揺れる小舟の行き先は
ギィ、ギィ、と
星々を呑み込まんばかりに広がる黄白色の姿形は、かねて見上げてきたバンビー・ヒルのそれよりも遥かに大きい。
アヅマは誰にいうでもなく呟く。
「……さすがはフジの裾野だな」
同じ山中であっても高さが違う。空が近い。当然、月も大きく見える。そう思った。
櫂を漕ぐ音だけが静かに鳴り続け、やがて、パチン、と火打を打つ音がした。
「……バカか、お前は」
ビスキーだった。ボウ、と紙巻き煙草の先が燃える。
「フッツの山中から見るフジは浜辺から見るフジよりでけぇだろ? アレと同じだよ。気のせいだ。月はどこで見たって同じ大きさしてんだよ」
「……では、今、フジがより大きく見えるのは近づいたからではないと?」
ビスキーが呆れたと言わんばかりに煙を吹いた。
「おいおい、よせよ。空の月と海越しのフジじゃ距離が全然、違うだろうがよ。……なんだ、捨念だっけか? そんな大雑把な目ン玉してると惑わされちまうんじゃねえか?」
アヅマは一瞥ひとつくれずに淡々と答える。
「構わない――というより、竹咲捨念流は、受けて切る。目の前に立ち
ゴロン、とプティーが片肘を着くように寝転びながら言った。
「……まあ、なんでもいいやさ。せっかく綺麗に浮かんでくれてんだ、お月さんは切らないで欲しいやねえ」
拍子に小舟が左右にゆすられ、メリアが小さな悲鳴をあげながら
「……それは、今するようなお話ですか!?」
鈴の音のような声に、怒気がはっきり乗っていた。
「よくこの状況でそんなのんびりした話ができますね!」
「なんだい、なんだい、どうしたい。酒のひとつもありゃ完璧だろうさ。違うかい?」
「なんだじゃありません! どうして、どうして敵が船を動かしているんですか!? この船がどこに向かっているか分かっているんですか!? 絶対に安全だといえる保証がありますか!?」
「そうキンキン吼えなさんなって。おつかいはすんだんだ。あとは帰るだけ。私らがついてんだから大丈夫さ。絶対かどうかは知らないけどね。なあアヅマ?」
不意に水を向けられ、アヅマはメリアの顔色を
アヅマはぐいと首を返し、名無しに尋ねた。
「来たときと向きが違う。山を避けて北に出るならフジの側に行くべきだろう」
「……ビッグムーンに行ったことがあるのか?」
名無しの声はいっそうにくぐもっていた。口をもごもごと動かし、ぶっ、と口中に溜まった血を吹き出した。水音が鳴った。
アヅマは顔を戻して答える。
「いや。訪ねたことはない。
「そこの小さな女は竹を渡れるようだが、お前はできるか?」
アヅマは首を横に振った。小さな女という言い方を気にしたか、プティーが首を仰け反らして名無しの顔を
「私にゃプティー・グルングって立派――じゃあねえかもしれないけど、名前があんだ。プティーって呼びな」
「グルング……グルン族か」
「……あん? 知ってんのかい?」
プティーの眉間に皺が寄った。
「里にもグルンの民だった者たちがいる。お前と、竹の渡り方の癖が似ている」
「……私のはフーマ・ニンジャってののやり方じゃないんだけどねえ」
「癖だと言った。――それに、お前のとよく似た刃物を使う」
「だから、お前じゃなくてプティーだっての」
「グルン族だとしたら、その名前は――」
「――それ以上言ったら、その首を叩っ斬る。私にゃ姉貴ばっかり七人もいるんだ。それだけ言えば分かんだろ?」
れきとした殺気は冗談ではないことを示す。
メリアが顔を歪めながら尋ねた。
「……私は、てっきり
「それでいいし、それがいいねえ。ってか、名前に名前以上の意味はいらないか」
「……おい、行き先の話はどうなったんだ?」
ぶすう、と深く煙を吐き出し、ビスキーは短くなった煙草を爪で弾き捨てた。図星を疲れてメリアが俯く。
名無しは櫂に寄り掛かるようにして漕ぎ進める。
「全員が竹渡りをできるならアヅマの言うように西から北上するのが早い。だが、竹渡りができるのは俺だけだ。夜も遅い。素人を連れて夜山を歩くよりも、一晩ゆっくりと体を休めた後、抜け道を行くほうが早い。それに安全だ」
「……つまり、休めるような場所があるってことか? 散々、殺そうとしてきた奴の言うことを鵜呑みにして、はいそうですかと従えって言ってんのか?」
腹に差した短筒を撫でつつ言った。
「穏やかじゃねえなあ。なにから信じりゃいいのかもわからねえ」
「そんな難しいことじゃないさね。私とアヅマを信じりゃいい。一度は格付けも済んだんだ。今のへろへろンなってる名無し如きにゃ負けないね」
強気な言葉に、名無しはため息にも似た息をついた。
「カグヤ様から直々に命を賜った。裏切るような真似はしない」
「そういうことにしとこうか」
プティーは、よっと勢いをつけて躰を起こした。また船が揺れた。
「そんで? 私らをどこに連れてこうってんだい? 私としちゃ、こんな山間まで足を運んだことだし、フジの霊験あらたかなお湯にでも
ふっ、と名無しが鼻を鳴らした。珍しくも、柔らかい音色だった。
「運が良かったなプティー・グルング。この船は、その温泉の在り処に向かってる」
一瞬ぎょっとしてアヅマたちは顔を見合わせた。
名無し、あるいはあの老人――ひいてはカグヤや竹之光教の思想や思惑はまったく読めない。この期に及んでとは思うが、罠の可能性もないではない。湯に入れて気を緩めさせたところで襲う。あるいは温泉は実在するが毒泉の類であるとか。
疑念はいくらでも膨らすことができるが、しかし。
ああ、悲しいかな、バンブーズという生き物は。
「……湯か。湯はいいな」
温泉という場所に、湯浴みという行為に、まったく目がない。
アヅマの目がはるか遠くここではないどこかを見つめる。プティーの瞳からも強気が抜けた。対して、ビスキーとメリアの顔は胡乱げに固まった。
「古い湯治場で、石割の湯という。怪力の湯とも言われる筋の痛みに効く湯だ。湧き出る山には古事記にある
名無しの話を遮り、アヅマは言った。
「
名無しが感心したように頷く。
「……さすがにお前は知っているか」
「いや、言われて思い出しただけだ」
「そういうんなら私も知ってるよ」
プティーが得意げに富士の山を指差した。
「
「……山岳信仰か」
山岳に暮らしてきたプティーの一族なら詳しくもなるのだろう。
神阿多都比売は、またの名を
「……まさか、な」
アヅマは月を映す水面に幻影を見た。その下に蔓延る竹稈の内に浮かぶ、この世の者とは思えぬ美女らしき生き物の顔だ。
「ほんとに、まさかであってほしいもんだよ」
以心伝心というべきか、プティーが、夜空に息を吹きかけた。
アヅマは右手を固く握りしめ、腕を伸ばし、筋を見る。たとえ事実がどうであれ。
「湯はいいな。ありがたい」
痛めた筋に効用があるとなれば、なおのこといい。自然と、頬が緩んだ。
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