三話

 放課後になり、早速行動を開始する。廊下を出ていつもよりゆっくり歩いていく。それは視線の先にいる少女の歩みに合わせるためだった。


 藍原(あいはら)唄(うた)。俺や座間と同じクラスにいる、正直言って目立たないタイプの女生徒だ。肩口まであるふわっとしたヘアースタイルで前髪は長め、肌の色は神様がわざとつけなかったのではないかと思うくらいに透明感のある白、だと座間が言っていた。


 俺は屋上でのヴェール達との会話を思い出す。


『おまえ達と同じクラスにいる藍原唄という女生徒。かなり強力な感情エネルギーを有している。正のエネルギーも負のエネルギーも、な』

『なんだそれ、危険じゃねぇのか』

『だからこそだ。下手に怪人にされる前にヒーローとしてこちら側に取り込んでしまった方が安全だろう。なにより強い負の感情エネルギーが発生しているということは何かしらの問題を抱えているということ、その方が私達精霊としてはヒーローになってもらうための交渉がしやすいというものだ』

『俺が骨折を治してもらう代わりにヒーローになったのと同じだな!』

『何度も言うが完治させたわけではない……だが、そういうことだ。カキタローには藍原唄の身辺調査をしてもらいたい』

『身辺調査、ねぇ』

『ヒーローの力を使えば姿を隠すことも容易い。簡単な任務だろう?』


 などと煽られて藍原の尾行を開始。座間はというと、練習があるからと部活に出て行った。しかたのない奴である。

 藍原を見失わないよう下校し、電車に乗って数駅先、たどりついたのはどでかいタワーマンションだった。


「なんだこの迸る高級感は……」

「たっかーい! こんな建物を作るなんて、人間ってすごいんだねぇ」


 エントランスに入ろうとする藍原に慌てて駆け寄る。ヒーローの力は実に便利なもので、他人から視認されないようにもできるらしい。おかげで藍原のすぐ後ろについて滑り込むようにタワーマンションのエントランスを抜けることができた。

 エレベーターに乗って上へ、彼女が家に入っていくのを見届ける。


「完全にストーカーだな、これじゃ」

「わたしそれ知ってるよ、悪い人でしょ。カキタローにぴったりだよね」

「なに、おまえって俺のこと嫌いなの?」

「だってすぐ私に意地悪するんだもん」

「意地悪、ねぇ」


 優しくしてほしいならもう少し役に立てと言いたい。しかし、いまそれをオブラートに包むことなく伝えるのは愚策だろう。この身辺調査にはプリシアの協力が不可欠なのだ、どちらかといえばご機嫌を取る方向性で攻めたいところ。


「……ごめんな、プリシア」


 ゆえに、俺は神妙な面持ちでプリシアに頭を下げた。プリシアはギョッと目を丸くしている。


「急にどうしたのカキタロー」

「俺はおまえを愚図でノロマでポンコツでどうしようもない精霊だとずっと思ってきた」

「あれ? 私いま謝られてるんだよね??」

「でもそれは違ったんだ。俺の勘違いだった。おまえは俺にとって、絶対に必要な存在なんだよプリシア。俺にはおまえが必要なんだ」

「カ、カキタロー」


 俺とプリシアは妙に熱っぽい視線を交わす。俺の方は完全に演技なのだが。


「だからプリシア。頼みがある」

「……うん。わたし、カキタローのためなら耳かきでも耳舐めでもなんだってしてあげる!」

「おい待てどっから耳舐め出てきた」

「このまえカキタローが聞いてた音声のタイトルに書いてあったよ。人間は耳を舐めたりもするんだね、不思議!」


 人類が皆してそんなニッチな性癖を持ってるとも思えないが、訂正するのも面倒なので流すことにした。この手の話題に指摘を挟むとろくなことになりそうにない。


「……話を戻そう。おまえには、この藍原の家の中に入って奴の監視をしてほしい」

「監視?」

「まあ、要するに藍原がどんな人間なのかを調べてくれ。たいしたことじゃない。今夜の藍原の行動を観察して俺に報告してくれるだけでいいんだ」

「うーん、わかったよ! わたし頑張る!」

「くっくっくっ、いい子だ」

「えへへー」


 照れるプリシア。ほんの一瞬だけ可愛いと思いかけたが、どっちかというとアホっぽいという感想の方が近い気がした。

 話は決まった。俺は鞄を背負いなおしてプリシアに背を向ける。


「よしプリシア、健闘を祈る」

「え、カキタロー帰っちゃうの?」

「当たり前だろ。俺はおまえと違って壁をすり抜けたりはできん。というか、できたとして女子の部屋に侵入するのはさすがにアウトだ」


 当然の役割分担である。しかし、プリシアは表情にどこか翳りを見せた。


「なんだその顔は」

「ううん。寂しいな、って思って」


 心臓が高鳴る。その様子はあまりにも弱々しく、庇護欲をそそられるものだった。俺は短くため息を吐き、


「そうか、寂しい、か」

「うん」

「じゃあ帰るわ」

「えぇぇぇぇ!?」


 突然の絶叫に耳を塞ぐ。これで耳が悪くなったらどうしてくれる、俺の鼓膜は繊細なんだぞ。


「どうして!? 昨日リコが見てたドラマでは女の子が『寂しい』って言っただけで男の子がすごく優しくしてくれたのに!」

「なに恋愛ドラマの影響受けてんだ」


 ってか梨子の奴、そういうの観てるのか……。


「っていうかただの計算かよ、変なところで知恵働かせやがって」

「別に計算ってわけじゃなくて、ほんのちょっとだけ本当に寂しいっていうか」

「はんっ。愚か者め、そんな嘘っぱちに騙される俺ではない」


 仮に本当に寂しいのだとしても、それは俺がいなくて寂しいのではなく話し相手がいなくなって寂しくなるだけだ。だから俺には関係ない。


「第一、おまえがいなくても俺の方はちっとも寂しくないからな」


 なおもあーだこーだうるさいプリシアを置いて、タワーマンションを出る。寂しいだ寂しくないだと口にしていたせいだろうか。帰り道は妙に静かで、俺は喜んでヘッドホンをつけて耳かき音声を聴きながら家路を急いだ。



――――――――――――――――――――――



 ヒーロー候補・藍原唄の調査は俺におまけの恩恵をもたらした。

 静かな夜である。今夜は思う存分、誰もいない部屋の中で耳かき音声を堪能することができる。


 今日の作品はオーソドックスな「幼馴染みに耳かきをしてもらう」というシチュエーションのもの。作品のイラストは茶色がかったボブカットで巨乳の女の子。

 耳かき音声というのはその名の通り音で楽しむものだ。しかし、音だけで堪能するものではない。

 優れた文学作品を読む時に自然と場面情景が頭に浮かぶように、優れた耳かき音声作品はまさにすぐ傍に女の子がいて実際に耳かきをしてもらっていると錯覚するほどの臨場感がある。


 つまり、イメージだ。音声という手がかりから最大限に想像を膨らませていく、それが耳かき音声を何倍も楽しむための秘訣である。そのためのとっかかりとして耳かき音声作品には「どんな女の子に耳かきをしてもらう設定なのか」を示すイラストがパッケージとして用意されることが多い。ライトノベルをイラスト買いしてしまうように、イラストの良し悪しというのは耳かき音声にとっても一定量の価値があるものだと俺は思う。


 実際、販売サイトでランキング上位に食い込むような作品は、イラスト単体で見てもレベルが高いものが多い。変態国家日本の国民はあまねく美少女が好きなのであろう。


『ねえ、昔みたいに耳かき、してあげよっか? えー、子供の頃はお互いにしてたじゃん。久しぶりに、さ』


 イヤホンから聞こえる台詞にため息を吐く。

 互いに耳かきをし合う幼馴染みなどというものがこの世に実在するかどうかは定かでないが、そんなことはどうでもいい。男の理想像を肯定する脚本、そしてそれを完璧に再現する声優の演技こそがすべてだ。それ以外のものは耳くそと一緒にゴミ箱にでも捨ててしまえ、リアリティなどどうだっていい。


「カキタロー」

「はぁーーーー」


 先ほどとは真逆の意味でながーいため息を吐きながら、俺はイヤホンを外した。具体的に説明するならば先ほどは感嘆、今のは落胆である。


「なんだ、こら、なんか用か、こら」

「態度が悪すぎて悲しむよりも驚いてるよ……」

「久しぶりに部屋が静かだったからな、今日はヘッドホンではなくイヤホンで耳かき音声を楽しんでいたというのに」


 遮音性という意味ではヘッドホンの方が当然優位に立つが、耳かき音声を聴くという用途に限定すればより鼓膜へダイレクトに音を届けるイヤホンに軍配が上がる。少なくとも俺はそう考えている。


「で、なんだ。ヒーロー勧誘なら我が家はお断りだぞ」

「そんな新聞勧誘みたいなことしてないよ……」

「新聞がわかるのか。地味にこっちの世界について詳しくなってるな、すごいぞ」

「ほ、褒められて……る?」


 戸惑うプリシアで遊ぶのも悪くないが、話が進まないのでほどほどにしておく。


「いいからさっさと観察結果を報告しろ」

「話をそらしたのはカキタローなのに!」


 怒るプリシア。けれど彼女は気を取り直して話し始める。


「うーんとね、部屋の中でずっとカキタローと同じのつけてたよ」

「同じの?」

「その、今日はつけてないやつ。ヘッドホン、だっけ? ウタも耳かき音声が好きなのかなぁ」

「一応教えておいてやるが、ヘッドホンは別に耳かき音声を聴くためだけの道具ではない」


 むしろ俺の用途の方がマイナーだ。

 藍原唄が耳かき音声のファンである、というのは可能性として皆無ではない。耳かき音声にはイケメンに耳かきをしてもらうという「女性向け」の作品も存在する。

 とはいえ、現実的に考えればその線はないだろう。耳かき音声が好きなんていうのは、たとえば「わたしの趣味はアーチェリーです」というのと同じ程度にはレアだと思う。耳かき音声はすばらしいものだしアーチェリーもあれはあれで楽しそうだがな。


 十中八九、藍原がヘッドホンで聴いていたのは楽曲だろう。音楽好きなのだろうか。それが藍原から発生している正の感情エネルギーの源泉かもしれない。

 しかし、今時たいていの若者はJ-POPやらアニソンやらに興味があることだろう、これはたいした情報ではなさそうだが。


「それでね、なんか音を鳴らしてた」

「音を? 鳴らしてた? 情報が抽象的すぎて怖いんだけど」

「こーんな形のものをいじってね、音を出すの」


 プリシアがジェスチャーで示したのは、瓢箪のような形だった。


「ギターか……? 楽器を弾くってことはかなりの音楽好きか」

「その楽器を持って、少し前に家を出て行っちゃった」

「ギターを持って? ふむふむ、それで?」

「それ、で?」


 俺達は二人揃って首を傾げる。少しして、同時に逆方向に首を傾けてみる。……遊んでいる場合ではない。


「それで、その後藍原はどうしたんだ」

「知らないよ。ついさっきのことだもん」

「……質問を変えよう。どうしておまえは帰ってきたんだ?」

「ウタがいない部屋を観察しててもしょうがないじゃん。ぷぷっ、カキタローったらそんなこともわからないの?」

「こんの……ポンコツ精霊がぁぁぁ!」


 俺の絶叫は夕暮れの住宅街にサイレンのごとく響き渡った。

 その直後、家に帰っていたらしい梨子が隣の部屋から現れて雷鳴のごとき叱責を飛ばしてきたことは、言うまでもない。

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