第4話 Hole in the Earth

 私は暗い路地へと入った。


 空き地が現れたかと思うと、奥に古い団地が立っていた。

 塗装とそうがあちこちげ、コンクリートがき出しになっている。

 歯抜けのように立つ外灯がバチッバチッと音を立てて点滅していた。

 雑草が生命力のままに蔓延はびこっている。


 そもそもここは人が住んでいるのだろうか。

 こわごわと中を覗くと、一応電気は付いていた。

 暖色が逆に寂しい、古い蛍光灯。

 郵便ポストの多くはガムテープで口がふさがれていて、塞がれてない所には例外なく大量のチラシが押し込められていた。


 ウェッホエッホという音が、突然こだました。

 痰がしつこく絡んでいるように、何度も。

 ……さっきのあいつらと同じだ。


 もう、彼の喉から発せられた音の気がしてならない。

 声を聞いたこともないのに。

 完全な直感だけで、私は建物へ足を踏み入れた。


 無謀なことをしている。

 不審者かもしれない。今度こそ襲われるかもしれない。


 なのに、奇妙な興奮で腕の肌が粟立あわだつのを感じた。



 吹き抜けの非常階段。

 二階と三階の踊り場のようなスペースで、彼はへたり込んでいた。

 投げ出された素足が土埃つちぼこりで汚れている。

 ……本当に、裸足で逃げてきたんだ。


 彼は目だけで私を認め、ぎょっとしたように一瞬肩を震わせた。


 虫の鳴き声がこだましている。

 少しの間、私達は見つめ合っていた。


 切れかけの蛍光灯の光で、いくぶん彼の顔がよく見えた。

 眉毛が細い。

 ……じゃない、顔の左半分。

 顎からエラにかけて赤黒く腫れている。

 真一文字に結ばれた唇の端には血がこびり付いていた。さっきは全く気付かなかった。


「……大丈夫? すぐに警察呼ぶ」

 駆け寄る私に、彼は心底うんざりという顔を向けた。

「やめてよ。ケーサツとかマジでメーワク」

「でもすごい腫れてる。骨折れてるかもしれない」

「折れてねえ。いいからさっさと行けよ」

 シッシと手で追い払われ、私はかえって強気になった。


「行かない。私、家出してきたの」

「……家出?」

 ゆっくりとくらい目を上げ、鼻で笑った。


「お前んち知ってるよ。タワマンだろ、駅前の。金持ちはいいな」

 冷たい壁が突き立てられた。

 知ってると言ったその声で私を断絶する。


 しばらく声が出なかった。


「……別に、金持ちじゃない」

 やっと出た言葉に嫌気が差した。精一杯の反応だった。


「帰れば誰かいて、メシが出てくるヤツはみんな……っつー」

 唐突に言葉を断ち切り、顔をしかめて頬を押さえる。

 今度こそ私はスマホをつかんだ。


「やっぱ警察呼ぶ。や、救急車」

「ちょっとジュース買ってきてくれる」

「え?」

「出てすぐんとこに自販機あるからよろしく」

 そう言ってスウェットのポケットからくしゃくしゃの札を何枚か取り出し、一万円札を抜いて突き出した。


 その一連の無駄のない動きに、私は血が冷えた。

 エスの金。持ち逃げ。

 後ろめたさなんてとっくに打ち棄てた、澄みきった目。

 振り切るように私はきびすを返し、夢中で階段を駆け下りた。


 頬がヒリヒリする。

 湿った夜風が肌にまとわりつき、せき立てられるような苛立ちを感じた。


 何かのステーションみたいに、赤い自販機が立っていた。

 光る面と向き合い、息が上がっていることに気付く。

 ……そういえば、私は走ってきた。


 いつの間にか痛みが引いている。

 骨が折れてないことは分かっていたけど、捻挫ねんざでも打撲だぼくでもなさそう。

 ……ほら、やっぱり私は大丈夫。

 力を入れて、口角を上げた。


 お金を入れるところに千円札の記号しかなくて、だめじゃん、と思った。

 そのお金じゃ、だめだよ。

 財布から百円を出し、一番でかいマウンテンデューのボタンを押した。

 ガコンと落ちる音が響き渡った。


 しゃがんだまま、どーもと手を伸ばして受け取ると、彼はそれを頬に当てた。

「あー気持ちいー」

 冷やすためだったのかとに落ちる。

 少し離れて隣に座った。別にスカートが汚れてもいい。


 何も言ってこない。

 いてもいい、と勝手に判断する。


 首をほんの少し傾け、きらきらした緑の缶を頬に当てながら、彼はずっと目を閉じていた。

 眠る時もこんな顔をするのだろうか。

 外界のふたを閉じ、痛みに潜水するように。

 その横顔を見つめていたら、私は雷に打たれたかのようにハッとした。


 あの子だ、と思った。


 いきなり、いなかった。

 始業式の自己紹介。修学旅行の班決め。席替えで浮つく列。

 教室に発生する大小の塊に、その空白は鎮座ちんざしていた。

 先生の、○○くんはお休みです。から、今日もいないのね。になるまでの、声のトーンの下降、消滅。

 部活帰り、夕闇の公園にたまる不良の群れ。

 ほらアレ、とひじで小突かれて見た先に、小さな背中が在った。

 アイツやばいらしいぜ。別の誰かがこそっと付け足す。

 けど具体的に何がやばいのか誰も言わない。

 誰も知らないから。

 そういう全てが束ねられ、目の前で像を結んでいた。

 何一つ確証が無いのに、そうだと思った。


 思い出せないのは、名前だけ。

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