンが悪魔と切り結ぶ中で、俺はただ赤羽火花のそばに控えていた。

 守護霊体と悪魔の戦闘は、魔術師同士の戦闘とは比べものにならないほど速く、激しい。

 目にも止まらぬ超高速で馳せ違い、競り合い、離れ、ぶつかり、さらに衝突を繰り返す。

 しかし、戦いは悪魔に軍配が上がったようだった。

 俺のすぐそばにハルハロンの剣が突き立ち、ハルハロン自身はすぐそばに片膝をついている。

 彼の右肩が深く断ち割られている。そこから魔力が漏れているのもわかった。

「どうだ? 「森羅万象の剣」と呼ばれた勇者も、存在自体を切り裂かれるのは、辛かろう」

 どうかな、と言いながら、ハルハロンは立ち上がり、両手に剣を生み出す。

 諦めの悪いことだ。悪魔がそう言って、一歩、踏み出す。

 瞬間、俺のすぐそばで、魔力が迸った。

 赤羽火花を中心に魔力が形を持っていく。周囲の光景が書き換えられ、空間が塗り変わる。

「逃がすものか」

 悪魔が手にしていた剣を、予備動作なしに投げる。矢よりも速く、閃光となって剣が飛んだ。

 濁った苦鳴が上がる。

 黒い剣の切っ先が、俺の目の前にある。

 ハルハロンがその身で剣を受けていた。彼の姿が、滲み、消える。黒い剣が真っ黒い地面に転がり、それもまた溶けるように消える。

「人間とは愚かなものだ」

 悪魔が歩み寄ってくる。

 どうやったら、生き延びることができる?

 赤羽火花の魔術は、まだ完全ではないし、今もギシギシと全てが軋んでいる。

 俺に宿っていて、恒常的に働いている魔術破壊魔術が、今も赤羽火花の魔術構造式を激しく攻撃しているのだ。

 俺がここでこの顕現しつつある魔術通路の外へ出れば、赤羽火花だけは元の世界へ戻れるだろう。

「迷惑をかけた」

 思わずそんな言葉が漏れた。

 ハッと赤羽火花がこちらを見ると、俺は一瞬だけ目を合わせて、行動に移っていた。

 彼女から離れるように駆け出す。

「ダメ!」

 悲鳴のような彼女の声が、響いた。

 屋敷の廊下に。

 俺は駆け出して、廊下だと気付き、混乱した。

 悪魔はもう、どこにもいない。

 ここは、赤羽邸の二階の廊下だった。

 振り返れば、目元を潤ませた赤羽火花が座り込んでいる。

「帰ってきた、のか?」

 思わず彼女に問いかけるが、「わからない」と彼女は周囲を確認している。俺も視線を周囲に向けるが、間違いなく赤羽邸だ。

 時間は夕方で、真っ赤な光が全てを染めている。

 と、いきなり廊下に面したドアが開いた。

「間一髪、だったね」

 ドアから出てきたのは波打つ髪の毛をした男性で、橙色のレンズのメガネをゆっくりと中指で押し上げた。服装は背広の上に白衣だ。

「ラミアス先生……?」

 そう言って、赤羽火花が立ち上がる。場違いなことに、俺も彼女も、水着姿だ。いや、それは今はどうでもいいか。

 先生と呼ばれた男が、俺の様子と赤羽火花の様子を見て、

「怪我がなくてよかったよ」

 と、笑った。赤羽火花はまだ真っ青な顔だ。俺も似たような顔色だろう。

 ラミアスというらしい男が俺を真っ直ぐに見た。

「きみの魔術がイレギュラーなんだな? 魔術学会にいる身としては、ちょっと不自然だとわかる。独立派の魔術師かい?」

 どう答えることもできず、ただ俺はいつでも動けるように、身構えた。

 博士たちは、自らを「独立派」と呼称するけれど、魔術学会からは「ダスト」と蔑称で呼ばれる。それを目の前の魔術師らしい男は、独立派という言葉を選んでいる。

 敵意がないことを示したいのだろうが、油断をする理由にはならない。

 まあまあ、と身振りでラミアスが落ち着くように求める動きをする。

「二人とも、疲れているだろう。実は僕もだいぶ疲れた。お茶でも出して欲しいね」

 ふざけたことを、と思ったが、俺も泳いだ時とは別物の疲労を感じていたし、赤羽火花もそのはずだ。

 どうするか伺うつもりで赤羽火花を見ると、死人のような顔色のままさりげなく目元を拭い、「ありがとうございました、先生」と微笑んだ。

「私の魔術構造式が破綻する寸前に、先生が補助してくれたから、脱出できたんですよね。すごい魔術でした」

 なんだって?

 目の前のどこか頼りなさそうな男を見ると、彼はどこか困ったように笑みを浮かべる。

「きみにもしものことがあると、ご両親が僕を許さないからね。特にお母様は手に負えない」

 クスクス笑っている赤羽火花はいつも様子を取り戻したようだ。

 そこへいつもより慌てた様子で、式神が駆け寄ってくるのが廊下の向こうに見えた。それに赤羽火花が指示する。

「エマ、お客様にお茶の用意を。それともお食事がいいですか? 先生」

 そうだね、とラミアスが顎を撫でる。

「きっとこの後、重要な相手がやってくると思うから、それまでに夕食を済ませたいね」

「重要な相手、ですか?」

「君たちがやったことは、ものすごい大事だって、わからないの?」

 穏やかな口調、からかうような調子だが、その奥にある深刻さに、俺も、そして赤羽火花も気づいた。

 式神に案内されて三人で食堂へ行くが、会話もあまり弾まない。正確には、ラミアスは式神に向かってひっきりなしに料理の出来栄えを褒め、その上で注文をつけていたけれど。

 赤羽火花はいつも通りの量を食べたが、どこか箸の進みが遅く、俺とラミアスはしばらくお茶を飲んで、不本意ながら、二人で会話することになってしまった。

「独立派の子供というのも珍しいね。両親が元から独立派とか?」

「拾われただけですよ」

「でも魔術師の血筋でもあったわけだ。肌の色からすると、中東の出身か。あそこは一般人どもが荒らしまわって、魔術師たちがだいぶ迷惑を被ったんだよね。まぁ、戦争が終わってからは魔術師がでかい顔をして、まさしく無法地帯にもなって、不憫だった。君もその被害者?」

「そんなようなものです」

「独立派って、今、どれくらいの規模なの? 三十人くらい? もっと多い?」

 黙り込む俺に構わずにラミアスは話を続ける。

「しっかり見ていないけど、君に刻まれている魔術構造式は相当に練度が感じられる。おそらくそれを施した魔術師は、元は魔術師学校の出身のはずだ。しかも僕の知っている魔術構造式の知識にはない要素が見られる。きっと、新しい手法を開発したんだろう。実は君の魔術構造式を見せて欲しいとも思っている」

 魔術構造式は魔術師が秘密にする要素の一つで、特殊なものであればあるほど、秘匿される。それを知らないわけではないだろうから、冗談だろうか。

 だんまりを決め込んでも、またラミアスが話し始める。

「まぁ、これでも魔術師学校で教鞭を執る身だしね、ちょっと見ただけでも、おおよそは把握できる。いつか協力する気になったら、教えてよ。報酬が支払われるよ。魔術学会の公式文献に記録されると、それはまぁ、とんでもない額が未来永劫、支払われる」

 まだ俺は黙っている。

 そのうちに、赤羽火花が食事を終えた。式神が彼女にもお茶を運んでくる。

「来たようだ」

 いきなりラミアスがそう言った時、食堂のドアが開いた。

 そこには長い銀髪を背中に流した、古代文明の神官をイメージさせる服装の男が立っていた。

 瞳の色が薄い青。顔の造りが整い過ぎていて、どこか人形じみている。

「魔術学校はもう来ているか」

 男が急にそう言った。高音と低音が混じったような、不自然な声。

 この男は、人間ではない。そう直感した。

「お待ちしていましたよ」

 俺も赤羽火花も呆気にとられているので、唯一、平然としているラミアスが、まるで屋敷の主人であるかのように、空いている椅子を示した。

 銀髪の男がその席に座り、俺たち三人を順繰りに見た。

「賢竜派からの通達を行う」

 不協和音じみた音声で、男がそう口にした。

 賢竜派、だって?



(第5話 了)

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