オキザリス

 彼女の重みが失われていくのを、背中で感じる。聴き慣れたはずの声を忘れて、もう幾日経つだろう。戦に追われ、ようやく住み慣れた新しい村を着の身着のまま逃げ出して、二人でどうにか故郷へ帰ろうと決めたあの日のことが、遠い昔のようだ。

 険しい峠や山道に、着物も身体もすぐにぼろぼろになった。長く黒々としていた彼女の髪はあちこち絡まり、乾いてぱさぱさになり、潤いのあった瞳からは涙の一滴も流れなくなった。力だけが自慢だったおれは、彼女が足を怪我してからずっと、その細い身体を背負って歩き続けてきた。

「ごめんな、おらが死んだらさっさと放り投げてくれな」

 最初は笑い飛ばしていた言葉だったが、だんだん相槌を打つことすらできなくなっていった。最後に腹にものを入れたのがいつだったか、朦朧として思い出せなくなってきた。彼女の沈黙も、次第に長くなっていった。彼女の足の怪我は化膿し、蝿がたかり、おれの首の後ろから、いやな匂いが漂ってくるようになった。それは死の匂いだった。

 どうにか川の近くにたどり着き、新鮮な水をその口に含ませてやろうとしたとき、彼女の目に、消え入る前の炎の揺らめきのような光がちらりと戻った。その、ひび割れた唇が微かに動いた。

「おら、もうだめだから……ここに……」

 投げてくれ、と言っているのだと分かった。おれの荷物になりたくないのだと。だからおれは、まだこうして彼女を背負っている。

 あと、もう少しなのだ。この坂道を上り切れば、かつて二人で登った、村のお山が見えてくるはずだ。あのとき見たお天道様の輝きを、おれはかたときも忘れたことがない。お前もそうだろう。

 それを見るまでは、決して、背中の軽すぎるものを降ろすような真似はしない。

 あと、もう少し。

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