ムラサキケマン

ムラサキケマン

 愛する妻が死際に言い遺したのは、「必ずあなたの役に立ちます」という言葉だった。日ごろから下級武士である我が家を取り仕切り、少ない俸給でやりくりしてくれた彼女だったから、今そんなことは気にするなと声をかけた。しかし彼女は気丈な眼差しを緩めることなく、床の上から私を見上げた。

「あなたをこのような低い身分に貶めた、あの輩に復讐するのです。私が死ぬのは、常日頃から少しずつ毒を口にしていたからです。私が死んだらこの血を抜いて、あの輩の料理に混ぜてやりなさい。露見する心配はありません」

 そんな恐ろしいことを、と慄く私の腕に、妻はしがみついた。

「このような暮らしをいつまで続けるおつもりです。貧乏のせいで、私たちには子もできなかったのです。恨みを晴らせないのなら、私の死も無駄でしかありません」

 鬼気迫る表情に、私は恐れをなして頷いた。妻はようやく満足そうに目を閉じて、そのまま逝った。どうしたものかと迷いに迷ったが、死を前にした女の頼みをむげにも出来ず、知り合いの医者にこっそり頼んで血を抜いてもらった。

 それからは、ひとりで黙々と勤めを果たす毎日が続いた。朝に夕に私を労いいたわってくれた妻の存在の大きさが身に沁みたが、棚の奥に大事に仕舞ってある小瓶を思うと、なぜだか胸の奥が暖かくなった。

 復讐をしろ、と妻は言ったが、私を貶めた武士は流行病はやりやまいで呆気なく亡くなった。もとよりそのような恐ろしいことは私にはできない相談だった。

 今はただ、妻が生きていたという証が傍にあることそのものが、私の支えになっているのだ。

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