ナナカマド

 さっきまで確かに空は晴れ、海は澄んで穏やかだった。しかし強風に流されてきた灰色の雲が土砂降りを運んで、瞬く間に海は荒れ始めた。小さな船が冗談みたいに揺られて、船べりに捕まっていてもそのまま水に落とされてしまいそうだ。

「旦那! ローワンを!」

 踏ん張って舵を取る船長に突然呼び掛けられ、戸惑う。ローワン、という言葉が何を指すのだったか、すぐには思い出せなかった。

「あいつですよ、白髪の!」

 船長の怒鳴り声に、ようやくその存在を思い出した。まだ幼さの残る、白髪の少年……或いは少女。船を雇う時、仲介人に勧められて、よく分からないまま乗せることになったのだ。甲板を捜すと、隅の方に蹲っているのが見えた。良かった、どうやら無事だったみたいだ。

「船長! あの子をどうすると……」

「落とすんでさあ!」

 またもや私の思考は停止した。落とす? この荒れ狂った海の中へ?

「ローワンは海を祀る民の末裔! あいつらを生贄にすれば、どんな荒れた海も一瞬で収まるんで! だから早く!」

 仲介人が、あの子どもを「雇う」ではなく「買う」と表現した理由に、ようやく合点がいった。私は船長に背を向け、手すりに捕まりながら、白髪の子どもの側へ近づいて行った。

 子どもは不思議に澄んだ色の瞳で、揺れ軋む船の様子にも気がつかないように、遥か遠くを見つめている。けれど、みすぼらしい衣服から剥き出しの細い腕が、絶えず震えているのが分かった。この子は、自分がここにいる理由を理解しているのだ。

「旦那! 早く!」

 私は震える子どもの手を取り、そのまま一緒に海へ飛び込んだ。

 

「なんだってあんな無茶をしたんです」

 全く肝を冷やしましたぜ、と船長はぼやく。小さな船室で、私は苦笑いをこぼした。

「泳ぎには自信があったんですよ。船長の言葉が本当なら、少しの間耐えれば、きっと凪ぐはずだと」

「でもそんな……こいつを落としさえすれば」

「じきにこの国を任されようという者が、人命を犠牲になど出来ませんよ」

「え……? ま、まさか旦那……いや、貴方様は」

 私は口に指を当て、船長の言葉を止めた。隣で安らかな寝息を立てている子どもの、眠りを妨げたくは無い。船はさながら揺り籠のように、静かに揺れた。

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