公衆電話

QAZ

その五十九話

 これはつい先月のことだ。僕は噂で・・・誰から聞いたかももう忘れてしまったけれど、とにかく噂で、その公衆電話で電話をかけると異世界に飛ばされてしまうって話を聞いたんだ。おっと、なんてありきたりな噂なんだろうという突っ込みは無しだよ。ありきたりだろうと、そういう噂があるってことが大切なんだ。怪異とか恐怖というのは、そこにあると多くの人が認識しているって事実が大切なんだから。そう、例えば今やだれも恐怖しないような、人面犬だって、本当に目の前に現れたら、誰だって恐怖するだろうからね。

 とにかく、だ。そういう公衆電話の噂が立っていたんだけど。噂の公衆電話は近所の寂れた公園の中に立っている、電話ボックスの中にある。電灯が1本だけ立っていて、夜、その電話ボックスだけが照らされていた。錆が浮いた扉を開けて、中に入る。もうずっと誰も使っていないからか、かび臭いような、埃臭いようなにおいがした。このあたりには電灯が全然ないから、電話ボックスの中から外の様子は何もわからない。電灯の光が照らされて、ほんの少し地面が続いていることが分かる以外には、その光が帰って闇を強調してしまい、なんの輪郭も探ることができないように思われた。

 僕は早速受話器を取って、通話がかけられるのか確かめてみた。自分の携帯電話にコールすると、着信音が鳴った。確かに、一応は使える公衆電話みたいだ。噂では電話番号は”なんでもいい”って言ってた。とにかくコールすると、異世界への扉をノックすることになるらしい。そしてコールしてしばらくした後、”何か”が出るんだとか。自分の携帯電話なら、その”何か”が出たかどうかははっきりするはずだ。


「ぷるるる・・・ぷるるる・・・」


 でないな。やっぱりあれは、噂に過ぎなかったのか・・・


「ぷるるがちゃっ」


 心臓が跳ね上がる。そんなありきたりの展開、あってもいいんだろうか?僕は自分の携帯電話に一瞬たりとも触れていない。しかし、電話は”何か”が出た。鼓動が耳を叩く。心臓が口からはみ出てきそうだ。


「アッ・・・あのっ・・・あなたは・・・誰ですか!」


 電話口で、もにょもにょっと何かが呟いた気がする。耳を澄ませるが上手く聞き取れない。こちらの問いかけに何か反応しているような気もする。心臓はもう口から飛び出ている気がする。汗が吹き出し、喉が渇く。


「えぅッ・・・がくっ・・・か・・・ききっ・・・」


 そんな言葉にもならないような途切れ途切れの声が聞こえたかと思いきや、ブツっと切れてしまった。誰かの悪戯・・・ということは無いだろう。僕の携帯電話だ。電波の混線か・・・いや確かに着信は来ていたし、これは明らかに異常な現象だとしか思えなかった。なんとなく、思考が停止して、しばらく立ち尽くしていた。恐怖心が少しずつ胸の中に芽生えてきて、根を張り始めている。心臓の鼓動は少し落ち着いているが、吐き気にも似たような感触が続いている。僕は不安をぬぐいたくて、自宅に電話をした。もちろん携帯電話でだ。電話はすぐにつながった。つながったんだ・・・。


「えぅッ・・・がくっ・・・か・・・ききっ・・・ブツっ」


 公衆電話で聞いた音声と同じだった。背中の産毛が逆立つのを感じる。額から汗が垂れる。漫画みたいな見た目になっているに違いない。何も言葉にできなかった。公衆電話のボックスから外に出るべきか迷った。もし異世界に来てしまったんだとしたら、このボックスを出たら二度と生きて帰れないのではないかという疑問もあったが、とにかく家に帰りたかった。

 帰り道、ところどころにある看板の文字がおかしかった。漢字とかなのように見えるけど、読めないのだ。人は普通に生活しているのに、僕とすれ違ってさえいても僕のことはまるで見えても居ないかのようだ。自宅に着くと、家族は仕切りに電話したり、部屋をうろうろしたりしている。いつまでも家に帰ってこないのでおそらく僕を探しているのだ。僕は必死になって家族に声をかけたが、家族もまた、まるで僕のことなど見えていないかのようだった。飼い猫のミケだけが、僕のことが見えているようだった。家族は触ってもまるで気に留めないようだったが、ミケは撫でると嬉しそうに喉を鳴らした。


「・・・っと。そんなことしてる場合じゃあないよな・・・。」


 とにかく家に帰る方法を探さないと。あの公衆電話にかけなおせば、もしかしたら逆にこの異世界から抜け出せるかもしれないと思ったが、あの公衆電話の電話番号など知らないし、携帯の着信履歴からは折り返しかけることも出来なかった。僕はこのままほんの少しズレたこの世界に居続けるんだろうかと思うと不安で心細かった。どの電話番号にかけようとも、聞こえてくる音声はすべて同じだった。なんの手掛かりも無い僕は一生懸命その電話の音声を聞き取ってみることにした。ただの思い付きではあったが、他に有効な手段も思いつかなかった。この電話だけが僕と異世界と現実世界をつないでいるように思えた。


「えぅッ・・・がくっ・・・か・・・ききっ・・・ブツっ」

「えぅッ・・・がくっ・・・か・・・ききっ・・・ブツっ」

「えぅッ・・・がくっ・・・か・・・ききっ・・・ブツっ」

「えぅッ・・・がくっ・・・か・・・ききっ・・・ブツっ」

「えぅッ・・・がくっ・・・か・・・ききっ・・・ブツっ」



 何度も聞いていると、断片的にだけれど文章になる言葉をしゃべっているように思えた。”えいえんがくる かえりたきゃ かわれ かけろ”って言ってるみたいだ。でも、どこに?なんとなく落ち着かなくて、電話をかけ続けている間歩いていたら、あの電話ボックスの前まで来ていた。友人が一人、電話ボックスの近くにいる。きっと、僕を探しに来たんだ。

 その時不意に、あの音声はどの番号から流れているのか気になった。どの番号にかけても同じ音声が流れるなら、どの番号を押してもかかっている先は同じなんではないだろうか?もしかすると、この公衆電話にかかっているんではないだろうか?直感でそう思った。僕は携帯電話を取り出して、電話を掛けた。番号は自分の番号だった。コール音がずっと鳴り響く。さっきとは違って、中々電話がつながらない。目の前で、友人が電話ボックスのほうに視線を向けている。たぶん、今、この電話はあの公衆電話につながっているに違いない。僕は心の中で友人が出ることを祈った。これで彼が帰ってしまったら、僕は永遠にこのわけのわからない世界を彷徨い続けるような気がしていた。友人が一歩踏み出すごとに、心の中で”出ろ”と念じた。


出ろ


出ろ


出ろ


出ろ


出ろ


がちゃっ


「出た」

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