カキツバタ

「国民の幸福指数」が低下し続ける我が国で、政府が全国民に支給し始めたのは、幸福になる薬だった。虹色をした指先サイズのカプセルは水で簡単に飲みくだすことができ、瞬く間に、私たちの身体の隅々まで、幸福を行き渡らせる。

 人々は穏やかになった。犯罪は激減し、警察官は暇になった。私たちは仕事でストレスが溜まっても、1日の終わりに薬を飲みさえすれば、また次の日も笑顔で出勤できた。「国民の幸福指数」は上昇し、喧嘩や怒号というものは、世間から忘れ去られようとしていた。

 しかしあるとき、政府が講じていた乱用防止策の、抜け道を探り当てた人間が現れた。その人物は『今こそさらなる幸福を』と、ネット上でその抜け道を大々的に発信した。1日に定められた量しか配給されない薬の効能を劇的に高める方法は、すぐに国中に知れ渡った。政府が情報を閉鎖しても無駄だった。

「だって、幸せって気持ち良いじゃん」

 ランチをともにしていた友人が、ロレツの回らない舌でそんなことを言う。待ち合わせ場所に現れたときから、なんだか違和感はあったのだ。食事を始めてから段々と様子がおかしくなり始め、今やその目の焦点はまったく定まっていない。

「あんた、まさかアレ試したんじゃ……」

「もっと幸せになりたいと思ったの、あんただってそう思うでしょ」

 頭をガクガク揺らしながら、口の端から涎を垂らしながら、友人はサラダを口に運ぶ。ドレッシングのかかったレタスがフォークから落ち、友人はフォークだけを口に咥える。

 気がつけば、周りの席の人間の多くが、似たような状態になっていた。言葉にならない唸り声を上げながら、全員の視線が天井に向いている。あまりのことに席から立てない私の目の前で、彼らは次々と歓声を上げて、椅子から飛び上がり、そのまま床に倒れ伏した。もう、誰も、身じろぎひとつしなかった。

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