1.わたしの日常

「清香おはよう。」学校の門まで続く真っ直ぐな緩やかな坂。太陽が顔を見せ心地よい風が吹く。

「あ、瑠美おはよう。」

「今日の数学の課題やってきた?私全然わかんなかったの。教科書開いた瞬間から睡魔が…」

「もう、相変わらずなんだから。いいよ。教室に着いたらみてあげる。」

「やった。さすが清香様。持つべきものは天使のような親友だよね。」そう言う少女は肩にかかる栗色のウェーブがかかった髪をなびかせた。一般的に言っても彼女は可愛いの類いに入るだろう。髪と同じ栗色の瞳はまるでどんぐりのよう。くっきりとした二重がそれを強調する。口は薄桃色でよく笑う。いささか低い鼻はその顔をより愛らしくみせる。

 二人は並んで緩やかな勾配を進む。身体のラインに沿った白いシャツ。濃紺のジャケットに膝下までのプリーツのスカートが揺れる。桃色の風が吹く。「風が気持ちいね。春のいい匂いがする。」瑠美が言う。

「うん。そうだね。」少し間があったような気がした。しかし瑠美はそんなこと気にも止めない。今日の数学の課題が再び頭をよぎり、教室に向かう足取りを重くさせたからだ。周りが賑やかになり、生徒が増えてきた。門の前には青のジャージを着た教師が立っている。昨夜は仕事に追われていたのだろうか。目元が少し紫色になっている。そんなことはお構いなしに生徒は軽く挨拶をして門をくぐる。朝練だろうか。生徒が空色のウェアでコースを走っている。きっとサッカー部だろう。清香の通う学校は都立の中でもそこそこサッカーの強い名門校だ。サッカー部の生徒はみな同じ空色のウェア持っている。それらを横目に二人は歩いた。

 下駄箱でサンダルに履き替える。普通なら上履きを履くのであろう。しかしこの学校ではトイレにあるようなサンダルを履く。学年によって色の異なるトイレサンダルだ。生徒が校舎ないを走らないのが目的らしい。どんなに制服を着こなしてもどこかダサくしてしまうのだから素晴らしい。初めこそ非難の声が出たがあっという間にその声は聞こえなくなった。しかしやはりどこか負に落ちない。

 教室につき、後ろのドアから入る。真っ直ぐ進んで窓の横。一番後ろの角が清香の席だ。隣の席の男子は今日も机に伏せている。ジャケットが静かに上下する。てっぺんの髪が少しはねている。どうしたらそんな寝癖になるのだろうか。隣の席になってからほとんど口を聞いたことがない。いや、一言もない。むしろこの教室で声を聞いたことのある人はないに等しい。いつも寝ているからだ。廊下にある成績の表で一番上に名前がある。頭はいいのであろう。

 キャメル色のスクールバックから教科書をしまう。「清香おはよう。」後ろにいた女子三人組が声を掛けてきた。「おはよう。今日もみんな髪さらさらだね。」振り返り笑顔で返した。三人は満更でもないように微笑み、髪を手櫛でといた。

「早く教えて。」前の席の椅子にまたがり清香の席に数学の教科書とノート、筆箱を持った瑠美がやってきた。「もちろん。」と言いながら席につく。数学は割と好きだ。答えは一つしかないし、必ず答えかま決まっている。解き方も基本に忠実に沿ってやればいいし、応用的なやり方を用いてもいい。逆に作者の意図を謎解く国語は退屈でしかない。なんて答えれば出題者は喜ぶのか大方の予想がつく。こんなものを解くことが将来どんな役に立つのだろうか。どうせ人の気持ちを考えるのだからいっそのこと心理学と名付ければよいのに。

 問題を解説しながら瑠美に解かせる。瑠美が考えている間、ふと窓の外を見る。なんの変哲もないいつもの日常だ。

 八時二十分を過ぎるとると生徒は自然と席につき出す。二十五分になると教師の足音が聞こえる。それを追い越す走る足音。ガラガラっと扉を開きすぐ席につく男子生徒の集団。みな肩で息をしている。上下する身体に合わせて爽やかな匂いが香る。今流行りの制汗剤だろう。アイドル出身の女優とテレビや雑誌で目にする若手俳優がコマーシャルに出ていた。青春をもっと爽やかにがテーマとなる制汗剤。ほとんどの学生が一度は手にしたであろう。レモンイエローのボトルにスカイブルーの蓋がついたボトルは柑橘系の香りがする。美味しいレモンの匂いが鼻をかすめる。この商品が出てから教室中がこの匂いで溢れた。床に投げるように置かれた白いエナメルのバック。男子生徒はみな同じものを持っていた。サッカー部の生徒だろう。ローマ字で書かれた学校名の横にsoccerという文字が刺繍されている。カバンを見なくともサッカー部の生徒は大体わかる。みなどこかのサッカー選手の髪型を真似サイドは坊主で中央の髪はワックスでセットされている。この学校の男子の大半はサッカー部で占められている。サッカーの実力によりチームが決められ、練習内容が違うらしい。そのチームの位置がクラスでの立ち位置を決めているようだった。男子生徒達は互いに席につきながら周りにいる同じ格好の生徒と談笑する。しかしチームが違うからか近くの生徒といっても近ければいいわけではないらしい。それぞれ選り好みして話しかけているように見えた。

 二十五分を少し過ぎたころ教師達が扉を開ける音が手前から次々に聞こえた。廊下の突き当たりにあるこのクラスは一番最後に扉を開ける音がした。朝のホームルームが始まり、教師が連絡事項を告げる。今日は図書委員の集まりがあるとか、来週は集会があるとか。ある程度の話が済むとホームルームは終わった。生徒達は自由に動きながら一時間目の準備をする。

 八時四十五分になると生徒はまた静かに席につく。さっきとは違う教師が教室の扉を開ける。薄い青色のワイシャツに真っ白な白衣を身に纏う科学の教師だ。この学校ではチャイムは一切鳴らない。生徒達が自ら時計を見て自主的に行動するのを習慣づけるためだ。初めこそ少し遅れる生徒はいたが、皆あっという間に慣れた。ただ小、中と聞いてきたチャイムが一切聴けなくなるのはどこか寂しい気もする。唯一なるのは高校入試のテストの間だけらしい。推薦で入ってきた清香はそれすらも聴いたことがない。しかしスマホという便利な機器を皆がもつ現代において時計を見る習慣がつくのはいいことだと思う。教室の時計達は一秒のズレも起こらぬよう全て電波式時計になっているらしい。ズレがない正確な時計は時計がズレてて思ったより早く授業が終わるなんていうちょっとした楽しみすら与えてくれない。ただ機械的に時を刻んでいく。

 四時間目まで終わりお昼の時間がきた。清香はカバンからお弁当の入った小さいバックとお財布、スマホを持って席を立つ。同じように瑠美がすぐにやって来て二人は教室を出る。廊下を進み、下駄箱の横にある自動販売機で飲み物を買う。瑠美はパックのイチゴミルクを買ったようだ。「清香はジャスミンティーでしょ。」お瑠美が百二十円を入れボタンを押した。「ありがとう。でもお金は返すよ。」「いいのいいの。朝のお礼。おかげで先生に怒られずに済みそうだし。」そう言いながら瑠美は歩きだした。そう言うことならありがたく受け取っておこう。小走りで瑠美の元に行きお礼を言いながら隣を歩いた。

 中庭を通り花壇の前にあるベンチに腰を下ろした。コの字型の校舎の中にある中庭は教室の窓から見下ろすことができる。文化祭では中庭ステージとしてダンス部や吹奏楽部が演奏をしている。校舎のおかげで日陰になり、この季節には快適だ。瑠美の提案でここで食べるのが日課になった。彼女曰くピクニック気分になれるそうだ。初めのうちはレジャーシートまで持って来るほどだったが、あまりの恥ずかしさに辞めてもらった。ジャスミンティーのペットボトルの蓋を開け口に含む。優しい花の香りが口全体に広がる。隣でイチゴミルクのパックがプスっとストローのさす音がする。

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