イングリッシュラベンダー

 人間が書いた旧約聖書によれば、ヘビにそそのかされたイヴとアダムは知恵の実を食べ、恥じらいを知った、とある。そうして原初の人間は楽園を追放された訳だが、彼らを誘惑した廉で、ヘビも腹這いで生きていくことを余儀なくされたと言う。

「しかし、なぜヘビは彼らを誘惑したのだろうね」

 私の言葉に、向かいに座る黒髪の男が笑う。

「誘惑に理由なんてないだろう。そいつはただ、誘惑という誘惑に駆られたんだ」

「誘惑という誘惑?」

 戸惑う私に、誘惑を主な仕事とする悪魔は、ますます笑みを深くする。

「こいつを誘惑したらどうなるのだろう、という好奇心のようなもんだな。その胸のうちに秘められた願望を暴きたて、罪悪感と羞恥心に苛まれながらも欲望の充足に満たされる、その姿を見たい……そういう誘惑に駆られることが、俺にもある」

 急に話題がすり替わった気がして、思わず胸を押さえた。男の、ヘビのような赤い瞳孔に捕らえられ、なんだか落ち着かない。

「まあ、お前にはそういう感情は理解できないのかもしれないな。誘惑から人々を遠ざけるのが、天使の役目だ」

「それは……」

 そうだ、とすぐに肯定し切れないのは、私の中に、ひとつの欲望があるからだ。それは即ち、誘惑への誘惑。

 目の前の男に誘惑されたい、という、天使としてはあまりに罪深く、恥ずかしい欲望。

 しかし、それはとても……恐らくは禁断の果実のように、甘い。そして喜ばしいことに、今の私には、それを罪深く感じる必要はないのだ。

「……私にも、分かるような気がするよ」

 そう答えると、男は驚いたように眉を上げ、次いで目を細めた。

「そいつは今後も誘惑のしがいがあるってもんだな」

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