おや? 魔王の娘が奴隷になりたそうにこちらを見ている

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第1章

第1話 勇者を夢見る少年は

 街に鐘の音が響き渡る。


 ここヒスカトレを囲う石壁の上にそびえる発信源は、敵の襲来を知らせる警鐘だ。澄んだ音はいつまでも止むことなく、事の重大さを知らしめていた。


「魔王軍だ! 全員、中心の広場に避難しろ!」


 若い男たちが街中を駆けずり回って叫ぶ。その声を聞くなり、住人たちは荷物も持たずに避難を始めた。


 その流れに逆らうように、一人――少年が走る。その手には一振りの剣。無骨な鞘に収められているのは街のどこにでも売っている安物のなまくらだ。


 黒い髪を揺らし、細い身体で全力疾走する。白い肌に大きな瞳、丸い顎のライン。一目では男と看破できそうにない容姿は、彼のコンプレックスだった。


 シャノン・エーテルナイル。一六歳になったものの、未だ男らしさに恵まれない少年だ。


 そんな彼にとって、魔王軍の襲来は絶好のチャンスだった。


「魔王軍を倒せば、誰もが俺のことを認めるはずだ」


 鎧や防具の類いは一切身につけていない。教会の手伝いで得られる金では、この安物を買うだけで精一杯だった。


 外と通じる大門は閉じていたが、その隅にある小門は開かれていた。常時、そこを民兵が出入りしている。皆、屈強そうな肉体に鋼の鎧を纏っている。腰には磨かれた鞘。


「おい、お嬢ちゃん危ねえぞ」


 民兵の一人が避難させようとシャノンの腕を掴んだ。


「俺は男だ!」


 その手を振りほどこうとシャノンは腕を払うが、びくともしない。怯むことなく睨み上げると、その民兵は舌打ちして手を放した。


「死んでも知らねえぞ」


 折角、忠告してやったのに。そう呟いて去って行く民兵の背中を、思いっ切り睨みつけてやった。


 ――絶対に見返してやる。


 シャノンは他の民兵に紛れて小門をくぐり外に出る。そこにはすでに数十人の武器を持った兵士が揃っていた。


 正対する先には人間ではない怪物が群れをなし、唸り声を上げていた。血に飢えた獰猛な瞳が鋭い光を放っている。


 民兵は光を照り返す銀色の刃を振り上げ、号令とともに地を駆けた。大地を揺らすほどの雄叫びをその身に受け、シャノンは身震いを禁じ得なかった。


 それは恐怖ではない。気持ちが高ぶったのだ。心臓が跳ね、口端を曲げる。


 ――ここから始まるんだ。


 柄を強く握り締め、決意とともに剣を抜き払おうとした、そのときだった。


 兵士たちの咆哮を掻き消すほどの爆音が轟く。強烈な風が髪を揺らし、シャノンは思わず目を瞑った。


 辺りは一斉に静まり返り、地面にいくつもの塊が落下する。金属がひしゃげる音が鳴った。悲鳴や唸り声が散乱する。空から振ってきた十数人は重傷を負っているが、死んではいなかった。


 魔王の軍勢は一歩たりとも進軍してはいない。たった一度、指を鳴らしただけだ。それだけでこの有様。


 誰もが怯えた瞳で、この状況を作り上げた本人へ視線を注ぐ。


 毒々しい紫色の長髪が風に靡いた。陶磁器のように白く滑らかな肌。わずかに尖った耳。胸元の開けた服から覗く小ぶりな胸と、短いスカートを膨らませる形の良い大きな臀部は注目に値する。だが、一層目を引くものが別にあった。


 小さな頭部から生える捻れた牛の角と、お尻からひょろりと伸びる先端の尖った尻尾。


 シャノンは喉を鳴らした。その姿は、教会の書庫で見た古本に載る容姿に酷似していた。


「――魔人」


 それは人類を滅ぼし、この世界を支配しようと企む魔王の血族。魔人と呼ばれる彼らの特徴は、人間のような姿でありながら、その身に角と尾を持つというものだ。


 魔人は魔法を得意とする。先ほど指を鳴らして大爆発を起こしたのも魔法だろうと、シャノンは彼女を双眸で捉えた。


 彼女は不敵に笑い、腰に手を当てる。その所作は戦場の緊迫感を纏っておらず、余裕を漂わせていた。


「まったく、つまらないわね。これだから下等種族は」


 長髪を後ろに払い、口元に勝ち気な笑みを浮かべる。


「我が名はファリレ・ウーヌス・リヒトルヴァリエ。リヒトルヴァリエ王国の第三魔王女よ」


 リヒトルヴァリエ王国は魔王が統治する国だ。そこでは魔族が文明を築き、人間は奴隷として扱われている。捕虜となれば命が擦り切れるまで労働を課され、戻った者は一人としていないという。


 兵士たちは恐怖を撥ね除け、己を奮い立たせようと雄叫びを上げる。駆け出した一人の勇気ある者を筆頭に、続々とファリレに向けて殺到する。


 だが、彼らは十メートルも近づくことは許されなかった。荒れ狂う風によって無様に吹き飛ばされる。


 それを引き起こしたのは、またしても彼女の指の一鳴らし。強力な魔法の発動には詠唱が必要なはずだが、ファリレは一切口を動かしていないように見えた。


 シャノンはその光景を目の当たりにし、剣を抜けずにいた。柄を握りしめた指が色をなくしていく。


 今まで、戦闘に参加したことは一度もなかった。間近で戦いを見るのはこれが初めてだ。


 肌で感じる暴虐の余波。


 漂う鉄の匂い。


 身を凍りつかせる恐怖。


 そのどれもが新鮮で、どれもがシャノンの自由を奪った。震える手は剣を鳴らすだけで、自らの意思で動かすことは叶わない。


 勝てるはずがない。そう思ってしまった。


 屈強な民兵たちが、赤子の手を捻るような手軽さで少女に倒されていく。それを目の当たりにして、勝機を見い出すことができるのは勇者か愚者のどちらかだろう。


 シャノンはそのどちらでもない。勇者に憧れるただの少年だった。


 何も、恐怖に身を竦ませていたのはシャノンだけではない。まだ立っている者たちは剣を構えているものの、決してその足を前に踏み出そうとはしなかった。その恐怖は伝染し、もはや誰からも戦意を感じられない。


 だが、それでも撤退することはなかった。彼らは迷い、葛藤を続けていた。


 自分たちが退けば、次は街の中で同じ光景が繰り広げられる。そして、そこで蹂躙されるのは女子供、老人といった抵抗する力も持たない弱い存在だ。あっという間に血の海が広がるだろう。


 そんな彼らの下に、法衣を着た集団が現れた。全員がフードを深く被っているせいで顔は分からないが、彼らは魔王軍の方へ手をかざし、言葉を紡ぎ出す。彼らの手のひらの先に幾何学的な模様が描かれた円が広がっていく。


 それを見た民兵たちは、希望を瞳に宿す。


 勝てる。そんな声すら上がる中、彼らの手から火の塊が放たれた。空気を焼き切りながら、いくつもの炎が一直線に突き進む。


 魔王軍にざわめきが走った。


 しかし、先頭に立つファリレがそれを制す。


 彼女は連続で指を鳴らし、対抗するように無数の炎弾を放った。


 二つの攻撃はぶつかり合い、拮抗する。だが、それはすぐに破られた。


 ファリレの放った炎が民兵たちに降り注ぐ。


 幸い、魔法使いが風でそれを吹き飛ばしたおかげで、炎に焼かれた者はいなかった。

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