ヒーローは耳かきしてほしい
夢煮イドミ
一章 精霊は耳かきができない
一話
ヘッドホン越しに、爆発音がした。
駅前には多くの人々が気を失ったように倒れ伏し、吹き荒れる爆風が砂塵を巻き上げている。
土埃の向こうで、誰かが戦っていた。
一方はシルエットが浮き彫りになる真っ赤なヒーロースーツ姿で、頭にはヘルメットのような装備をつけている。まさしく特撮で見るような〝ヒーロー〟の出で立ちだ。
そしてもう一方は、百人が目にしたら百人が〝怪人〟と呼びそうな二足歩行の恐竜みたいな怪物である。
「あのっ!」
その場から動けずにいた俺――
切羽詰まったような必死さを感じさせるのに、その声は鈴の音のごとく透き通っていてずっと聴いていたいと思わされる不思議な魅力に満ちていた。
俺は震える手でヘッドホンを外し、声のした方に視線を動かす。
「ヒーローになって、私と一緒に戦って!」
そこには女がいた。涙目でこちらを見つめてくる女。
戦え、と言うのか。ただの高校生に過ぎない俺に?
「……いやだ」
「えぇっ!?」
驚いたように女が目を見開く。大きな瞳に、さらに雫がたまっていく。
視界の隅にチラチラと赤色が映り込んだ。どうやら、ヒーローは苦戦しているらしい。
「で、でもっ!」
「……じゃあ、ヒーローになってやるから」
その代わりに、と付け足して、
「俺に耳かきをしてくれよ」
――――――――――――――――――――
美泉家の二階にある自室で、俺は女と向かい合っていた。
「つまり、おまえは精霊とかいう異世界の存在で、同じ精霊がこっちの世界で悪事を企んでいるのを阻止するために来たと?」
「そうそう! カキタロー賢い!」
大袈裟に俺を褒める彼女の名前は〝プリシア〟、自称異世界からやって来た精霊である。
絵画に出てくる天使のような衣服に身を包んだやたら胸の大きな女だ。顔立ちはまだ幼い雰囲気の残る女子高生といった感じで、控えめに評価してもとてつもなく可愛らしい。しかし、鮮やかなピンク色のボブカットという強烈な特徴を携えている。
いまどき毛髪を奇抜な色に染めるぐらいたいしたことではないが、なんとこの女は宙に浮いている。当然ワイヤーなどあろうはずもない俺の部屋の中で、だ。明らかに普通の人間ではない。
「悪い精霊はね、人間の負の感情エネルギーを操って怪人にしてしまうの。私たちは逆に正の感情エネルギーを強く持った人間をヒーローにして対抗してるんだ」
怪人やヒーローというのは、善悪を区別するために人間の言葉を拝借しているらしい。
「正の感情エネルギー、ってなんだよ」
「愛とか恋、とか。何かを好きとか、そういうの」
ずいぶんと大雑把な説明ではあったが、理解できないでもなかった。
「カキタローからはとても強い正の感情エネルギーを感じるの。だから、きっと強いヒーローになれるに違いないって思ったんだ」
「……俺を選んだ理由はわかった」
「それじゃあ、これからもヒーローとして戦ってくれるんだね!」
これからも――そう、つい先刻ヒーローとなった俺は、怪人を倒して帰ってきたばかりなのだ。
状況を整理するためにプリシアから事情を聞いていたわけなのだが……。
「いや、戦わないけど」
「えぇっ!?」
甲高い悲鳴に、俺は慌てて耳を塞いだ。
「どうして!? どうしてダメなの!?」
「どうして……? 俺がなんでヒーローになってやると言ったか忘れたのか?」
「えっと、それは……」
プリシアはふわふわと浮きながらうんうんと唸っている。こいつ、本当に忘れてやがるのか。
「耳かきだ。俺はおまえが耳かきをしてくれるならヒーローになってやると言ったんだ」
「そ、そうだね! する、するよ耳かき!」
「はっ、冗談だろ。どうやって耳かきをするつもりなんだ、その身体で――!」
すっとプリシアの身体に腕を伸ばす。突然の俺の行動に、彼女が小さな悲鳴を上げたが構いやしない。
なぜなら、俺の腕は奴の
「触れやしない、物も持てない、そんな身体でどうやって耳かきなんてするつもりだ!!」
「に、人間界での私たちはエネルギーの集合体みたいなものなの。だから物理カンショーは難しいかなぁって……」
「結論は出たな」
俺はどかっと椅子に腰を下ろし、机に置いてあったノートパソコンを立ち上げる。
「おまえが耳かきできないなら、俺はヒーローにはならない」
「う、うぅ……。耳かきって、そんなにいいものなの……?」
「ああ」
俺は即答すると、机に置いてあったペン立ての中からオーソドックスな耳かき棒を取り出した。
「こいつで耳の中の垢を掻き出すのが、耳かきだ」
「それ、自分でやるのじゃダメなの?」
「普通は自分でやる。だが、俺が好きなのは耳かきそのものじゃないからな」
「うーん……?」
首をかしげるプリシアに、俺は数秒悩んだ末に教えてやることにした。
「俺が好きなのは、これだ」
パソコンで動画サイトを開き、目当ての動画のページへと移動する。
「耳かき音声だ」
再生ボタンを押すと、パソコンの内蔵スピーカーから音声が流れ出した。
『耳かき、してあげよっか?』
それは実に聞き心地のいい、綺麗な女性の声だった。
「耳かき、音声?」
「耳かきをしてもらう、というシチュエーションを堪能するためだけに制作された音声作品だ」
俗にASMRと呼ばれる、音を聞くことで快感を得る娯楽の一種である。耳かき音声の場合は実際に耳かきをしてもらっているかのようなカリカリという効果音と、耳元で囁かれているかのように感じる女性の声(男性向け作品の場合)がトリガーとなる。
「俺が耳かき音声と出会ったのは中学の時。洗練された効果音、男心をくすぐる脚本、それらをまとめ上げる声優の演技! さながら渇いた砂漠に降り注ぐ恵みの雨がごとく、耳かき音声は俺の心を癒やし、虜にした!」
ずばっ、と拳を天高く掲げる。
「その耳かき、音声? が好きなら、どうして私に耳かきをしてほしいの?」
「……俺はな、いつか最高の耳かき音声を制作したいと思っている」
まあ話し始めたなら最後まで言ってもいいか、ぐらいの気持ちで語り出す。
「世界は偉大なる先人達が残してくれた耳かき音声に溢れている。ネットではクリエイター達がアップロードした音声作品が日々その数を増している。どれも素晴らしい。しかし、〝最高〟ではない。俺にとって最高の作品は、誰よりも俺のことを知っている俺自身が作り上げる他ない。ゆえに俺は、世界にたった一つの、最高の耳かき音声を作ると決めたのだ!」
「おお! なんだかすごいねカキタロー!」
「ん、んむ」
手放しに褒められて思わず怯む。おべっかを使っているというよりは本当にただ「なんとなくすごい」と思っているだけなんだろうが、こんな話をして気持ち悪がられないだけでも貴重なことには違いない。
リアルで同じ話をしたら、けっこうな確率でドン引きされることだろう。
「それで、その音声作品をネットにあっぷろおどするんだね!」
「いや、しないが」
「え、しないの?」
「俺が俺のために作る作品だ。他人と共有するつもりはない」
俺はキッパリと言い切った。
「俺はおまえと出会った時に思ったんだ。ほどよい肉付きの脚、涼風のように耳を通り抜けていく声、顔もそこそこ整っているしおまえに耳かきをしてもらうという体験は、俺の俺による俺のための作品作りの肥やしになるだろう、と」
なんだか妙にテンションが高くなって、俺は高らかに叫んだ。
「そう、俺の人生の全ては耳かきに還元される! ノー耳かき! ノーライフ!」
「うるっっっっさい!」
罵声と共にドアを開ける音。開ける音というか、開ききったドアが壁にまでぶつかる音。
気まずい思いで振り向けば、そこには長い黒髪をポニーテールに束ねた、妹の
この俺と実家を出て一人暮らしをしている大学生の兄・
「独り言はいいとしても、内容と声量がヤバいから。ちょっとは自覚して」
「電話をしていたという可能性は考えないのか」
「電話かけるような友達いたの……?」
くそっ、いないから反論ができない……!
「っていうか、なにその頭」
梨子が俺の頭に指を向ける。指差された左のこめかみのあたりにはガーゼが貼ってある。
「これは、ちょっと怪我しただけだ。心配すんな」
「はぁ? 心配とかしてないし。とにかくうるさいから静かにして、集中できない」
あまりの気迫に俺は首がもげんばかりの勢いで頷いた。
「ふんっ」
梨子は鼻息荒くドアを閉めて去った。
「こ、怖かったー……」
「中学に上がった頃からずいぶん冷たくなっちまった。バレー部と受験勉強で忙しいのもあるんだろうが」
昔はもっとベッタリ兄の後をついてくる妹だった気がするが、時の流れは残酷なものだ。
「そういえば、おまえのことは見えてないみたいだったな」
見えていたら真っ先に問い質されていただろう。ピンク髪の女が浮遊してる光景とかとても現実的じゃない。
「いまはカキタローにしか見えないようにしてるよ」
「そうかそうか。とりあえずそれはいい」
俺は気を取り直して話を戻す。
「おまえは膝枕もできず、そもそも耳かき棒を持つことすら叶わず、そんな状態でどうやって俺に耳かきをするというんだ? 耳かきをなめてるのか?」
「う、うう……」
「わかったら、早く他のヒーロー候補を探しに行くんだな」
俺は話を切り上げてヘッドホンを装着した。プラグをノートパソコンに差し込み耳かき音声を堪能する姿勢へと突入する。
怪人と戦う? 冗談じゃない。
そんな危険なこと、見返りもなしにやれるほど俺は善人ではないのだ。
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