ネモフィラ

 姉上は美しく聡明で、将来、この国を負って立つにふさわしい姫君だと、王族の中でも噂されるほどだった。如才なく立ち回り、王族としての気品ある振る舞いを完璧に身につけた姉上は、妹の私にもいつも優しく、どんないたずらで困らせたとしても、許してくれた。それは、長じた今でも、なお。

「姉上! ここはもう危険です、城壁は既に民衆の手で打ち破られました……!」

 私が息荒く報告すると、姉上は優美に立ち上がった。明るい額には曇りひとつ浮かばず、私の気ばかり先走るようだ。

「そうですか……お父様は」

「城内も混乱していて、連絡系統が機能していません。とにかく、姉上だけでもお逃げに」

 私の先導に素直に従う姉上は、飽くまで普段どおりの姉上だ。中庭で火の手が上がったのを確認しても、民衆が放った石の礫を目の当たりにしても、小さな悲鳴のひとつも上げない。先ほどから胸が早打ち、じわりと汗が滲むのを感じている私は、その堂々たる姿に苛立ちさえ覚え始めた。

「ここが隠し通路に通じています。さあ姉上、先に行ってください」

 私が示した小さな階段に足をかけ、そして姉上は優雅にこちらへ振り返った。

「私はあなたを許しますよ」

 息を呑む。よろめいて、廊下の壁に背中を預けなくては、立っていられなかった。姉上の、昔から変わらない慈愛の眼差しが、私の胸に重石を投じる。

「あ、姉上……何を仰っているのか……」

「あなたは昔から、王族とは相容れない考えを持っていましたものね。あなたの話す平等という言葉が、私は好きでした。その礎になれるのなら、私は幸せなのですよ」

 膝が震える。思わず跪いた私の頬をそっと撫でて、姉上は微笑んだ。澄んだ青い瞳の中に、溢れんばかりの愛情と、ほんの少しの悲しみとが混ざっているのを、私は呆けたように見つめた。

「私はあなたを許します。ですから、何も気にしないで……幸せになって」

 そうして姉上は、中途で崩れている筈の、小さな階段を降りて行った。暗がりの中へ消えてゆく背中が、水の底で滲んで揺れた。

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