出立
アヅマの朝は日が昇るより早く始まる。ほとんど夜と変わらない暗闇に、プティーの寝息がささやかに響く。目をこらせば、服を半ばまではだけ布団を蹴り飛ばした、ある種あられもない姿も認められるだろう。微かに漂う酒の香りに首を振ると、暗闇に慣れた目が倒れた竹徳利を捉える。
「けっきょく一杯やったのか……」
アヅマは無音で身を起こし、徳利に手をかけた。まだ重かった。本当に一杯だけにしたらしい。薄ぼんやりと見えるプティーの寝顔に苦笑し、布団をかけ直してやると、アヅマは音を消して戸外に出た。
まずは日課。旅の支度はその後だ。
家の裏手に回り、服を脱ぎ、組み上げ式ポンプを使って二度の
「……まだまだ未熟だな」
呟き、三度目の水垢離で雑念を殺す。
しばしの瞑想ののち、家の周囲の竹止めに破れがないか見て回り、畑に手を入れ、刀を手にした頃合いに、ようやく家の明かりが灯った。いつもどおり。なにも変わらない。
起き出したプティーが朝食の準備をすませる間に、竹を相手取って刀を抜く。
正眼に構え、心を鎮め、踏み込む。
「エィヤァッ!」
気合に叩き起こされた鳥たちが飛び退り、ずさりと竹が滑って落ちた。
そして。
「……本当にこの格好でいいのか?」
バンブー・ヒルへの道中、アヅマは自分の黒服すなわち仕事着をつまんで言った。朝食の後、これを着てきなと投げ渡されたのがそれだったのだ。
「護衛ったって仕事は仕事だからねぇ。めかしたってしょうがないだろ?」
そういうプティーの服装は、いつもの仕事着に似てはいるが、すこしばかり上等なものだった。ポンチョの、赤、青、紫を織り交ぜた幾何学的な文様はひときわ丁寧な仕事で、
「……プティーはめかしこんでいるように見えるが」
「そうかい? 似合ってるかね?」
プティーが前に出ながらくるりと回ると、ポンチョの裾が扇のように広がり、赤いワンピース状の服が目についた。一族伝統の衣装と言っていた服だ。
「うん。似合っている。それに綺麗だ」
「おっ?」
プティーは意表を突かれたかのように目を丸くしたが、すぐに眉を潜めた。
「……服が、かい?」
「ああ」
「――ったく!」
ベチン! とアヅマの肩を叩き、プティーは腰の鞄から竹煙管を取り出した。
なにか怒らせるようなことを言っただろうかと思いつつ、アズマは旅道具の収まる竹の行李を背負い直す。
バンブー・ヒルのダウンタウンは昼も夜も変わらない――はずが。
その日は、通りに人っ子一人いなかった。
「……なにかあったか?」
「みたいだねぇ……きなくさくって嫌だよ」
昨日の今日、メリアの口にしていた追手のことが頭をよぎるが、それ以上に、
「……困ったな……畑の手入れを頼んでおこうと思ったのだが」
「そっちかい?」
プティーは苦笑した。
「ま、一週間も二週間も行ったきりってわけじゃなし、どっかで手紙でも出しときゃいいだろうさ。とにかく今は駅に行っとくとしようよ」
「うん」
アヅマは首を小さく縦に振った。ふたりはダウンタウンを通り抜け鳥居の前に出た。門番に尋ねてみたものの、なにも伝えられていなかった。
ミッドタウンに出るといぶかしさはますます大きく膨れ上がった。
いくら朝はおとなしいといっても、仲見世通りに酔っ払いのひとりもいないとは。
アップタウン前の鳥居には門番が増え、
「……どう思う?」
龍の巻きつくバンブー・ビルを横手に見上げて、プティーが言った。
アヅマたちは指示通りに裏手に大きく回り込むようにして裏の階段を降りていく。
「分からん。――が、どこかに行かされるのは間違いない」
「まぁそりゃそうだろうけど……」
「メリアが心配か?」
「えぇ? いやぁ、そういうんじゃない……とは思うんだけど……ねぇ?」
歯切れの悪いプティーの瞳を見詰め、アヅマは極マジメに言った。
「人を気にかけるのは恥ずかしいことじゃない」
「恥ずかしかないさ。けど……まぁ、いいや。行こう」
ではなんだろうかと思いつつ、アヅマは黙って前を向いた。
バンブー・ヒルで出会った当初からそうであったが、プティーはオークスについて語るとき、常に小さな葛藤を滲ませる。不倶戴天の敵として語りながら終わりを濁し、良き隣人として語りながら自嘲気味に誤魔化す。
敵味方のどちらかに振り切れというつもりは毛頭ないが、いったいなにが彼女をそうさせているのか疑問には思う。そう長い時間をともに過ごしたわけではないが、互いに背を合わせ命を預け合う仲、悩みを打ち明けてくれてもいいのでは、と。
だが、同時に、当然かとも思う。
竹咲捨念流次期当主として生を受け、オークスの無理難題に応える内に両親が命を落とすのを見たアヅマにとって、彼らは信用のならない種族なのだ。先代の教えに習い私怨は捨てようと努めてきたが、当て所のない放浪のうちに思いは強くなるばかりだった。自然、未熟であるがゆえに、態度に出てしまっているのだろう。
そんな自分が情けなくもあり、とはいえ話してくれない相棒に一抹の寂しさもあり、アヅマは複雑な顔をして竹藪の裂け目に伸びる蒸気機関車の
「――アヅマ。……アヅマってば!」
プティーの呼びかけにはっと顔を上げると、いかほどの時間が経っていたのか、ちょうど駅の
「ったく、瞑想もいいけどさ、しゃんとしてくんなきゃ困るよ」
とん、と胸元を人差し指で突かれ、アヅマは背筋を伸ばした。
「すまない」
プティーは訝しげに眉を寄せると、しばらくじっとアヅマの顔を見上げて、
「……ま、いいけどね」
と、諦めたようにビスキーのほうへ首を振った。彼に先んじて護衛がふたりがホームに降り立つと、油断なく目を光らせ、アヅマたちを睨んだ。。
追いついてきたビスキーが護衛の肩を叩いてどかせ、疲れた顔で片手を上げた。
「時間通りにきてくれたようでありがとうだよ、竹屋」
「竹屋じゃなくて竹切り屋。……なんかあったかい? 顔が死んでるよ」
「そうだよ。とっくに死んでんのに躰が気づいてくれねぇんだ」
ビスキーの気怠げな軽口に、メリアが怯えたような愛想笑いを浮かべた。
「昨晩おそく、ちょっとした騒ぎがあったんです」
「騒ぎ?」
プティーが眉を跳ねると、ビスキーは嫌そうにメリアへ振り向いた。
「メリアさん。頼みますよ……」
「あ、すいません……!」
縮こまるメリアに、プティーは眉間の皺を深くする。
「ちょいと。追手が来てんだとしたら――」
「ちげーよ!」
ビスキーは急に声を荒らげ、腰をくの字に曲げてプティーを睨んだ。
「手前ぇが、ジャックさんにあんなことしやがっから、バカなバンブーズどもがイキっちまったんだろうが」
「――あぁん?」
プティーが声を低めて首を突き出――そうとして、はたとアヅマを見上げた。
分からん、とアヅマが首を左右に振ると、ビスキーは腰を伸ばしながら言った。
「言葉通りだよ。手前ぇがジャックさんに刃物なんざ投げっから、首を取れると勘違いした頭カラッポのバンブーズが出まくって大粛清パーティだよ、クソったれ」
「――へぇ?」
プティーはアヅマと顔を見合わせ、愉しげに小さく顎をあげた。
「で? 反乱はどうなったんさ」
「――なんで俺らがここにいられると思うんだ?」
それでか、とアヅマはようやく合点がいった。竹下、竹中、どちらも閑散としていたのは、バンブーズの反乱と鎮圧の話が広まったからだろう。
「そいで、ジャックさんからプティーへ伝言だ」
ビスキーは急に冷めた落ち窪んだような瞳になった。
「『愚かなバンブーズを狩るのは実に楽しかった。礼を言ってやろう。』だとさ」
まるでそこにいるかのような口振り。狂喜にじむ笑みが目に浮かぶようだ。
プティーは小さく舌打ちし、知ったことかと表情を消し、軌条の奥を覗きこむ。
「――んなことより蒸気機関車ってのはいつ来るんだい? 噂じゃ昼の内に海まで出れるって話だけど――」
「暗いうちは走らせられないとのことでしたので、もうじき来ると思いますよ」
メリアが慰めるような目つきで言った。
しばらくすると、竹林が微かに揺れだし、軌条が震え、遠雷の如き低い唸りが聞こえた。
「お待ちかねのロコモーションが来なすったよ。バンブーズで乗ったことがある奴はすくねぇ。ジャック様の温情にしっかり感謝しやがれ」
「護衛を依頼したのはそっちだろ? あたしらは別に歩いたっていいんだ。なぁ?」
「……ああ」
心ここに在らずの返答。アヅマは歩廊に滑り込んできたそれに心を奪われていた。
両手を広げても足らない大木の如き竹稈を寝かせたような深緑の巨体。近づくものは全て断ち切らんと縦に並ぶ二枚の
白煙を吹き、金擦れの音を立てながら止まる、その威容。
オークスが魔竹で産みだした化け物を前に、アヅマは思わず息を呑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます